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「たわけ者」「バカ者」を表す“べらぼう”という言葉は、時代を経て《「甚だしい」「桁外れな」という「普通を超える」様を表す言葉に変化》したと、大河ドラマ『べらぼう』の制作統括を務める藤並英樹氏は語っている。舞台である吉原に息を吹き込む山田順子さんは、15歳で志した時代考証家への夢に向かってひたむきに歩みを重ねてきた。その思いは71歳にして結実。生きざまはまさに、“べらぼう”だった──。
若者の街・渋谷の喧騒を抜けた先にあるNHK放送センター。その一角にあるスタジオ前には、和服にカツラ姿の俳優たちが椅子に座り雑談する姿が。江戸時代にタイムスリップしたような感覚だ。
横浜流星(28)主演のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』。江戸時代の幕府公認の色里・吉原のシーンの撮影だった。
同ドラマで吉原風俗考証を担当している時代考証家の山田順子さん(71)が、花魁・花の井(小芝風花、27)が所属する女郎屋「松葉屋」のセットに向かうため、美術部が用意した手作りの階段を利用する。
「足を痛めたものだから、手すりは私のために作ってくれたみたいなんです。若い俳優さんはみんな優しくて、私がいると『先生、大丈夫ですか』って手を差し出してくれるんです」
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朗らかに笑い、勝手知ったるセットの内部を進むと松葉屋の中庭に行き当たり、こんな裏話を。
「女郎屋はどこでも同じ構造。中庭があって、縁起物の松が植えられているんです。だからこのセットも、提灯だけ替えればほかの女郎屋に早変わりできるんです」
時代考証家の仕事は、映画やドラマで描かれる時代の風習やしきたり、立ち居振る舞い、建造物や調度品などに違和感が生じないよう、考証すること。
同ドラマのこだわりの一つは、吉原大門から続く仲の町の通りだ。
「史実どおり、幅11mの道路を作ってもらったんです。ただ、あまりに広いから、混雑している雰囲気を出すためには大人数の通行人が必要になるんですね」
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通常、時代考証は大学の教授などが務め、考証会議だけ参加するケースも多いというが、山田さんはテレビ番組の構成作家などを務めた経験があるテレビマン。
「現場が大好き。だから誰よりも早くに撮影現場に入ってセットをチェックして、一日中つきっきりで立ち会ったりするんです。こんなスタイルの時代考証家は、私ぐらいかもしれません」
大河ドラマの第1作を見て時代劇ファンになり、15歳のときに時代考証家になる夢を抱いた。大学卒業後はCM制作会社に就職し、歴史のクイズ番組などの構成作家に転身して働くうちに、「歴史のことなら山田に聞け」と言われるほど有名な存在に。
ドラマ『JIN-仁-』で本格的に時代考証家としての活動を始め、『天皇の料理番』など話題作に関わり、ついに大河ドラマに初挑戦。
「『べらぼう』では、吉原の女郎たちの生きていくための力強さを感じてもらいたいんです。性を売る仕事の中であっても、いずれは身請けされたり、年季奉公があけて自由の身になることを夢見て、自分を磨き続けました。そんな、生きていく力強い姿を──」
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山田さん自身も、時代考証家になるという夢を失わずに自分を磨いたからこそ、今があるのだと振り返る。
「’53年8月29日生まれ。日本テレビが日本で最初に民間放送を開始した翌日だから、いつも人には『テレビの歴史とともに、私の歴史もある』って言うんです」
山田家にテレビがやってきたのは、山田さんが9歳のとき。
「縁側からおじさんたちがテレビを大事に抱えて運んできて、いちばんいい和室の床の間の前に設置して、布をかける。“すごいものが来た!”という感じでした」
テレビを導入した翌年、大河ドラマ第1作となる尾上松緑主演の『花の生涯』が放送された。このドラマがきっかけとなり、山田さんは歴史に目覚めた。
「それまでも映画館で美空ひばりさんの時代劇を見たりしていましたが、チャンバラしていたひばりちゃんが途中で歌い出したりするんですね。
でも、大河ドラマはそういう演出がない。“大河は嘘をつかない。これこそ本物の歴史なんだ”って思うようになりました」
学校の授業より、大河ドラマが歴史の教科書だった。すっかり“歴女”となった15歳のとき、広島市内の目抜き通りにある書店で、ふと手にした林美一氏の著書『時代考証うらおもて』が、人生の転機を与えてくれた。
「行灯の火の始末の仕方や刀の持ち方など、細部を考証することでリアリティを持たせることができると知ったんです。確かに大河ドラマを見ると『時代考証』とクレジットに入っている。それで“将来は時代考証家になろう”って決めたんです」
歴史を深く学ぶために専修大学文学部人文学科(当時)に進学した。所属したゼミの教授はプロ劇団の顧問をしていたこともあり、時代考証の仕事に理解があった。
「だから就職活動の際に相談したんです。でも、教授は“うーん”と渋い顔で『今は無理だよ。君の頭が白くなったら、できるかもね。そもそも君のような若造に“昔はこうだった”なんて指示されたくないだろう。今は知識と経験を増やすことだ』と言われたんです」
教授のアドバイスどおり、まずはテレビの世界で経験を積もうと考えた。
