2025.2.6/東京都渋谷区のヤマハサウンドクロッシング渋谷8階ラウンジにて【東京都渋谷区発】有名なジャズバンドのサックス奏者を父に持つ松武さん。運命の導きで入社したのは、とある作曲家の事務所。それが後に日本のシンセサイザーの第一人者と呼ばれることになる、冨田勲さん(2016年没)の事務所だった。入社したその年、冨田さんが、日本で初めてシンセサイザーを米国から輸入することになった。それは、松武さんが大阪万博を見て帰る途中のレコード店で聴いて衝撃を受けた、まさにその楽器だった。そこからシンセサイザー人生が始まる。厳しい「師匠」は、自分の音をつくれと、模倣すら許さなかった。
(本紙主幹・奥田芳恵)
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●父親の紹介で就職したのは
偶然にも冨田勲氏の事務所だった
最初に就職なさったのが冨田勲さんの事務所だったと伺いましたが、やはりシンセサイザーに興味があったからなんですよね。
それが、まだ冨田先生がシンセサイザーを購入される前のことで、たまたまなんです。父が、ジャズバンドの原信夫とシャープス&フラッツのサックス奏者で、ミュージシャンでした。その後、芸能プロダクションのホリプロに就職しました。そこには女優の本間千代子さんもいらしたんです。実は本間千代子さんのお姉さんが冨田先生の奥さんなんですね。そんな関係もあって、父が冨田先生の事務所を紹介してくれることになったのだと思います。事務所の社長も本間さん。本間千代子さんのお兄さんでした。
まさに運命的な出会いですね。
僕が就職した1971年の秋に、冨田先生がシンセサイザーを購入することになりました。それが、モーグ社の「III-P」だったんです。僕が大阪万博を見に行った帰り、レコード店で聴いて衝撃を受けた曲を演奏していたシンセサイザーそのものだったんですよ。そんなことがあるのかと驚きました。
今度は運命的な再会を経験されたわけですね。実物をご覧になってどうでしたか。
もうびっくりしました。夢みたいな話で。あの、スイッチト・オン・バッハを鳴らした機械が、先生の家の床の間に飾ってあって…。
すぐに触らせてもらえたんですか?
自分から触らせてください、とは言えないじゃないですか。すると冨田先生が「松武君。僕は寝なきゃいけないから、寝てる間は触っていいよ」と(笑)。
寝ている間だけ、ということなら、操作しながらいろいろと教えを乞うわけにもいきませんね。
起きている間ですら何も教えてくれないんです。先生自身もよく分からなかった、という部分もあると思うんですが。そもそも、全部分かっている人なんて誰もいないんです。まず何の音をつくるかっていうのを決めて、試行錯誤しながら音を出しては全部書き留めていくんですよ。今みたいにメモリーに記憶したりできないんで。そのノートは今でも残っています。
今ならスイッチ一つでいろいろ音を切り替えられるんですよね。
まず最初から完成した音があります。それを加工して自分の音に変えていく、というのが今のやり方です。
当時は最初の音というものがなかったんですね。
冨田先生に「松武君は音楽の設計図は書けるのかい」と聞かれたことがあります。「設計図は、どんなアートにも必要なんだよ。音楽もアートの一つなんだから設計図が書けないと、何もつくれないんだよ」とね。
音楽の設計図とはどんなものなんですか?
