限定公開( 55 )
表紙には昆虫や花の写真、裏にはちょっとした解説が掲載されている――。「先生の授業内容は忘れてしまったけれど、このノートのことは覚えているよ」といった人も多いかもしれない。ショウワノートの「ジャポニカ学習帳」である。
ジャポニカ学習帳は1970年に登場し、累計14億冊を販売してきた。長年にわたって、昆虫や花の写真を掲載してきたが、この11月に大幅にリニューアル。表紙から写真は姿を消し、イラストに変更するのだ。
7月下旬、リニューアルを発表したところ、どんな反響があったのか。「『子どもの興味の入り口』として、写真のままでいてほしかったなあ」「表紙の写真は魅力的だったので、イラストに変更するのは残念」など、変更に対してネガティブな声が多く寄せられた。「反対の声はある程度、想定していた」(担当者)そうだが、それでもなぜこのタイミングでリニューアルを決断したのか。
大きな理由は、2つある。1つめは、昔と今の子どもたちの事情が違うことだ。ノート売り場で目立つのは、人気キャラクターが描かれたものや、かわいい動物のイラストばかり。「子どもの教育にとって、自然の写真がいい」といった考え方は、どうやら時代遅れになりつつあるようだ。
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さらに、少子化で子どもの数が減り、タブレット端末を使った学習も広がる。こうした環境の変化によって、ジャポニカ学習帳はじわじわと追い込まれていたのだ。
もう1つの理由は、2022年暮れの出来事である。長年、表紙の写真を撮り続けてきた山口進さんが亡くなった。「ジャポニカの表紙といえば、この人」といわれた存在が亡くなったことも、ひとつの区切りとなったようだ。
●わずか3年で売り上げは27倍に
学習帳の売り上げが減って、表紙の写真を手掛けてきた写真家が亡くなった。リニューアルのきっかけとしては十分だったと思うが、社内ではさまざまな意見が飛び交った。
「花の代わりに動物の写真はどうか」「いっそイラストだけにしよう」「写真とイラストをコラージュ風に混ぜるのはどうか」「このまま山口さんの写真を使い続けようよ」など。しかし、話がなかなかまとまらなかったのには、理由があった。「歴史」である。
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先ほど紹介したように、ジャポニカ学習帳が登場したのは1970年のことである。当時の担当者は、小学館の『ジャポニカ百科事典』(のちに休刊)に目をつけた。「ノートに百科事典の一部が掲載されていると、子どもたちは喜ぶかもしれない」といった仮説を立て、表紙はイラストではなく、百科事典に使われている写真を掲載した。
「学習帳+百科事典」という斬新なアイデアだったわけだが、売り上げは苦戦していた。そうした状況の中で、ショウワノートはテレビCMを打つことに。ただ、広告予算があまりなかったので、ゴールデンタイムにCMを流せず、昼の時間帯に狙いを定めた。当時『女のうず潮』(朝日放送)というドラマが放送されていて、その枠でCMを流すことにしたのだ。
お昼ご飯を食べながらテレビを見ていると、ジャポニカ学習帳のCMが流れてくる。それを見た文具店の奥さんが「なにこれ! いいじゃない!」となって、知名度が一気に上がったという。
「CMを流すだけで、そんなに売れたの? 昭和っていい時代だなあ」などと思われたかもしれないが、実はターゲットにきちんとササっていたのである。小学生のノートを買うのは、誰か。高学年にもなれば、文具店で気に入ったノートを購入することも考えられるが、低学年の場合、親と一緒に、または親が買ってくるケースが多い。
昼のドラマを見ているのは、小学生のお母さん。そのお母さんがCMでジャポニカ学習帳を知り、店頭で購入する。こうした流れが生まれて、わずか3年で売り上げは27倍に伸びたのだ。
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●表紙から「昆虫」が消えた理由
ジャポニカ学習帳の歴史を紹介する上で、どうしても外せないエピソードがある。ご存じの人も多いかと思うが、2012年に表紙から「昆虫」が消えたことである。
