
【モハメド・アリに初黒星を喫し、「内面から破壊された」】
現地時間2024年1月20日(土)の18時42分。私は、米国テキサス州ヒューストンのローンオーク・ストリートの路肩にレンタカーを停め、ニュージャージーに電話をかけた。
すでに日は落ち、街路灯のない通りは黒暗と表現できた。当地に立つジョージ・フォアマンの教会は、土曜日の19時、日曜日の午前10時、そして水曜日の19時が礼拝開始時刻となっている。元世界ヘビー級チャンピオンが聖書を手に、人の生き方を説くのだ。
この時、私はフォアマンのプリーチングを耳にし、翌日の正午過ぎから教会で彼をインタビューする予定となっていた。だが、教会には人の気配がない。そこで、フォアマンの実弟であるロイの携帯を鳴らしたのである。
「申し訳ない。あまりに急で連絡できなかった。兄は倒れ、今、病院にいる。絶対安静なんだ」
沈んだ声のロイは病名を明かさず、「面会謝絶で自分も会えない。メディアも誰ひとり知らないから、口外しないでほしい」と告げてきた。闇にそびえる白い壁の教会を見上げながら、嫌な予感がした――。
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その後、何度かフォアマン本人にお見舞いのメッセージを送ったが返事はなかった。リアクションが早い人だっただけに、重症だと感じざるを得なかった。そして3月21日、永眠した。享年76。
19歳で出場したメキシコ五輪(1968年)で金メダリストとなったフォアマンは、プロ転向後、38戦全勝35KOで世界ヘビー級チャンピオンになる。下した相手は、1964年の東京五輪を制したジョー・フレージャーだった。フレージャーも29戦全勝25KOで己の時代を築いていたが、フォアマンは赤子の手を捻るかのように、6度、先輩王者をキャンバスに這わせ、2ラウンドで戴冠した。
そんなフォアマンの3人目の挑戦者に選ばれたのが、1960年のローマ五輪で金メダルを獲得したモハメド・アリだ。プロデビュー以来、20連勝を飾って世界ヘビー級王座に就いたアリだが、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことからタイトルを剥奪される。最高裁で無罪を勝ち得てカムバックしたが、3年7カ月のブランクは大きく、フォアマン戦を迎えるまでに17戦してふたつの敗戦。キャリア初黒星の相手は、フレージャーだった。
フレージャーを座標軸に考えても、25歳で上り坂のフォアマンに32歳となったアリは敵わないと見られた。しかし、強打をブロックしてスタミナを奪うアリの策がハマり、ヒューストン出身の25歳は8ラウンドKOで敗れる。ボクサーとして順風満帆に歩んできたフォアマンにとって、敗北は自身を粉々に打ち砕いた。
初めて私がフォアマンをインタビューした1998年の夏、牧師となっていた彼は振り返った。
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「負けるってことが信じられなかった。自分が内面から破壊されてしまった。ジョージ・フォアマンという人間がわからなくなった。自分はもう、何も成すことができない人生の敗者なのだ、としか感じなかった。
苦しみ抜いてひとつの答えに行き着いた。あの日のアリには、私に無いものーー、"経験"――があった。アリが私よりも強かったのは『敗北の意味』を知っていたからだ。彼も敗戦に打ちのめされ、それを乗り越えて私との試合を迎えていた。負けを知り、そこから這い上がったファイターは強いのさ。ボクサーとしてだけでなく、人間としてもね。そのうち私も、『人生に負けた訳じゃない。1試合落としただけだ』と考えられるようになった」
【牧師になったあと、38歳でカムバック】
アリとの再戦を目指して復帰ロードを進むなか、フォアマンは1977年3月に2度目の敗北を喫し、試合直後の控え室でキリストの啓示を聞いて牧師となる。教会を築き、さらには未来の見えない若者を支えようと、ユースセンターをオープンして問題児たちと触れ合った。
フォアマン自身、夢も希望もない子供時代を過ごした。7人の子供をシングルマザーが養う家庭は貧しく、中学をドロップアウトし、通りすがりの人から金を奪っては食料を買う日々を送っていた。
そんな彼に前を向かせたのは1本のテレビコマーシャルだった。第36代アメリカ合衆国大統領、リンドン・ジョンソンが設けた職業訓練校への入隊を呼びかけるNFLスター選手のひと言である。
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「キミにもセカンドチャンスがある!」