頭の中にあっても、描いたものでもいいんですが、音のデッサンのようなものです。オーケストラの楽器は完成していて、音域も決まっています。バイオリンはバイオリンの音です。聴けば誰でも分かる。ところが「シンセサイザーの音」って、実はないんですよね。だからゼロから組み立てていく。シンセサイザーをやっていて一番悩むところです。だからこそ、人とは違う音が完成した時の喜びはひとしおです。
大抵のアートは模倣からでしょう? まずは冨田さんの音づくりを学ぶことからですよね。
ある日、先生の音と同じような音を出したくて悪戦苦闘していると、冨田先生が「僕と同じ音をつくろうとしてるのか? 僕の音と同じものをつくったって意味ないよ。自分の音をつくんなきゃダメだ。人のまねなんかしてもしょうがない。君の音をつくりなさい」と言ったんです。
●惨敗したYMOのファーストアルバム
冨田先生は「君の音がつくれた」と絶賛
君の音とおっしゃいましても…という感じですよね。
78年にリリースしたイエロー・マジック・オーケストラの最初のアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』は、僕が音づくりを担当して、メンバーと一緒に苦労してつくり上げました。ところがこれ、全然売れなかったんです。世間では「何じゃこれは」という扱いでした。ましてや歌唱のないインストルメンタル。売れないはずです。ところが、冨田先生に聴いていただいたら、最初の言葉が「ああ、君はやっと自分の音がつくれたんだね」。あれは嬉しかったですね。先生は、多分それを期待していたんでしょう。あの言葉があったから、これまでシンセサイザー音楽を続けてこられたんだと思います。
お父様はミュージシャン。お母様はどんな方なんですか。
母はビクターレコードのプレス工場に勤めていました。父の仕事柄、家にもジャズのレコードがたくさんありました。そうした影響もあって、僕も中学のころから、ブラスバンドでトランペットを吹いていました。でも母は「頼むからミュージシャンにだけはならないでくれ。家庭が壊れちゃうから」と。父の様子を見ていて、普通のサラリーマンになってほしかったんでしょうね。結局、ミュージシャンになっちゃいましたけど(笑)。
これからの目標をお伺いしてもよろしいですか。
やっぱりシンセサイザー音楽を続けていきたいですね。今、各メーカーがしのぎを削って開発している電子楽器が、ここ数年の間に爆発的に進化しそうな予感がしているんです。特にAIを使った技術には注目しています。
AIは、きっとアートの世界も大きく変えるんでしょうね。
YMOのお三方のうち、お二人はもういなくなってしまった。でも、三人が生きていたら、今何をやっていたか、なんとなく想像できるんですよ。彼らの延長線のような作品をつくってみたいですね。
それは冨田さんの作品にも言えますか。
実は冨田先生は立体音響にこだわっていらしたんです。実際にいくつかの作品でトライされています。今でこそ立体音響の技術はドルビーサラウンドやAURO-3Dなど、たくさんの再生システムが出てきていますが、そういった技術がそろわないうちに他界されてしまいました。立体音響には、瞬時に音をコントロールできるシンセサイザーが、とても適していると思うんです。先生の遺志を継いで、真の立体音響を体験できるような作品をつくってみたいですね。
二通りの、新しい音にあふれる作品、楽しみにしています。
●こぼれ話
今回の対談相手は、「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)第4の男」松武秀樹さん。シンセサイザーのプログラマーとして、YMOの楽曲制作やライブを支えた人物である。熱心なファンから事前にいろいろと情報を聞いてしまっていたこともあって、お会いするのになんとなく恐縮してしまう。どんな方だろう…。ドキドキしながら、再開発で様子がすっかり変わってしまった渋谷をさまよう。「あれっ、約束の時刻に間に合うかな!?」。途中から違うドキドキが混じり始める。昨年できたばかりの渋谷サクラステージ内SAKURAサイドにある、ヤマハサウンドクロッシング渋谷に無事到着すると、松武さんはスタッフの方と談笑しておられた。その雰囲気のまま、和やかに対談が始まる。
私は、1970年代のシンセサイザーを見たことはないが、写真で見る限りたくさんのツマミが並んだ実験装置のようで、楽器とは思えない見た目である。手探りで操作を少しずつ覚え、音をつくっていく難儀さは想像以上であったことだろう。音を出してみては加工を繰り返す取り組み方は研究者のようでもある。音をつくっても再現するのがこれまた難しい…。自分の音をつくり上げるというのは、なんと根気のいることであったか。
YMOのライブでは、オリジナル曲を忠実に再現できないため、結果的にファンはいつも新しい音楽に出会うことができたそうだ。ライブの醍醐味であり、とても贅沢なことではないか。スイッチ一つで再現できない不便な時代が、逆にうらやましくも感じる。
対談を終えて、特別にヤマハの自動演奏ピアノで坂本龍一氏の演奏を再現した「戦場のメリークリスマス」を聴かせてもらい、しばし松武さんとその演奏に聞き入った。YMOの大切なお二人が旅立たれ、寂しさを感じているという松武さんではあったが、創作への意欲を決して失うことはない。AIへの期待に話が及ぶと、いっそう目が輝いておられた。過去、実現が難しかったこともやりやすくなって、さまざまなことが可能になった。シンセサイザーの可能性はまだまだ広がっていくと、わくわくしながら未来を語っておられた。これから先も何か新しいことを成し遂げそうだ。
(奥田芳恵)
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
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※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。