当時の報道を見ると、教師や保護者から「幼虫がグロい」とか「チョウチョの模様がキモい」といった声があったそうだ。こうした意見を受けて、ショウワノートは学習帳の表紙に昆虫を採用しなくなった……などと報じられた。
しかし、真相はちょっと違う。保護者からは「娘がチョウチョが苦手でして。違う表紙はありますか?」といった声があり、学校の先生からは「クラスでノートを配ったのですが、数人がどうしても昆虫がダメでして。もし違う写真があれば、それを使いたい」などの意見があった。
もうお気付きだと思うが、これはクレームではなく、問い合わせの類である。ただ、2000年代に入って、「昆虫が苦手」という声が増えていて、ショウワノートは時代の変化を感じていた。表紙から少しずつ昆虫を減らしていて、2012年に姿を消したという話である。
……とまあ、ややまわりくどい話になってしまったが、ジャポニカ学習帳は今年で発売55年を迎える。長く販売しているといろいろなことがあるわけだが、その歴史の重みによって、リニューアルがなかなか進まなかったようだ。
社内からは「緑色の表紙と写真がなくなれば、ジャポニカではない」という声もあれば、「イラストのほうがかわいい。今の子どもたちに合っている」という意見もあった。
分かりやすく言えば「伝統を守る派」VS.「今こそ変えるべき派」の構図である。「ジャポニカ=緑」「表紙=写真」「裏=解説」――。このフォーマットが長く愛されてきたので、個人的には「伝統を守る派」の意見もよく理解できる。
ただ、その一方で、売り上げが苦戦しているという課題がある。担当者の岸田愉美さんは「もしリニューアルをしなければ、存続が難しい未来が待っているかもしれません。そうなってはいけないので、このタイミングでリニューアルを決断しました」という。
そして、アイデア出しに2年、制作に3年。合計5年を費やし、ようやく生まれ変わった。寿司職人が一人前になるのに10年ほどかかると言われているが、それよりかは短い。それでも子どもが小学生から中学生に上がるくらいの年月である。
対象となったのは39種類。科目ごとに色分けして、表紙はイラスト、裏表紙には従来通り写真と解説を残した。表は令和、裏は昭和。ひっくり返すと、まるでタイムスリップしたかのような仕様である。
●大切なポイントは3つ
ジャポニカ学習帳をつくる上で、大切なポイントを3つ紹介しよう。1つめは、編集作業。通常のノートと違って「解説」があるので、その表現には注意を払っている。発売後に、内容が変わることもあるので、そのたびに改訂を繰り返しているのだ。
2つめは、文章の表現。小学2年生には理解できても、1年生には理解できない表現がある。「1年生にも理解できるようにするには、どうすればよいのか」といったことを考えながら編集していくので、通常のノートと比べ時間がかかるそうだ。
3つめは、写真の解説。掲載している写真の中には、名前が分からないものもあったという。さまざまな文献をあたったり、専門家に聞いたりしたものの、それでも分からない場合はどうするのか。例えば「この花はユリ科です。名前は付けられていません」などと紹介していた。
生まれ変わった学習帳でも、1つめの編集と2つめの表現に手を抜くことはできない。ただし、写真の解説に関しては役目を終えるため、ほんの少し肩の荷が下りることになりそうだ。
最後に、気になった点を記しておきたい。
よく考えてみれば、ただの学習帳をめぐって大人たちがネット上で熱く議論するのは、なかなか不思議なことである(原稿を書いている筆者が言うのもなんではあるが)。子どものころに使っていたノートの記憶は、意外と鮮明に残っているもの。そのため今回のリニューアルは、単なるデザイン変更にとどまらず、かつての利用者の記憶を呼び覚まし、新しい印象を重ねる出来事になっているのだろう。
もちろん、実際に変わったのは写真がイラストになっただけである。小さな変化にすぎないが、それでも人によっては「絵(え)っ!?」と思わず驚くほどのインパクトがある、ということだ。
(土肥義則)
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