
2026年3月31日、大手広告代理店のある男性社員が依願退職した。この男性社員は、マッチングアプリで知り合った女性に独身と偽り、交際した過去を持つ。騙されていたことを知った女性が性的自己決定権(貞操権)侵害で訴えると、2025年12月に東京地裁は貞操権侵害による不法行為を認め、男性に約150万円の支払いを命じた。
この判決は、全国紙やテレビ、雑誌メディアで大きく報じられた。代理店は、男性社員の退職について「個人情報的観点から、在籍確認などについてもお答えしておりません」(広報担当者)と事実関係の回答を避けたが、被害女性は「150万円の賠償金ではすまされない。加害者である男性にとっても、家庭や社会的地位を失いかねない行為であることを知ってほしい」と、今も憤りを隠さない。
独身偽装はけっして特殊な事例ではない。巧妙な手口も多く、以下の事例のように被害女性が妊娠や出産に至るケースもあるが、その実態はほとんど報じられていない――。
■加害者・Yとの出会いと同棲
「妊娠3カ月になった2025年10月6日、ようやく入籍に同意した彼と、一緒に婚姻届を提出しに行きました。私はこれでやっと家族になれると嬉しくて、とてもワクワクしていたのを覚えています。窓口へ書類を提出しようとしたそのとき、彼が言ったんです。『これ出したら俺、捕まってしまう』『まだ籍が抜けてなかったんよ』って……」
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このように話すA子さん(31)は、大きく澄んだ瞳を持つ、素直で性格のよさそうな女性である。四国在住の彼女は取材時、妊娠9カ月。実家で来月予定の出産を待っていた。彼女の人生は、加害者のYによって大きく歪められてしまった。
「Yさんとは2019年12月、私が24歳のときに近所のスポーツジムで出会いました。すぐに彼から盛んにアプローチされました。12歳上でしたが、確認すると『バツイチで子供もいない』と言うので、ちょくちょくご飯に行くようになり、2020年6月に交際することになりました」
Yは当時37歳。県立病院で看護師をしており、ジムには友人と通っていた。その友人に「結婚願望はあるの?」と聞かれて、「あります」と答えたりもしていたため、「まさか、既婚者とは思わなかった」とA子さんは言う。A子さんは当時、ジム近くのアパートで一人暮らし。ちょうど2人とも体を絞っていた時期だったので「ダイエット合宿をしよう」という話になり、YがA子さんの家に泊まり込むようになる。
「最初は“合宿で1週間”などでしたが、次第に私の家で半同棲する形になりました。彼も近くのアパートで1人暮らしをしているという話でしたが、家は知りませんでした。彼からは『前につき合った女性からストーカー被害に遭い、家によく押しかけられた』などと聞いていたので、それを押して家に行こうとはしなかったんです」
交際から約1年半後、「家財道具は弟と実家に運んだ」というYが、わずかな荷物を持ってA子さんの家に移り住み、その後3年間に及ぶ同棲生活が始まった。
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「過去の経験から女性に対する不信感が強い様子だったので、“私のことを信用してくれたらいいな”と、彼を大事にして一途に尽くしてきました。旅行にもよく出かけ、つき合っていた5年4カ月は喧嘩もほとんどなく、本当に楽しかったです」
しかしYには結婚して十数年になる妻、2人の大きな子供がいた。「アパートで一人暮らし」は嘘で、「過去の女性からストーカー被害を受けた」などの話も、A子さんに家を知らせないための口実だったのかもしれない。
■結婚の約束と妊娠
「同棲して1年が過ぎたころから私は彼との結婚を意識するようになり、その意思を伝えたところ、『起業して独立したいので、少し待って』と言われました。私には婦人科系の疾患があり、妊娠しにくい体質だったので、彼にもそれを告げて『30歳までに子供が欲しい』と伝えました。同棲3年目に入っても彼の独立話は進まなかったので、『そろそろいいんちゃう?』と聞くと、彼もOKし、交際4年の記念日に結婚する約束をしたのです」