16歳のフォアマンは、この言葉に懸けた。親元を離れ、未成年者向けの職業部隊の一員となる。そこでボクシングと出会い、人生を変えるのだ。富を得たフォアマンが心血を注いだのは、布教活動と並んで、かつての自分と同じような境遇にある若者を支えることだった。
が、会計士の横領や、かつての恋人に訴訟を起こされるなどして、破産寸前に追い込まれる。カネを作るためにと、37歳にしてカムバックを決めた。
「教会とユースセンターを維持するために決めたリング復帰だった。私を望んでいる人のために、闘おうと思った。体はどこも痛んでいなかったし、自信があったよ」
冷笑する人も少なからずいたが、フォアマンは"闘う牧師"として復帰後に24戦全勝23KOで、1991年4月、42歳にして統一世界ヘビー級王者のイベンダー・ホリフィールドに挑む。判定で敗れたが、28歳のチャンピオンと一歩も引かずに打ち合ったスピリッツは全米中を感動の渦に包み込んだ。
彼の物語は、そこで終わらなかった。1994年11月5日、45歳のフォアマンは、ホリフィールドを下して新チャンピオンとなったマイケル・モーラーに挑戦。第10ラウンドに右ストレート1発で、26歳のモーラーをキャンバスに這わせ、世界ヘビー級タイトルを奪還する。
大金星を挙げても、「自分はフルタイムの牧師であって、パンチャーであるのは仮の姿だ」とおどけていた。
【アリの他界に「自分の一部がなくなったように感じた」】
2016年6月3日、アリが敗血症ショックで永眠した直後に連絡を入れると、「気持ちの整理がつかない」との返事だった。
2018年3月にヒューストンを訪問した私に、フォアマンは言った。
「アリが他界し、自分の一部がなくなったように感じた。時間が過ぎた今は、『彼は自分の身体の中に生きている。アリは私の中にいるんだ』と思うようになった。この瞬間も、そう感じながら生きているよ。
ただ、当初、私はアリを理解できなかったんだ。アメリカ合衆国は、中学さえまともに通わなかった私に教養を与えてくれ、ボクシングと出会わせてくれた。自分で"切り拓いた"というよりも、国からチャンスをもらった。職業部隊には退役軍人がたくさん勤務していた。学業を教えてくれる先生も、ボクシングのコーチも愛国者ばかりだった。
だから忠誠心を叩き込まれたし、私自身、合衆国には感謝の気持ちでいっぱいだ。地元ヒューストンで犯罪に手を染めていた少年に、人生をやり直す機会をくれたのさ。そのうえ、19歳でオリンピックの金メダリストになることができた。愛国心が強いのは当然だよ。だから、反アメリカを唱え、徴兵を拒否したアリの思いが分からなかったんだ。
とはいえ、拳を交え、やがて"人間・アリ"と接して『他者から愛されることが、いかに大事か』ということを学んだ。彼は人が好きだった。アリ以上に、他者から愛された人間っていないんじゃないか。カムバック後は、私もアリのように愛されるキャラクターになろうと努めた。アリからは、人を愛し、また愛されて、人生を楽しく生きろ、と教わったよ。あんなにエキサイティングな人は見たことがない」
【人間として"BIG"だった男】
2018年3月のヒューストンには、前年の8月に当地を襲ったハリケーン「ハービー」の爪痕が至るところに残っていた。テキサス州では103名が命を落とし、被害総額は1250億ドルに上っている。
ハービーが直撃した際、フォアマンは自身のユースセンターの扉を開け、「避難所として使ってくれ」と、被害に遭った人々を受け入れた。400人強がジョージ・フォアマン・ユースセンターで避難生活を送っている。
フォアマンはひとりひとりに水や食料を用意し「どれだけ長くなってもいいので、ここを使ってほしい」と伝えた。
「被害に遭った方々は、2カ月くらいユースセンターで過ごしたかな。いつも共に生きているのだから、隣人としてベストな振る舞いをしたいと思っている。隣人たちのために、できることを最大限やる。人間にとって自然なことさ」
2018年3月のインタビュー時、ユースセンターで避難生活を送っている人はもういなかった。フォアマンは、地元メディアに支援活動を取り上げられることを拒否していた。売名行為でやっているわけではなかったからだ。
ジョージ・フォアマンは、ボクサーとして強かっただけではない。"BIG George"のニックネーム通り、人間として大きかった。そんな彼は、春を愛した。小鳥の囀(さえず)りに幸せを感じると話していた春に召された。
「私とアリとフレージャーは3人でセットだ」という言葉が思い出される。今、3名の拳豪は、黄泉の国で再会しているのだろう。
合掌。