<佐世保女児殺害>「誰も話を聞きにこなかった」(被害者の父と兄が語る10年・中)

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2014年06月01日 13:41  弁護士ドットコム

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10年前、社会に大きな衝撃を与えた佐世保女児殺害事件。その当日、被害者である御手洗怜美(みたらい・さとみ)さん(当時小学6年生)の父・恭二さんと次兄はどのように過ごし、お互いのことをどう考えていたのか。そして、その後の日々をどう生きてきたのか。犯罪被害を考えるシンポジウムで語られた二人の肉声を紹介する。


【関連記事:<佐世保女児殺害>「答えが出なくてもいいかな」(被害者の父と兄が語る10年・下)】



●教師たちは、何も声をかけられなかった


藤林:事件当日のことに話を進めていこうと思います。当時、中学3年生だったお兄さんは、事件のことをどのような形で知ることになったのでしょう?



兄:事件を知ったのは、当日のちょうど13時、5時間目のときですね。担任の先生から「御手洗、校長先生から話がある」と呼ばれました。「なんや? 俺、悪いことしてないんだけどな」と。



担任の先生と一緒に相談室みたいなところに行きました。そこに、校長先生や教頭先生、1年のときの担任、部活の先生と、いろんな先生が集まっている。みんな、俺の顔を見て、何を言ったらいいかわからない、目を合わせるのも辛そうな感じにしていたんですね。



校長先生から一枚、紙に印刷されたインターネットのニュースを渡されて、「まず、これを読んでくれ」と言われました。読んでみると、知っている名前が出てくるわけです。最初に出てきたのは、(事件のあった)大久保小学校。被害者として、妹の名前がありました。やったのは同級生というところまで読んで、紙を置いて、先生とお互いに目と目を合わせながら、「なに、これ?」という感じでした。



藤林:教師と向き合いながら、見つめ合うだけだったんですか?



兄:本当に、かける言葉がないんだなあ、と。ニュースを見て、事件が起きたことは間違いない、妹が死んだんだなということまでは、理解できた。でも、やっぱり、「妹が死んだ」ということを受け入れられたかというと、厳しいものがありました。「俺、この後、どうすればいいんだろうな」と。「親父さんはいま、どこにいるんだろう? なんで、連絡が来ないんだろう?」という感じでした。



藤林:紙でニュースを見て、事実は頭に入った・・・でも、それを受け止める前に、いろいろな疑問がわいてくるわけですよね。



兄:そうですね。一番の疑問は、「同級生って誰だ?」。怜美(妹)の同級生の名前は3分の2くらい知っていました。言われたら、この子かというのはわかります。言葉に出たのは、唯一、「これ、やったの誰ですか?」だけでした。でも、先生方は「そんなの考えなくていい」と。「考えなくていい」と言われてもなあ、と(思いました)。そこが一番、その瞬間に知りたかったことだから。



藤林:お兄さんとしては、どうだったでしょう、当時の大人や教師の対応は?



兄:正直、「この人たちは、アテにできない」と思いました。まず、親父さんを待たなければいけない。「じゃあ、連絡手段はどうしよう」。この一点を、とにかく考えていました。



●「この人、自殺するかもしれない」


父:そのころ、何をしていたかというと、学校からの第一報を受けて、警察より早く現場に行き、そのあと佐世保署で、被害者聴取を受けていました。



それが、けっこう長かったんですね。2時間くらいかかったかな。そこに行くまでにまず、会社(毎日新聞社)に行って、「こんな事件が起きた」と連絡しました。「俺はもう、取材の指揮はできないから、応援を頼め」と支局員に指示しました。そのあとは、会社に戻っていません。



聴取の間に、自分の親や兄弟には連絡したんですが、当時まだ、この子(次男)には携帯を持たせていませんでしたから、直接連絡は取りませんでしたし、連絡を取ることも思い浮かばなかった。一刻も早く、(息子のもとに)駆けつけるべきだったと、いま聞きながら思っています。



藤林:そのあと、お父さんと出会うまでは?



兄:16時か17時くらいまでは、無言で先生方に囲まれていました。2〜3時間、ただひたすら座って、黙っていなければいけない。正直、脱出方法はないかと考えていました。周りでは、女の先生は泣いていますし、男の先生もうつむいて何も言いません。自分自身は、泣くまでにはいたらないんですよね。情報だけしか頭のなかに入っていないから、それを感情表現する手段を持ち合わせていなかった。



父:その後、中学校に迎えに行きました。



藤林:どうでしたか、お父さんの会ったときの姿は?



