長嶋茂雄さん「プロ野球は阪神が強くないと、面白くありません」“ミスター”が目指した一番のファンサービス

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2025年06月23日 12:03  TBS NEWS DIG

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「ミスター」の愛称で昭和のプロ野球全盛期を支え、国民的スターだった長嶋茂雄・巨人終身名誉監督が、今月3日に亡くなった。89歳。現役時代は「燃える男」としてチームの日本シリーズ9連覇に貢献。監督としても5度のリーグ優勝と2度の日本一に。巨人一筋に歩んだ球界人生だったが、実は少年の頃から永遠のライバルと言われる阪神球団が大好きだったという話をよく聞いた。

平成になり、2度目の指揮をとっていた1990年代後半。試合前や遠征の移動中などに、メディアの担当記者を引き連れて歩く長嶋監督は、よく昔の話をしてくれた。私もその中にいる1人だった。

「僕は、ねぇ。元々は守備位置がショートだったんですよ。でも、下手でね。それでサードをやることになったんです」。本人が眉を動かしながら、大声で笑い出すのが常だった。

故郷の千葉県印旛郡臼井町(現佐倉市)で野球を始めた頃の茂雄少年には、夢中でボールを追いかける中で憧れる選手がいた。それが、プロ野球がまだ「職業野球」と呼ばれていた時代に阪神の前身である大阪タイガースの創設に加わった藤村富美男だったという。

「物干し竿(ざお)と言われる長いバットから豪快な打球を飛ばす人でした」

初代「ミスタータイガース」と呼ばれた藤村は、投手と内野手、外野手を兼ねる今のMLBロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平のような「二刀流」の選手だった。1949(昭和24)年には46本塁打、142打点、3割3分2厘で本塁打王、打点王とMVP。翌50年には当時のプロ野球記録となる191安打を放ち、39本塁打、146打点、3割6分2厘で首位打者を獲得した。

代名詞にもなっていたのが95センチ近いと言われた長尺バットだ。ゴルフクラブからヒントを得て特注したという通称「物干し竿」を振り回し、「ダイナマイト打線」と呼ばれたチームの主軸で長打を連発する。創成期の球界で爆発的な人気を誇るスターだった。

その頃は日本国内でまだテレビ放送自体が始まっていない時代。プロ野球も国民的スポーツになるには、成長した茂雄少年の登場を待たねばならない頃だった。そんな少年時代のことを振り返る時に、その笑顔は一段と輝いた。

「家の近くの竹やぶで竹を長めに切ってきて、『物干し竿だ』って言ってバット代わりにするんです。テレビがまだなかったので、ラジオを縁側に置いて、庭で阪神戦の中継を聞く。気分はもう藤村富美男ですよ。アナウンサーの『打った〜。ホームラン!』という実況を聞きながら、自分が藤村富美男になり切って竹のバットを気持ちよく振る。そして、ボールを追うように空を見上げて遊ぶ。楽しかったですねぇ〜」

プロ入りすると、その好きだった阪神との対戦は「伝統の一戦」と呼ばれて、異様な盛り上がりを見せるようになる。特に「長嶋伝説の始まり」と言われるのが2年目の59(昭和34)年に、後楽園球場で行われた初の天覧試合だ。天皇、皇后両陛下をお招きした舞台で、4-4の九回裏、先頭打者として打席に入った背番号3は阪神のエース村山実から左翼席ポール際に劇的なサヨナラ本塁打を放った。まさにこれが球史に残る一発となった。

この日は五回にも同点本塁打しており、2本塁打。ちなみにこの年が新人の王貞治も七回に本塁打した。それが、その後に「ON」として球界を支える2人の初の「アベックホーマー」でもあった。

事あるごとに語られるこの伝説の試合についても、話を振ると気軽に思い出を語ってくれた。「あの時はナイターだったんですよ。だから、『このまま同点で延長戦に入ってしまうと、決着が着く前に陛下が帰られてしまうかもしれない。ここで決めなきゃあダメだ』と思って、打ちましたよ」。いつもの少し甲高い声が、普段以上に嬉しそうに響いた。

当時の長嶋監督は、その阪神の本拠地である甲子園球場にも特別な思い入れを持っていたようだ。地元の佐倉一高(現佐倉高)に進んだ球児時代に、全国高校野球選手権に出場できなかったからだけではない。「対戦相手だけじゃあなく、ファンも巻き込んで勝負するのがプロ野球」との思いをいつも持っており、どの球場よりも熱狂的になるファンが多いことを喜び、評価していた。

もちろん周りは阪神ファン一色だ。だが、「どこの球場に行っても僕のファンはいてくれるのですが、甲子園は一際、『頑張れ、ナガシマ〜』という声援が大きいんですよ。それがライトスタンドからも聞こえてくるんです」

試合中の私らはバックネット裏の中段辺りに設置された記者席にいたが、そこから球場全体を見回すと、左翼外野席の一部に相手チームのファンが陣取るのが見える程度。ましてや阪神側の右翼の客席は応援歌である「六甲おろし」の大合唱が行われるなど、虎ファンが息巻いていた。

確かに関西にも巨人ファンもいたし、その頃の監督は国民的ヒーローではあった。とはいえ、阪神ファンの聖域ともいえる右翼外野席から流れてくる巨人贔屓の声援はほぼ皆無だったと記憶している。それでも監督は、「ベンチではそれが聞こえる」と言っていた。

ともかく大観衆が声援、鳴り物で大興奮する球場だ。「満員のファンが盛り上げて、すごい雰囲気になるあの感じ。あの素晴らしい甲子園の雰囲気を、(巨人の)選手たちみんなに味合わせてやりたいんです」。兵庫県芦屋市にあった阪神戦の宿舎から移動する際に、自らにも言い聞かせるように話してくれたものだ。

本人は現役時代からそういう異様とも言える興奮状態にある空気感の中で試合をするのが、楽しくて仕方なかったのだろう。相手チームへの大歓声があっても、それを自らのエネルギーに変えてしまう。大人になっても天真爛漫で勝ち負けの緊張感よりも、少年時代から感じていた野球の醍醐味に浸る恍惚感のような感情をいつも大切にしていたのだと思う。

そういえば、92年のドラフト会議で中日、ダイエー(現ソフトバンク)、阪神との4球団競合の末に長嶋監督が引き当て、愛弟子として育てたのが松井秀喜だが、実は彼も石川・星稜高時代は阪神ファンだった。それが巨人入りし、球界を代表する選手に成長。同じ過程を歩んだ師弟は、2013年にそろって国民栄誉賞を受賞する。これも何かの因縁、めぐり合わせだったのかもしれない。

「プロ野球は阪神が強くないと、面白くありません」

「それは何故、ですか」という私の問いに当時監督は、言葉では答えず、「ウウン」と少し顔を傾けながら微笑んだ澄ました表情でスタスタと歩き去った。まるで、「そんなこと分かっているでしょう」と言わんばかりに。

強い阪神相手に強い巨人が対戦し、球場に足を運んだ満員の客席を魅了する。それが「ミスタープロ野球」が目指した一番のファンサービスだったのではないか。あの時に「裏」は取れなかったが、そう信じている。

(竹園隆浩/スポーツライター)

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