A子さんは「結婚の約束が決まったときは、とても嬉しかった」と振り返る。当時28歳のA子さんは、「すぐに妊娠できるかわからないから」と、自己流の妊活を始める。
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しかし結婚の約束後しばらくして、Yから「実家の父が認知症で症状がひどく、母親にもがんが見つかり手術が控えている」と告げられ、結婚予定日を3カ月後に控えた2024年3月、YがA子さんの家を出ていった。
「突然の話でしたが、結婚の約束は変わらないと思っていたし、彼もよく私の家に帰って来て妊活にも協力的だったので、疑う気持ちはありませんでした。私は結婚予定日の1カ月前、彼の許しを得て10年勤めた職場に退職したいと伝えました。結婚後しばらくは妊活に専念したいと思ったためです」
しかしその後も彼の“実家の状況”は改善せず、結婚予定日の直前、Yから「介護が大変だから延期してほしい」と告げられる。職場を退職したA子さんだが、Yから「実家のひどい状況」を聞かされていたため、待つしかないと思ったという。それに「当時は、妊活で頭がいっぱいでした」と、A子さんは振り返る。
「自己流の妊活では妊娠しなかったので、退職後、病院に通ってタイミング法などの本格的な不妊治療を始めました。私に原因があるので、“大切に思っている人の子供ができなかったらどうしよう”と、精神的に追い詰められていったんです。彼からも『2人だけだったら籍入れても変わらんよね』『入籍は子供できてからでよくない?』などと言われるようにもなり、“子供ができない私が嫌なのかな”などとも思い始めてしまいました」
「子供ができれば結婚できる」──。そんな思いにとらわれたA子さんは、ますます妊活に専念する。Yも変わらず協力的で、A子さんが妊活で苦しむ様子を見て慰めたり、妊活サプリを服用したり、一緒に子宝祈願に行ったりして、そのまま時が過ぎた。そして、最初の結婚予定日から1年2カ月後の2025年8月、とうとうA子さんは念願の赤ちゃんを授かることになる。
「妊娠を伝えたとき、彼から『まだわからんのちゃう?』などと言われ、喜んでいる様子には見えなかったことを覚えています。後から考えると、できないと高をくくっていたのに妊娠して焦ったんでしょうね」
妊娠がわかってすぐ、YはA子さんの実家を訪れ、両親に「順番が逆になってすみません。すぐに籍を入れますので」と挨拶に来たという。
「両親は彼を和やかに迎え入れ、『ようやく子供ができてよかったね』『2人で好きな日に籍を入れてね』と言っていました。彼はその席で私の父の土地に家を建てる話、新婚旅行の話などをしていたのです。今から考えると、どんな気持ちだったのかと怖さを感じます」
そして冒頭の市役所の場面に辿り着く。予想もしなかった展開に頭が真っ白になったA子さんに対し、Yは次のように弁解した。
「『嫁とは仮面夫婦で10年別居していて絶縁状態』『すでに成立していると思っていたが、まだ嫁が離婚届を提出していないことがわかった』。こんなことを立て続けに言われました。私は頭がパニック状態でした。そして、『弁護士を立てて調停すればすぐに離婚できるので、ちょっと待って』と言われたのです」
婚姻届を提出できなかった同じ日に提出した妊娠届には、Yは署名。パートナーとの結婚予定の欄には「〇をするように」とA子さんに伝えたという。
■加害者の家への訪問
「市役所に行った翌日、彼から『A子は元気な赤ちゃんを産むことだけ考えればいい。明日休みだから弁護士のところに行ってくる』と連絡がありました。ところがそれを最後に連絡が途絶えたのです。彼はいつも連絡がマメなので嫌な予感がして、不安に耐えきれず彼が婚姻届に書いた住所に向かいました」
調べると、「彼の家」はA子さんのアパートから車で数分の距離。夜までYからの返事を待っていたA子さんは、無我夢中で住所まで車を走らせた。すると……。
「大きな敷地に実家と思われる古い家屋、その隣に築10年くらいの新しい住宅があり、駐車場には彼の車が停まっていました。新しいほうの家のチャイムを押すと、彼の奥さんが出てきました。奥さんは私の存在を聞いていたらしく、すぐに察した様子を見せ、『子供には聞かせられない』と彼を連れて車で近く店舗の駐車場に移動し、3人で話し合いになりました」