兄:まず、自分の目を見ていない。目が泳いでいるんですよ。ストレートな言い方をすると、「この人、自殺するかもしれない」と、純粋に思いました。



3人暮らしで妹が亡くなったので、佐世保にいる家族は、親父しかいない。でも、会った瞬間、「この人、いなくなるかもしれない」と思いました。どうしたら、親父は死ななくて済むのか、という部分しか頭がまわらなくなりました。妹に続いて、父親まで亡くしたら、さすがに生きていく自信がないですから。



藤林:事件直後に、息子さんはそういう思いで、お父さんに会っているわけですが、お父さんはどうでしたか。



父:周囲から「自殺するんじゃないか」と思われていたことを、僕は自覚していません。そんなこと、できるはずがない。ただ、あとで聞くと、僕の同僚たちも、そういう目で見ていたようでした。何もかも放り出したい気持ちにはなりましたが、申し上げたように、守らなきゃいけないもの(家族)があるので。そこは、やりとげないといけないという気持ちは、ずっと持っていました。そこが、外に伝わっていなかったのかな、と。



実際、葬儀のときは、ヘロヘロで歩けない状態。火葬場では、息子2人の肩を借りましたので、そのように見られても、仕方なかったかな、と。ただ、それは、家族や本当に親しい同僚の前でしか見せていません。自分的には、「それくらいは許してくれよ」という気がしますけど。



藤林:親しい家族の前のお父さんは、ほかで見せる顔と違って、息子さん2人の肩を借りながらなんとか、という姿だった、と・・・



兄:そうですね。意気消沈というか・・・ゾンビといったらおかしいですが、本当に生きているのか死んでいるのか、わからないくらいでした。



●テレビで父を見て「何やってんだ?」


藤林:その後、妹さんのご遺体に会ったり、お通夜やお葬式があって、妹さんに対する思いというのは、いかがだったんでしょう?



兄:遺体を見たとき、一番思ったのは「怜美、きれいだ」ということです。司法解剖したあとに化粧とか、いろいろしたあとだったから、「化粧したら、こんなにきれいなんだ」と。でも、このきれいな姿のまま大きくなってくれないんだな、ということを、初めてそこで実感したというか、現実味がわいたというのはありました。



涙は、遺体を見たときに確かに出たんですが、亡くなった者はもう戻ってこないから、「せめて、こいつの前だけでは、笑っていてやりたいな」という気持ちのほうが強かった。正直、暗い顔は、亡くなった怜美に対して、あまり見せたくなかったんです。できるだけ笑顔で送ってやろうという気持ちのほうが強かったです。



藤林:お父さんに対しては?



兄:父に直接感情をぶつけることはなかったですが、たとえば、遺体が届くまで、親父さんは記者会見をやっていたんですよ。そういう姿をテレビで見て、「こいつ、何やってんだ?」と正直、思ったんです。こういうとき、家族といるのが普通なんじゃないの、と。



親父さんの仕事柄、そういうことをやらなければマズいんだろうというのは察していたんですが、最初は、怒りのほうが先だった。



藤林:そういうふうに思っていらっしゃったみたいなんですけど・・・



父:すいません、それは、初耳です。そういうことすら、10年たっても、いままで話をしていなかったというのが、現実なんです。僕が会見に出たときの経緯については、言い訳はしません。でも、それも、最初に言った「家族を守る」ことの一環だったことは、ご理解ください。



藤林:お父さんは、メディアに出ることによって「家族を守る」という思いだったけれども、息子さんには「何をやってんだ」と映った・・・



兄:「1秒でも長く、家族と一緒に過ごすのがいいんじゃないの?」という感情が、当時はやっぱりあったと思います。



藤林:大人と子ども、親と兄弟で、思いが違うことは当たり前かもしれない。けれども、その違いを言葉でかわすことが、当時から10年間なかったという現実があるのかな、と。



●父を元気にする方法をひたすら考えていた


藤林:もう少し時間を進めていきたいんですが、事件から時間がたった後、お兄さんは、どういう暮らしを?



