【今週はこれを読め! SF編】ポストヒューマンvs.ナルヒューマンの壮絶宇宙対決! 「意識」は弱点か武器か?

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2013年11月12日 13:12  BOOK STAND

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『ブラインドサイト<上> (創元SF文庫)』ピーター・ワッツ 東京創元社
今週はこれを読め! SF編

 地球を包囲した6万5000以上もの探査機、太陽系外縁に形成されつつある放射線まみれの巨大構造体。はたして何者のしわざか? そして目的はなんなのか? 



 ----と、大枠の設定はSFの伝統的テーマのひとつファーストコンタクト(未知との遭遇)である。しかし、宇宙のみなさんコンニチハなんて牧歌的な物語(昔懐かしいラインスターみたいな)は言うにおよばず、双方が知性を備えていればコミュニケーションの接点があるはずという発想すら、『ブラインドサイト』では端から投げ捨てられている。やってきたのは地球のロジックがまったく通じない絶対他者だ。もちろん、こうした存在はピーター・ワッツの専売特許ではなく、ストルガツキー兄弟『ストーカー』をはじめ先行例がある。しかし、この作品が独特なのは、人類と絶対他者があくまで同じ土俵の上で対峙するとことだ。なにも通じないのにコンタクトは不可避。そう、これはファーストコンタクトどころではないフルコンタクトだ。しかも手加減なしのデスマッチ。



 なんだ戦争ものかとゲンナリするひとがいるかもしれないが、ご心配なく。そう生やさしくことは運ばない。なにしろお互いに相手が異質なものだから、いきなり砲火を開くわけではない。人類が送りこんだ調査隊とロールシャッハと名づけられた巨大構造体とのあいだで、奇妙なさぐりあいが繰りひろげられる。たんに情報通信的なデータ収集ではなく、それぞれが相手の内部へと入りこんでいくのであって、イメージ的にはそれこそ内臓に手を突っこんだり脳神経を引っぱったりするのと変わりがない。この異様な雰囲気が本書の読みどころのひとつだろう。



 さぐりあいの過程でしだいに募ってくるのが、エイリアンの底知れぬ存在感だ。なにしろ実態からしてよくわからない。ロールシャッハの内部へ降りた調査隊は、最初なにひとつ発見できない。しかし、なにかがいる気配がある。やがて人間の認識機能の盲点(それがブラインドサイトだ)を突いて、相手が目眩ましをしていることがわかり、一個体を屠り、二個体の拿捕に成功する。スクランブラーと名づけられたこの生命体の造形----全身に剛毛のような繊維状器官に覆われておりその一本一本を独立して制御でき、視覚器官も全身におびただしく分散配置されている----がそうとう気味悪い。しかも、このスクランブラーはエイリアンの本体ではなく、ロールシャッハが環境に応じて作りだした生成物にすぎない。ならばロールシャッハそのものがエイリアンなのか、あるいはその背後に別な存在があるのか。いや、むしろ、人間が人間であるような実体としてこのエイリアンを捉えること自体がナンセンスなのかもしれない。



 さらにワッツはで大胆な仮説を提起する。「意識」を持たない「知性」は存在しうる。それどころか、われわれが知性の拠り所とみなしている「意識」は進化の奇形的袋小路にすぎず、宇宙的規模の生存戦略において障害にしかならない。その傍証としてあげられているのは、名演奏家は意識せずに楽器を弾きこなす事実(いちいち意識していては指が動かない)であり、「中国語の部屋」と呼ばれる思考実験である。部屋のなかには人間と文法書があり、壁のスロットから未知の文字が書かれた紙片が差しこまれる。その人間は文字の意味は理解できないが、文字の形象を文法書に照らしあわせて回答を作り、スロットから外へ差しだす。外から判断するかぎりこの部屋は「知性」を備えている。基本的なパターン・マッチングとアルゴリズムさえあれば、「意識」(=意味の理解)などなくとも「知性」は発現しうるのだ。本書には、現代SFの最前線をひた走る作家テッド・チャンが書き下ろしで解説を寄せている。チャンは、ワッツの仮説に異議を唱えながらも、それを起点として展開されるテーマの重要性を強調する。



「意識」を持たない「知性」だけの存在は、アンチヒューマン(反人間)というよりもナルヒューマン(非人間)だろう。人間性という基準など、この宇宙では肌の色の違いほどの意味すら持たない。



 いっぽう、これに対する人類側もふつうの意味の人間性を逸脱した、いわゆるポストヒューマンだ。ポストヒューマンは最近のSFに顕著なモチーフで、おもに情報技術や遺伝子技術の発達によって強化・進化・特殊化を果たした人類をさす。昔流に言えばサイボーグみたいなものだがフィジカルな次元のみならず認識や倫理や価値観までも変容しており、そこが現代SFのテーマにかかわってくる。たとえば、本書の主人公シリ・キートンは先天性の器質障害のため脳の半分を手術で摘出しており、他人への共感ができない。それを代替するため、彼は特殊な観察と行動解析を身につけている。調査隊の指揮官サラスティは人類史の陰から復活をとげた吸血鬼であり、冷徹な判断力と戦略思考を天分として備えている。生物学者スピンデルは感覚器の大半を機械化しているし、言語学者ジェームズは四重人格者だ。これらの特徴は、物語の水準ではキャラクターの属性や得意技(風太郎忍法帖やアメコミ・ヒーローのような)と読めるが、テーマの次元ではもちろん「意識」のありようと関わっている。対エイリアン(絶対他者)においても人類の内部においても「意識」は自明のものではなく、不定形で不安定な機構として描かれるのだ。



 これと平行して『ブラインドサイト』に織りこまれているのが、シリ・キートン自身の境涯である。彼はそれまでの人生において、母親や恋人との関係をこじらせてきた。共感能力の欠如は観察と解析によって補えるが、自分に向けられる愛情という名の干渉には的確に処理することはできない。これはキートン固有の障害ではなく、他人との関わりにつきまとう普遍的な齟齬だろう。サルトルは「地獄とは他人である」と言った。"他人"が"他者"よりも厄介なのは「意識」を備えている点だろう。ここでもまた「意識」が主題化される。



 はたして「意識」は絶対他者を乗り越えられるのか? 「意識」は他人という地獄から脱却しうるのか? そもそも、ひとは「意識」の桎梏から解放されうるのか? 視点をどこに取るかで、さまざまな読みかたができる問題作だ。



(牧眞司)




『ブラインドサイト<上> (創元SF文庫)』
著者:ピーター・ワッツ
出版社:東京創元社
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