相手の妻は、今までの癖で助手席に乗ろうとした妊娠中のA子さんを「助手席に乗るな」と突き飛ばすなど、当初から激高した様子だった。車の中では話し合いというより、前に座る2人の夫婦喧嘩を後部座席から聞かされる状況が続いたという。
「私は2人のやりとりで、多くの事実を知りました。私と同棲していた間、家族には『コロナ対策で病院が借りたホテルに住むことになって家に帰れない』と伝えていたこと、私のアパートを出た後、家に戻って奥さんや子供たち4人で普通に暮らし、家族旅行にまで出かけていたこと、奥さんとは普通に性交渉があること──。彼は私をずっと騙し続けていたんです。私はあまりの出来事に体が震え、後部座席で泣き続けました」
Yは当初、A子さんをかばう様子を見せ、妻に「子供ができたんだから離婚してくれ」と言ったという。しかし妻は「不倫はいいけど、子供を作るのは違うやろ!」「うちの子もお父さんがいなくなったら困る。絶対に別れへん」と言い、夫婦喧嘩は何時間も続いた。
「私は車の中でずっと“この状況じゃ家に帰れない、親不孝すぎて両親に説明できん”“もう人生終わったな”と考えていました。途中、奥さんが子供の塾の迎えに行き、その後、彼も車を離れるタイミングがありました。私は呆然としたまま、車を降りて少し歩きました。すると、目の前に池があったのです。私は“死のうかな”と思い、咄嗟に飛び降りようと踏み出しました。しかしあと一歩のところで怖くて体が震え、両親の顔も浮かび、子供を殺すことになるとも思って、ただただ立ち尽くして泣いていました」
その後、車に戻ってA子さんがいないと気付いたYがA子さんを見つけ、「ここじゃ浅くて死ねんよ」と車に連れ戻された。その後もYと妻は、朝の5時ごろまで言い争いを続けた。
「このままでは何も動かないと思った私は、彼に『自分の口から私の両親に説明して』と告げ、そのまま奥さんを降ろし、私の実家に向かったのです」
■相手の母親からの心ない言葉
A子さんは泣きながらYを連れて実家に行き、寝ていた両親を起こして、Yに説明を求めた。事態を初めて知った両親は、あまりのことに唖然としたという。
「『娘を騙していたってこと?』と父が聞くと、彼はこの期に及んでもまだ『子供がいるので離婚できないんですが、A子さんとの子も、せっかくできたけん、産んでほしいと思っています』などと言いました。両親は『離婚もできないのに何を……』とあきれた様子で、しびれを切らした父が『慰謝料もらって別れろ! 後は弁護士を通じて連絡するけん!』と言い、Yを帰らせました。仲のいい平和な家庭で、両親には大切にしてもらってきたので、こんなことになって本当に申し訳ない気持ちになりました」
その後は、父親が矢面に立ち、A子さんも示談書を作って、慰謝料の交渉をおこなった。Yは当初こそ反省するそぶりを見せたが、「弁護士に聞いたら、これが相場だから」と提示してきた金額は、慰謝料300万円、養育費月4万円だった。
「人生をこんなにめちゃくちゃにされて300万円なんてと思い、父と相談して養育費一括と慰謝料を合わせて1500万円を要求することにしたんです。彼は、『離婚しても隠し口座に1000万円の貯金があるから大丈夫』と言ってきたので、それも全部出してもらおうと考えました」
すると、「明らかにYさんの態度が変わった」とA子さんは振り返る。
「『は?1500万円なんて払えるわけがないじゃん』と、ふざけた態度をとるようになりました。隠し口座に1000万円あるやろと伝えると、『そんなんない。借金が2800万円ほどある』と。貯金の話もまったくのでたらめだったのです」
Yに支払い能力がないことを知ったA子さんの父親の怒りは、ついに頂点に達した。一家はYの両親との直接対話を求め、実家へと乗り込んだ。しかし、そこでまた驚愕の嘘が判明したのである。
「彼からはずっと、父親は認知症、母親はがんで介護が大変と聞かされていたのですが、まったくそんな様子はありませんでした。私はここでも騙されていたんです」
Yの両親は最初、息子の行動を謝罪したが、話し合いの途中からYの母親が感情的になり、A子さんに心ない言葉をたくさん投げつけてきたという。
「『息子は家族があるから一緒になれませんよ』『慰謝料を取るんやったら息子にはもうかかわらんといて』『本当に息子の子かDNA鑑定したい』と言い、『今やったら、まだ堕ろせるやろ』と私に何度も堕胎するように言ってきたのです」
