限定公開( 5 )
ビックリ! ええっ、こんな話になるの!
本書は7篇からなる連作だが、そのうち6篇は既発表だ。1988年〈小説奇想天外〉誌上ではじまったものの同誌の休刊で中断され、大森望編のオリジナル・アンソロジー・シリーズ《NOVA》で復活。各話ごとに太陽系の各地でおこなわれる土木工事を取りあげて、プロジェクトの危機的局面をいかに乗りきるかを描く。なんとも地味でシブいSFである。
しかし、書き下ろしの完結篇「星を創る者たち」で、すべてがひっくり返る。いや、地味でシブい工学SFという基調はおなじなのだが、いきなり大風呂敷になるし、なによりもプロジェクトの主体/対象の関係がまったく違う。エッシャーの騙し絵ではないが、地と図がくるりと反転してしまう。
ふだんから「ネタばれ上等!」といって憚らないぼくだが、さすがにこのネタを明かすわけにいかない。本書の怒濤のサプライズに較べれば、第二ファウンデーションのありかやたんぽぽ娘の正体なんて微風にすぎない。ミステリで言えば、犯人は探偵でしたとか乗客全員で刺しましたとかのレベル。SF史上屈指の「意外な真相」だ。
凄いのは、完結篇で物語が大きく転調することよりも、先行する6篇の地味なプロジェクト・ストーリーがさりげない伏線になっていて、「真相」がわかったとたんにまったく別な意味合いを帯びてしまうことだ。......うー、もっと具体的に言いたいのだが、どう書いてもネタばれにつながってしまう。隔靴掻痒、かゆっ、かゆいーっ。
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もっとも、先行する6篇だけでも別個に評価ができる。
開幕篇「コペルニクス隧道」が描くのは、月に新しい交通機関をつくるためのトンネル工事だ。月の塵(微細な砂)は個体よりもむしろ流体の性質があり、それがプロジェクトを困難に陥れる。古手のSFファンならおわかりのように、このシチュエーションはアーサー・C・クラーク『渇きの海』を踏襲している。ストーリーは工事中のトンネル内に閉じこめられた技術者の視点で語られる。外部とのつながりは細い配管だけ、対応を一歩間違えればとたんに砂が押しよせてくる状況。救出がおこなわれるまでいかに砂を食いとめて生存を保つか? そして適切な救出方法はあるのか? 大ごとにしてしまってはトンネル工事そのものが取りやめになる。それは断固避けたい。ここらへんがプロジェクト内部にいる技術者ならではの発想で、クラーク作品とはいっぷう異なる点だ。
谷甲州が潔いのは、余計な人間ドラマは徹底的に排し、登場人物の内面性や個性も一顧だにしないことだ。現場にいる技術者はあくまで技術者であって、自分の生命はとりあえず優先するものの、家族や友人とのかかわりも、名誉や使命なんて大義名分も、温かい(あるいは湿っぽい)情緒も入りこむ余地はない。主人公は「山崎主任」とだけ呼ばれ、ほぼ記号的存在である。
さらに、危機的状況を打開する一発逆転のアイデアも、仲間が力を合わせて乗りきる的な達成感もここにはない。書き方しだいでは昂揚感ある展開(「プロジェクトX」風の仕立て)もじゅうぶん可能なのだが、作者はそういうことにまったく興味がない。抑えた筆致で解決への道筋が描かれる。
そんなふうに紹介すると、科学的な子細に汲々としているマニアックな小説(ギークだけが喜ぶハードSF)かと敬遠されるかもしれないが、そうではない。やはり、この連作が焦点としているのは人間なのだ。
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第2篇「極冠コンビナート」は火星が舞台となり、仮設の与圧ドーム内部のプラント建設現場で予期せぬ火災事故が発生する。以下順番に、「熱極基準点」は水星での測量誤差、「メデューサ複合体(コンプレックス)」は木星大気中の浮遊基地の構造的歪み(これもクラーク作品への目くばせ)、「灼熱のヴィーナス」は金星の発電用カイトへの落雷、「ダマスカス第三工区」は土星の衛星エンケラドゥスの地殻変動による工事現場全体の陥没が、それぞれのプロジェクトを窮地に追いこむ。いずれもその天体特有の物理・地理的条件が関係しており、その点でオーソドックスな宇宙SFとも言える。しかし、全篇を通じて浮かびあがってくるのは、そうまでして人間はなぜプロジェクトを完遂しようとするかという疑問だ。
「コペルニクス隧道」にこんなくだりがある。
困難で報われることの少ない仕事だが、山崎主任に不満はなかった。使命感があったわけではない。この工法がためされるのは、コペルニクス隧道が最初だった。初期不良は覚悟しているし、トラブルを収拾するのが技術者の仕事だと考えていた。
現場に技術者がつめているのは、予想外の事態に対処するためだ。すべてが予定どおりに進行するのであれば、人間は必要なかった。機械だけで充分だ。だから不満を感じない。他の技術者とおなじように、粛々と業務をこなすだけだ。
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特別の使命感もなく粛々と業務をこなすだけ。それが現場にいる技術者の情動だ。それを情動と呼ぶのは不適切かもしれないが、かといって彼らは機械ではなく人間であり、人間だからこそ不測のトラブルが収拾できる。この境地はなにか? なにかのため(報酬・達成感・成長・矜持・自己実現)のためにプロジェクトをするのではなく、プロジェクトのなかに身をおいたとたん、それ自体が理由=目的になってしまう。いわばエンジニアリング本能。
いっけん奇異に映るが、この本能はあんがい普遍的なものかもしれない。仕事のやりがいなんてものは実はあとづけであって、ひとは工学する猿なのだ。それはとりもなおさず、人間と世界の関係でもある。人間は環境を作りかえることによって世界とつながる、あるいは世界からはなれる。
そして、このエンジニアリング本能の「根拠」が、結末篇「星を創る者たち」で暴かれる。じつは人類のあずかり知らぬところで、間恒星系スケール、数億年スパンのプロジェクトが進んでいたのだ。ああ、これから先を言ったらネタばれになる(裏を返せば、ここまで言っても、まだ本当のネタばれにならない!)。
(牧眞司)
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