小室圭氏は母の著書について何を思うのか 写真/産経新聞社 なつかしい再登場だ。息子・圭さんと眞子さんが渡米してから大きな動きがなかった小室佳代さんの自伝的エッセイ『ブランニューデイ あたらしい日』(内外出版社)が2月6日に発売された。
佳代さんといえば、夫である敏勝さん、そして義両親と、近しい3人が自死したという闇の深さが衝撃的。ほかにも、交際男性との金銭トラブルや遺族年金詐取疑惑、労災の問題などで世間を騒がせてきた存在である。
彼女の自伝となればそのあたりについて書かれた内容が期待されるが、同書でそれらはまったく触れられていない。基本的には、“皇室とご縁を結んだ息子を育てた母”が明かす半生……というノリで綴られている。
◆佳代さんが憧れたライフスタイルを綴った自伝?
学生時代の佳代さんは、家族でさまざまなお店を食べ歩きし、週末は店内で生バンドの演奏を楽しんでいたそうだ。生バンドが入る飲食店を家族の行きつけにしていた……なんとも、ハイソな思い出ではないか。
のちに夫になる敏勝さんとの出会いについて、「彼は私に『おっとりしたお嬢さん』という印象を持っていたようです」と綴っている。本当か? 漏れ伝わるエピソードからでき上がった“強欲な魔女”という佳代さんのイメージとあまりにも乖離がある。
敏勝さんの死後、職を探した佳代さんはフレンチレストランのスーシェフ(副料理長)のポジションを打診されたものの、保障の部分が整わなかったので断念したらしい。社会人経験のない女性が過酷な職場であるフレンチの厨房でいきなり副料理長の職をオファーされたというのもにわかに信じがたい。
つまり、この本で描かれた半生は小室佳代の実体験ではなく、彼女が憧れたライフスタイル、もしくは自身が発信したい自己像のみで彩られているのではないか? と疑念が残るのだ。嫌でも勘ぐらざるを得ない話ばかり登場する。佳代さんが望む自己像と客観的に見た人物像に凄まじい乖離があるから、戦慄を覚えるのだ。
◆本のタイトルはサザンオールスターズのヒット曲から引用
世間にはおなじみ“強欲な魔女”像との温度差が激しいのは、内容だけではない。目次を見ると、「ラブストーリーは突然に〜夫との再会〜」「You’er everything〜愛しき人との別れ〜」「What A Wonderful World」など、名曲のタイトルを引用した見出しが各項に付けられていた。
有名曲のタイトルをこうも自由に見出しに使って権利的に大丈夫? と不安になりつつ、彼女の過去の行いと見出しが醸し出す世界観の次元が違いすぎて、底知れぬ怖さを感じてしまう。
言うまでもなく、本のタイトル「ブランニューデイ」はサザンオールスターズのヒット曲「ミス・ブランニュー・デイ」からの引用である(敏勝さんの葬儀ではこの曲を繰り返し流したそう)。
過去のことしか書かれていないのに「ブランニューデイ あたらしい日」というタイトルはいかがなものか? という気がするし、そもそもサザンのこの曲は新しい日を歌う内容ではなかったはずだ。新しいブランドや流行を追い求め、同じような髪型やファッションに身を包むモブキャラのような人たちを皮肉った曲である。
誰がどう見てもモブキャラではない佳代さんの自伝としては、かなりトンチンカンなタイトルだろう。
◆清廉で真摯であることを大切に、今までのように生きていく
2017年5月、圭さんと眞子さんの交際が公になった。眞子さんにプロポーズしたことを息子から打ち明けられた佳代さんは、「この生活を乱されたくない」「一体どうなってしまうのかしら……」と不安がよぎったと回顧している。
佳代さんが起こした数々の金銭トラブルを知ったうえでこのくだりを読み返すと、なかなか意味深である。乱されたくない「この生活」とは、他人にまとまったお金を無心してきた日々を指しているのだろうか?
しかし、この不安を受け止め、前を向いて歩いていくと決心した佳代さん。
「私は私でしかないのです。清廉であること、真摯であること、それらを大切にして、今までのように生きていこう」
まるで、今までが清廉で真摯であったような書きぶり! 金銭トラブルにまともに向き合おうとしていなかったし、この言葉とは正反対の対応を取った事実は多くの人が知るところなのだが……。
◆「彼女」「息子の配偶者」という呼び方で通しているのは…
そして、佳代さんの心境は以下のような境地へと行き着いた。
「『真っ直ぐな気持ちで人を愛し、その人を守っていきたい』息子のそのような想いを、私がどうして否定することができるのでしょう」
いや、誰も佳代さんが否定しているとは思っていないのだけれど……。それどころか「この好機を絶対に逃さない!」という気合いを察し、「佳代さんの決意は変わるわけがない」と国民は確信していたくらいだ。
そんななか気になるのは、同書における眞子さんの呼び方である。素直に「眞子さん」ではなく「彼女」「息子の配偶者」という呼び方で通しているのだ。
先方に気を遣った、その表れかもしれない。ただ、確かに関係性としては誤りではないが、秋篠宮家の長女を「彼女」「配偶者」呼びするのはなんとも……。
◆「私がいなくなればいい」と思っていた佳代さんが自伝を出版
書籍の後半では、マスコミに追われた日々や世間からのバッシングについて言及している。
「家から出るのが怖い。家に居るのも怖い。職場への通勤も怖い……」
「『いっそ、私がいなくなればいいのかもしれない』と、自分を否定する日々でした」
あくまで“被害者”という立ち位置であの頃を振り返る佳代さんだが、彼女を被害者として見てくれる人は少ないと思う。人はなにを言ったかではなく、なにをやったかで判断される。そして、彼女と関わった人たちが軒並み悲惨な目に遭っているという事実。これは、どうしても見過ごせない。
そもそも、「いっそ、私がいなくなればいいのかもしれない」と言っている人が静かにひっそり暮らそうとするのではなく、忘れられた頃にわざわざ自叙伝を出したのも不可解だ。本の内容と、再び注目を浴びようとしている行動が矛盾している。いい言い方をすると、佳代さんの計り知れない鋼のメンタルに敬服である。
◆誰をターゲットに、なぜこの本は出版されたのか?
この本を読み終えた感想は、綺麗事に終始した内容だったということ。数々の疑惑については言及せず、「こういう私でありたい」という願望で彩られた半生が綴られていた。
それは自伝というより、印象操作を目的としたPR書籍でしかない。自伝と称しているのに、自分に関する核心の部分を語っていないのだ。この本は、いっそのことフィクションとして読んだほうがいいかもしれない。人々が一番知りたいことは書いていないのだから、どんな層をターゲットにしているのかも謎の本だ。
『ブランニューデイ あたらしい日』を発売した内外出版社のホームページを閲覧すると、この本をまったく宣伝していなくて驚く。あまり売る気がないように見えるのだ。主に自動車や釣り関係の雑誌を発行している同社が、どんなモチベーションでこの本を出したのかも謎だ。
<TEXT/寺西ジャジューカ>