兄:葬儀のあと、(家族が住んでいた)毎日新聞佐世保支局に戻りました。佐世保支局の両隣は、佐世保署と毎日新聞の支社で、1階の駐車場のあたりには、いろいろなマスコミの人たちが集まっていました。写真を撮られてしまうから、カーテンから顔を出せないし、外にも出られる状態ではありませんでした。学校もしばらく休んでいて、行きませんでした。



藤林:カーテンを閉めて、家のなかで、ほぼ1人で生活しているような・・・お父さんとの会話というのは、どうでしたか?



兄:親父さんは、話せる状態ではなかったです。普段のようにテレビを見たり、囲碁をしている姿もまず見られない。座っている姿を見ても、暗くてジメジメしている。そんなふうに感じました。



父:そういうときに何を話せばいいのか。話題がないんですよ。でも、その間も実は、同僚と、息子を学校に復帰させる準備を着々としていました。何もしていなかったわけではありません。



藤林:お父さんとしては、学校に戻す準備をしていたけれども、息子さんからすると、誰も気持ちを交わす相手がいなかった、と。



兄:そのときは、親父さんを元気にする方法をひたすら考えていたわけですよ。まず、自分が普通の生活に戻ることが大事。そのためには、学校に行っている姿を見せることかなというのが、最初に思い浮かびました。「戻るために、どうすればいいんだろう?」と。



とにかく、親父さんを支えることばかり考えていて、自分のことをおろそかにしていたという状況ではありました。



父:いや、支えてもらっているという実感はあまりなかったので・・・そこは申し訳ないですが、やっぱり早く学校に戻したいという気持ちは一緒でした。



藤林:親の思いと息子さんの思いは、ある程度かみ合っていないけれど、学校に早く戻ったほうがいいという判断は共通していた、ということですね。



●「俺は、誰に話せばいいんだろう?」


藤林:もう少し時間を進めていきますが、学校に戻ってみて、どうでしたか?



兄:友達も先生も、みんなが事件前とほとんど変わりなく接してくれました。それは、助かりましたね。心配され続けるのは、逆に疲れますから。



藤林:当時、カウンセリングは受けていたんですか?



父:僕は、弁護士さんから紹介された精神科医の方と3〜4回面談しましたが、なんとなく「なじまないな」と思って、その先はやっていません。



息子には、最初のころから、カウンセリングを受けさせようと考えていて、提案したけど、断られました。本人が「受けたい」と言ってくるまで待つか、という気持ちだったことは事実です。



兄:たしかに、断ったことは間違いないです。父親のもとに来たカウンセラーが、俺に対しても、「君はどう?」と、父親の横で振るわけです。そのとき一番考えていたのは親父のことですから、それを知られたくないという気持ちが強かった。だからそこで、「特に何もありません」というしかなかった。



父:うーん、思い至らなかったです、そこまでは。



兄:そこで直接、「君の話を聞きにきましたよ」「守秘義務を守ります」と別室に行ってくれていたら、どのくらい語ったかわかりませんが、少なくとも吐き出す場はあったかな、と思います。



藤林:でも、学校のスクールカウンセラーは親と関係なく、「あなたの話を聞きますよ」と来てくれるものだと思うんですけど。



兄:いや、特に声をかけられていません。そういう人達ですら来ないとなると、「俺は、誰に話せばいいんだろう」という気持ちが、やっぱり残るんですよね。怜美の同級生のところにカウンセラーが行ったという話は、耳にしていたんですよね。「あれ、なんで俺のところには来ないんだろう?」と。



藤林:そのとき、結果的に一番、事件の影響を受けていた子どもはお兄さんですが、そこに(カウンセラーが)来なかったというのは、ちょっとびっくりする話かもしれませんね。



兄:正直、そこが、支援している人達の一番のミスかなと、感じます。



父:(次兄に向かって)「なぜ自分のところに聞きに来ないのか」と言わなかったの? 僕ではなく、たとえば先生や友達に言うということは、考えなかったの?



兄:どの人も、親父とつながっていると思いました。結局「治療行為」としてカウンセリングを行うためには、親に話を持っていかないといけない。そこが怖かった。



つながりがないような場所から派遣されてきた人と出会うことが、理想でしたね。ただ、結局、関わりがあるところからでないと紹介できないわけですが、そこの部分まで、15歳の自分は考えが至らなかったです。



(「下」に続く。苦悩する次兄を救った人物とは・・・)


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