結局、話し合いは決着を見ないまま、A子さんたちは実家を後にすることとなった。
■精神科受診、A子さんが今思うこと
「私はかなり精神的に追い詰められていました。20代後半の女性にとって大切な5年間をずっと騙されて無駄にしてきたこと、信頼していた相手に裏切られ続けてきたこと、将来の不安──。いろいろ考えが頭をめぐって、朝から泣き続けていました。そして、相手の母親から『堕ろせ』と何度も言われて、“子供を殺されるかもしれない”と被害妄想が出てきて、家の外に出られないようになってしまったのです」
A子さんの様子は日に日に悪化し、母親が探し回って何とか見つけた精神科で治療を受けることとなった。今ではだいぶ落ち着いたが、まだトラウマのような症状は残るという。
「眠れないことも多いですし、子供に危害を加えられるかもしれないという妄想も少し残っています。狭い市内なので、彼や彼の家族に出会いそうな道や場所には行けません。彼の車と同じ車種を見ただけで動悸がして苦しくなります。また、噂がすぐ回る田舎なので近所の人にも顔を合わせにくく、家を出るときは顔を隠している状態です」
「今は、お腹の子が可愛い」と話すA子さんだが、そう思えるまでにはいろいろな葛藤があったという。
「産むか産まないか、自分でもずっと悩んできました。“あんなやつの子をかわいがれるかな”“もしYさんに似たらどうしよう”“将来、子供になんて言おう”などの思いがありました。でも、不妊治療までしてせっかく授かった子です。もし堕ろしてしまって、今後もしチャンスがあってもできなかったら、“自分が殺してしまった”とずっと悔やむだろうなと思いました。いろいろな心配はありますが、幸い両親が協力してくれていますし、本当によくしてくれますし、友人やまわりも支えてくれているので、とても感謝しています」
A子さんは現在、貞操権侵害でYを訴えるため、弁護士と相談しながら訴状を作成中である。5年以上に及ぶ出来事のため、資料は膨大。大きなお腹を抱え、体調も安定しないため、休み休み書類作成などの準備をおこなっている。A子さんは、今の思いを次のように語る。
「私は、彼に徹底的に嘘をつかれてきました。つき合っていた5年4カ月は本当に仲がよく、恋人でもあり親友でもあるような大切な存在だと思っていたのに、妊娠しにくい体を利用され、ずっと馬鹿にされていたのかなととても悔しい思いです。彼は結局、自分のことしか考えていなかったですし、お金の問題になってからは開き直っていて反省していないように思えます。ここで簡単に済ませたら、また絶対に同じことをするでしょう。もう二度と、私と同じような被害者を出さないようにしたいです」
■社会の意識を変えるためには、刑事罰化を
A子さんは20代後半の大切な数年間を加害者に奪われた。彼女の事例から、独身偽装がいかに罪深い行為であるかが浮き彫りになる。また、Yのジム仲間である友人も悪質だ。彼はグルだったか、あるいは真実を告げずに片棒を担いだことが推測される。
「独身偽装被害者の会」の創設者であり、自身も被害者であるマイコさんは、次のように指摘する。
「“女性は男性の消費物である”という社会的意識がまだまだ残っているように思うのです。この意識を変える必要があるでしょう。たとえば多くのケースで、加害者の家族は事実を知っても『よくある男女トラブル』などと加害者を擁護するケースが多いです。しかし、これが刑事事件で処罰されるのであれば、反応が違ってくるのではないでしょうか? 社会の意識を変えるためには、刑事罰化が必要だと思うのです。現段階では、法曹関係者には刑事罰化に否定的な人もいるようですが、不同意性交等罪が新設されたときも同じような反応がありました。学校教育にも取り入れられ、『真の意味での性的同意』が重く見られる時代、刑事罰化も含め『独身偽装を許さない世の中』への実現に向けて動いていきたいと考えています」
被害者は、「この問題の重大さをもっと認知してほしい」「刑事罰化してほしい」と訴えている。その声に、耳を傾けるべきではないだろうか。
(取材・文:ウラノけいすけ)
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