自身が開拓した土地に立つ市川渥夫さん。現在、市川さんから畑を借り受けた農家がレタスを栽培する=7月23日、長野県軽井沢町 「戦後が一番つらかった。なぜ軽井沢で再び開拓民になったのか」と語る市川渥夫さん(90)。幼少のころ国策で旧満州(中国東北部)に渡り、引き揚げ後に入植した大日向開拓地(長野県軽井沢町)での生活は苦難の連続だったと振り返る。
市川さんは1934年、同県大日向村(現佐久穂町)に生まれ、満蒙開拓団として38年、両親ら家族7人と満州大日向村(現吉林省舒蘭市)に移り住んだ。しかし、45年8月のソ連侵攻で情勢が一変。寒さや飢えに襲われ、疫病が原因で多くの日本人が命を落とす中、父と姉2人を新京(現長春)の収容所で亡くした。決死の逃避行だった。
帰国後、12歳になった市川さんは母親、姉と浅間山の麓に広がる国有林へ入植した。元団員165人とゼロからのスタートだった。人の手でカラマツ林を伐採。電気も水道もなく、簡素な小屋で集団生活を送りながら不毛の大地を耕した。ジャガイモやソバでは収入が得られず困窮した。学校で物がなくなると、同級生から「引き揚げ者がやった」と陰で悪口を言われた。高校進学を諦め、冬は出稼ぎで家計を支えた。60年代の高度経済成長期に入ると、キャベツなどの高原野菜の生産が軌道に乗り、暮らしが安定した。一方、別の仕事を求めて離農者が増え、市川さん自身も40代に脚のけがを機に土木業へ転身。畑作に不向きな土地は別荘地などに転用され、開拓地の風景も時代の流れに合わせて変わった。近年、団員の高齢化で開拓初期を知る者も10人以下に。市川さんは「大日向の歴史を伝えなければならない。若い人たちに同じ思いをさせたくない」と言葉をかみしめた。

浅間山を望む大日向開拓地。満蒙開拓団の引き揚げ者がカラマツ林を切り開いた=7月23日、長野県軽井沢町(小型無人機で撮影)

キャベツやレタス畑が広がる大日向開拓地。火山灰を含む土壌のため、土地改良に時間と手間がかかったという=7月22日、長野県軽井沢町(小型無人機で撮影)

満蒙開拓団の供養塔に手を合わせる市川渥夫さん。今年6月、市川さんは慰霊のため団員2世らと中国の地を踏んだ。「若い人たちに開拓の記憶を伝えたかった」=7月22日、長野県軽井沢町の大日向開拓地