「就職はオイルショックのさなかでしたし、そもそも女性がテレビ局に就職することは容易ではない時代。ある制作会社の面接でも『女はいらん。地方ロケのときに大部屋で雑魚寝させるわけにもいかないじゃないか。第一、カメラの脚も重くて持てないだろう』と言われ、門前払いでした」
就職先が見つからず困っているとき、偶然、従姉妹の知り合いがCMの制作会社を起業した。
「人手不足だったから、なんとか女性でも潜り込めました。日産スカイラインのCM撮影で、靴磨きを使ってピカピカにタイヤを磨くのが人生最初の仕事でした」
当時はワイドショーの放送中、冷凍食品や洗剤などの生のCMがあった。
「60秒か90秒のCMの原稿を書いて、それにあわせてできあがった料理を箸で摘んでみたり、洗剤のキャップに洗剤を入れて実演したりと、手タレのようなこともしていたんです」
現場では男性スタッフよりも機敏に動き、重いものも持ち、とにかく大きな声を出した。
「“女性だから”という差別を感じることはありませんでした。でも、ろくにロケには連れていってもらえなかったから、裏では何かしらあったのかもしれませんね」
生CMの仕事は変化に乏しいこともあり、29歳のときに生CMのタレントに「そろそろやめようと思っている」と相談した。
すると、「うちの主人が文化放送のディレクターだから、構成作家をやらないか」とラジオの仕事に誘われた。
「主にナレーション原稿を書く仕事で、その原稿を読んだのがうつみ宮土理さん。そのツテで愛川欽也さんが司会を務める『なるほど!ザ・ワールド』の仕事が舞い込んだんです。番組冒頭の数字にまつわるクイズ1問と、番組後半に出題する国内クイズ2問を作っていました」
同時期に、NHKの鈴木健二アナウンサーが司会を務める『クイズ面白ゼミナール』の仕事も始まった。
「ある日、番組スタッフから『歴史に詳しい人を探しています』と連絡があったんです。面談では、漢文まじりの『徳川実紀』の原文を出されて『これ読めますか? 面白いところはどこですか?』と質問されたんです」
歴史好きの山田さんはそんなテストにもすんなりと答えて、見事採用となったのだ。
「『なるほど』のクイズは月曜日から金曜日までかけて新聞や雑誌で資料集めをし、専門家に連絡をして裏を取り、スタッフに提案して作成していました。『面白ゼミナール』の作業は土曜日と日曜日。NHKの資料室の本は全部読みました」
当初『なるほど』にはクイズ作家が20人ほどおり、テロップで名前が出るのは2人だけだった。しかし3年もすれば、3人目として山田さんの名前が表示されるようになったという。
「誰にも負けたくなかったから、人が家庭を持って家族サービスをする時間も、私は仕事に打ち込んでいました。睡眠時間も削ったし、そうじゃなければ女性が男性に勝つことは難しかったんですね」
だが、そんな生活を3〜4年も続ければ無理がたたり、体調を崩してしまったことも。
「30歳を超えて“このままでいいのだろうか”って立ち止まりたくなる年齢でもあったんですね。それで32歳のときに両番組とも降りて、フランスに留学したんです」
しかし、番組が山田さんを放っておかなかった。本来、留学は半年間の予定だったが、渡仏して5カ月後にはNHKから「すぐに帰ってきてくれ」と連絡があった。
帰国後、『面白ゼミナール』の仕事ぶりもあり、山田さんは“業界でいちばん歴史に詳しい人”という評判が広がっていった。再現ドラマ付き偉人伝や歴史の逸話クイズなど、ありとあらゆるクイズの仕事が舞い込んだ。
「『なるほど』のプロデューサーから『君のための番組を作りたい』と声をかけていただき、近藤正臣さん(83)や桂三枝さん(現・桂文枝、81)が出演した討論バラエティ番組『七人のHOTめだま』の構成作家を務めました」
『クイズ!年の差なんて』(フジテレビ系)など人気番組を立ち上げ、『おしゃべりクラシック』(NHK-FM)といったラジオの音楽番組にも活躍の場を広げ、テレビ・ラジオ業界での足場を確かなものにした。
一方、仕事は順調だったものの、15歳のときに抱いた時代考証家になる夢は果たせずにいた。
「単発で時代考証をすることはありましたが、大きな作品には巡り合えませんでした。
テレビ業界にはたくさんの知り合いもいましたが、私から営業をかけることはしなかったんです。時代考証というと大学教授が務めるというイメージがあるから、肩書で比較されてしまうのが嫌だったんですね。それならば、向こうが欲しいというまで待っていようと」
50代半ばとなるころには、広島に住む両親の介護生活が始まった。
「月1回ほど帰省していましたが、徐々に回数が増えて週1回になることも。かなり体力的にきつくて、仕事量も減らしていたんです」
’05年に父が亡くなり、しばらくして母が施設に入所したことで、時間的な余裕ができた。偶然にもそのタイミングで、一本の電話がかかってきた。
「『今度、江戸時代のドラマを撮るのですが、レギュラーで撮影の全部に立ち会って時代考証をしてくれる人を探しています。5カ月くらい付き合ってくださいますか』と。それが、大沢たかおさん(56)が主演を務めた日曜劇場『JIN-仁-』だったんです」
かつての恩師が予想していたように、本格的な時代考証家の仕事が舞い込んだのは白髪が目立ち始めた56歳のときだった。
(取材・文:小野建史)
【後編】『べらぼう』時代考証家(71) 50代後半で“夢の職業”に転身も「デートすらほとんどしたことがない」へ続く
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