体罰指導は子どもの癇癪と同じレベル 〜一連の事件をめぐる海外メディアの目〜

22

2013年03月22日 20:30  MAMApicks

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

MAMApicks

写真
学校教師の体罰やら、アイドルの丸刈り反省やら、最近の日本では女子供への暴力が流行っているらしい、と日本のヘンタイっぷりが海外のメディアでも注目されている。

人が一人死んでも「強い部にするために体罰は必要」「先生は私たちを体を張って育ててくれた、素晴らしい指導者」と保護者や生徒が訴えるスポーツ強化校の茶番に始まり、柔道女子日本代表連名による指導者組織の暴力告発。

機を同じくしてアイドルグループのメンバーが交際発覚だかで頭を丸めた謝罪動画を配信するなど、日本社会の隠微な倒錯を世界により広く知らしめることとなったのは記憶に新しい。

アイドルグループの件に関しては、当事者が納得の上で行っている“商業行為”なので、丸刈り反省の件に対しては「結果の是非ではなく、ああいうことを世界配信できる、本人を含めた関係者のありようがすべて気持ち悪い」という意見が国内でも海外でも充分に出たところで、話題としては「行き渡った」というところだろうか。

ただ、学校やスポーツ界の体罰問題は、日本人の教育観や人間観とも関わって、根深い問題だ。「殴らなきゃわからないバカもいる」という熱心な主張がいまだ散見されるところを見ると、きっと日本の社会的倒錯の温床は教育なのだな、と感じさせられる。

「頑張って欲しいと思う気持ちから」、殴る。「乗り越えてもらうために」、死ねという言葉を投げつける。挙げ句、告発を受けて「信頼関係が築けなかった」と悩む指導者。

遅れてやってきた思春期なのだろうか。大の大人が一方的に暴言を投げつけ、殴って信頼関係が築かれると本気で信じているとしたら、指導者としてはあまりにも貧しく薄っぺらい。

-----

「自分は殴られて良かった。根性がついた」などと言う人々は、暴力というストレスに対する心理反応の「補償とすり替え」をして自分を納得させているに過ぎないのであるが、その感覚で指導者の側に立つのは、暴力の再生産にしか繋がらない。

暴力を使った体罰は、どれだけ「愛」がどうこうと施した側がうそぶこうとも、法的には傷害以外の解釈が成り立たない。

「愛があるから殴る」なんて図は法治国家の先進国では、まっとうな市民生活からは暗闇へと追いやられ、背徳的な性癖として小説や映画で描かれる。ぶっちゃけ、ヘンタイだ。

訴えられて人生が台無しになるリスクを前に、そんなことお天道様の下で行うわけにはいかないのだ。ところが法治主義がグダグダの日本では、教師や指導者の側が一方的に愛を主張しながら子どもを殴る図が教育現場でおおっぴらにまかり通っていて、別に人生をリスクにかける様子もない。不思議なヘンタイ大国ジャパンなのである。

暴力は、(暴力をふるう側の)論理的破綻や教育スキルの欠如を補う。それは事実だ。
難しい相手を自分の思い通りにすることができないときに、暴力に訴えることでその一瞬だけ思い通りにすることができる。子どもの癇癪と同じレベルである。暴力に訴えてしまった時点で指導者の敗北、無能の露呈なのだが、そういう意識を持つ指導者は少ない。

-----

これを例えると、掃除機のモーターや車のエンジンと同じなのかもしれない。
静音技術が発達して、現在はほとんど音を立てることなく、高出力のモーター、高馬力のエンジンが実現されている。

つまり、同じパフォーマンス、掃除機のダストピックアップ率や車の速度を実現するのに、わざわざ昔のように大げさな音を立てる必要はなくなっている。

でも、「モーターの音が小さいと、ゴミを吸い込んでいる気がしない」「エンジンが静かだと、ちゃんと運転している気がしない」という消費者がいる。

音やアクションが大きければ、「頑張っている」という印象を他人にも与えられるし、自分にもそうと言い聞かせられる。「小さな音で充分に伝えられる」技術を身につけることなく、「大きな音のエンジンがいい。なんかそっちの方がよく走れる気がするから」と爆音を轟かせて走り回るのは、無知でハタ迷惑な時代錯誤。

教える技術を高める努力なく、大声を出して張り倒せば、「迫力」や「脅威」で相手に自分の考えが伝わると思うのは、可哀相な思い込みである。論理的破綻(あるいはそもそもの論理構築の放棄)を補填するために暴力(大きな音)の力に頼るのは無能の証拠なのである、と、スキルの高い教師や指導者なら知っているはずだ。

-----

「勝つために殴る」というのもよく聞く。
殴る→根性がつく→勝てる、らしいが、穴だらけで空虚な精神論に、かける言葉が見つからない。

高橋秀実氏のルポルタージュ『「弱くても勝てます」: 開成高校野球部のセオリー』(新潮社)で、開成高校野球部がないないづくしのあらゆる不自由さを、理論と実践のみで克服していく爽快な様子を読むと、なおさら古くさい暴力がむしろ遠回りしているのを感じさせられる。

「僕たちは普通。学校では普通に勉強して、特別なグラウンドや設備もなく、校庭の隅で部活をして。強豪校のやっていることが異常なんです。」

スポーツの倫理規程に暴力とドーピングが禁止されているのを見ると、暴力の上に成立する強豪というのは、ドーピングして勝利するのと同義、インチキなのかもしれない。

-----

しつけと体罰を混同する親も、いまだ多い。
いみじくも、日本で体罰問題が大きくなっている頃、英国BBCのラジオで、「なんのために子どもを叩くのか。あなたが叩くことで子どもに伝えているメッセージは何か」とリスナーに問いかける番組があった。

「『言うことをきかないと痛い目に遭うぞ』ってことだよ、当たり前じゃないか」
「自分が小さい頃はそうやってしつけられたよ、それが一番効くんだよ」

BBCの敢えての問いかけに、体罰賛成派の英国のリスナーたちは、パーソナリティーとの電話口でせせら嗤う。「痛い目」に遭って育った、殴られて育った子どもは、それが当たり前だと思う大人になって、また自分の子どもを殴る。思考の停止である。

もちろん英国でも、体罰を許容する層がいる。そしてそれは、階級社会では無教養の底辺階級と同義であることを、彼らは何となく分かっているけれども、そこから抜け出すことはない。抜け出すことはできない。「体罰で子どもを育てる」限り、それは構造化され固定された檻なのだ。

教育者ならなおのこと、「懲罰」と暴力を分けて考えなくてはならない。
クラスや部などの集団を治める技術として、「懲罰」は決して禁忌ではないどころか、ペナルティなくして統治はない。

では、自分が相対するこの集団において、暴力ではない懲罰とは何か。そこを突き詰めて考える指導者には、相当なインテリジェンスが必要だろう。だからこそ、指導者や教師が薄っぺらいと大問題なのだ。

底辺校だから殴ってもいいとか、言って分からないバカには殴ってもいいというのは、教育する側が言うことではない。暴力を振るい、わざわざ指導能力の欠如を大声で宣言するのは恥であると、社会的に周知されるべきなのだ。


河崎環
コラムニスト。子育て系人気サイト運営・執筆後、教育・家族問題、父親の育児参加、世界の子育て文化から商品デザイン・書籍評論まで多彩な執筆を続けており、エッセイや子育て相談にも定評がある。現在は夫、16歳娘、7歳息子と共に欧州2カ国目、英国ロンドン在住。

ランキングライフスタイル

前日のランキングへ

ニュース設定