LOUDNESS二井原・山下が語る、『THUNDER IN THE EAST』とメタルシーンの現在

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2015年11月04日 00:21  リアルサウンド

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LOUDNESS【左から二井原実(Vo)、山下昌良(B)】(写真=竹内洋平)

 LOUDNESSが、来年2016年にデビュー35周年を迎える。これを記念した企画として、1985年に発表した全米進出第1弾アルバム『THUNDER IN THE EAST』の30周年記念盤『THUNDER IN THE EAST 30th Anniversary Edition』が11月25日にリリースされる。アメリカの名門メジャーレーベル、Atlantic Recordsと破格の7年契約を果たしたLOUDNESSは、オジー・オズボーンやMEGADETHとの仕事で知られるマックス・ノーマンと『THUNDER IN THE EAST』を完成させ、日本人ロックバンド初のBillboardトップ100入り(最高74位)という歴史的快挙を成し遂げた。さらにマディソン・スクエア・ガーデンでの日本人初のライブパフォーマンスが実現するなど、LOUDNESSが数々の偉業を達成するきっかけを作った歴史的名作だ。


(関連:X JAPAN、BABYMETALの海外進出を準備した? 先駆者LOUDNESSの音楽的功績を振り返る


 今回の30周年記念盤には、新たにリマスタリングされたアルバムのみならず、本邦初公開となるリハーサル音源や当時の未発表テイク、さらには秘蔵映像の数々をたっぷり収録。今回リアルサウンドでは連載企画「日本ヘヴィメタル/ラウドロック今昔物語」の番外編として、LOUDNESSの二井原実(Vo)、山下昌良(B)にインタビューを実施し、『THUNDER IN THE EAST』に関する貴重な話や当時のアメリカ音楽シーン、そして昨今の国内外メタルシーンについてじっくり話を聞いた。(西廣智一)


■アメリカではMötley CrüeやRATTと同期


──LOUDNESSは結成時点で海外での活動を視野に入れていたんですよね?


二井原実(以下、二井原):そもそもバンドを立ち上げた張本人のタッカンン(高崎晃/G)の中で、世界に通用するロックバンドを作りたいという思いがあって僕らが集められたって感じでしたから。僕は当時そういう考えはなかったんですよ、京都のしがないアマチュアバンドの一員だったんで。


──そして1981年11月にアルバム『THE BIRTHDAY EVE 〜誕生前夜〜』にデビュー。最初の海外ライブは1983年でした。


山下昌良(以下、山下):そうです、アメリカのカリフォルニアでしたね。


二井原:そもそも2枚目(1982年7月発売のアルバム『DEVIL SOLDIER 〜戦慄の奇蹟〜』)のエンジニアをやってくれたダニエル・マクレンドンという、サンフランシスコのエンジニアが「アメリカにおいでよ。来たら絶対に評判になるよ」と言ってくれて、それでやってみるかっていう話だったんです。


山下:サンフランシスコのレコード屋のおっさんがイベンターみたいなのをやっていて、そこが呼んでくれて。


二井原:当時はベイエリアのあたりでまだブレイク前のMETALLICAの連中とか、あの世代のバンドのメンバーがNWOBHM(New Wave of British Heavy Metal。1970年代末にイギリスで勃発した新たなヘヴィメタルムーブメント。IRON MAIDEN、DEF LEPPARDなどが登場した)のムーブメントですごい盛り上がっていて。僕らは当時、現地ではアルバムが出てないんだけども、そういう流れもあってアンダーグラウンドシーンでは結構な感じでもう名前が通ってたんですよ。だからライブをやったらお客さんがいっぱいで、「『BURNING LOVE』やれー!」とかアメリカで出てないはずの曲のタイトルを叫ばれたりしてね(笑)。逆にビックリでしたよ。


──今みたいにインターネットがあったわけじゃないですしね。


二井原:そうですね。だから向こうの子供たちが、それこそ1枚1万円くらいするような輸入盤を買ってくれたりして、すごい熱心でしたよ。


──当時の楽曲は日本語詞が中心でしたが、そういった楽曲でも現地のお客さんは盛り上がるわけですか?


二井原:そうなんです。もちろん英語で歌えたほうがいいだろうけど、向こうも日本のバンドだってわかってるから、そこは別に気にしてなかったのかな。こっちもどうせ通じひんやろうと思ってたから。


山下:逆に新鮮やったかもしれんし(笑)。あと、半分ぐらい楽器の一部と化してたからね、シャウトと高音で。ギター、ベース、ドラムにボーカルも楽器の一部みたいな。


二井原:それでもすごい楽しんでくれたし、盛り上がりましたよ。


──そういった流れが1984年にAtlantic Recordsとの契約につながっていくわけですね。


山下:サンフランシスコでやったときに、1回だけロサンゼルスに遠征して。そこでやったライブに、当時Atlanticにいたニック・ロフトって奴が観に来ていて、えらい感動したらしく。


二井原:スカウトマンみたいな奴で、彼が契約しようと動いてくれたの。


──当時アメリカではハードロックやヘヴィメタルがようやく盛り上がり始めた時期だったかと思いますが。


二井原:僕らがLAに最初行ったときはまだ前夜かな。


山下:3回目ぐらいに行ったとき、LAのレコード屋でニッキー・シックス(Mötley Crüeのベーシスト)と並んでサイン会したのを覚えてる。ジージャンにジーパンだったもんね、彼(笑)。で、Mötley Crüeの1stアルバム(『TOO FAST FOR LOVE』)のジャケットを見せてもらって「ROLLING STONESみたいやな」と思って。当時はどっちかっていうと、METALLICAとかスラッシュメタルが流行りだしたぐらいやな。QUIET RIOTが1位を獲る前ぐらいですね。


二井原:そういう意味ではLAメタルと呼ばれるような人たちと同期ですね、アメリカでのLOUDNESSは。Mötley CrüeとかRATTとか、ああいう人たちと。


山下:RATTなんて僕、全然知らなかったもんね。たまたまAtlanticで貰ったんだよね、同じレコード会社だったから。「こんなバンドあんねん。ええやない」とか言ってたら、あっという間にボーンと売れたからビックリしたけど(笑)。


二井原:BON JOVIなんかもよくキャンペーンで一緒になったけど、まだ彼もそんなに売れる前で。「Runaway」が日本でちょっと評判になったけど、アメリカでは全然やったし。若かったですよ、みんな。まだ20代そこそこで。


山下:だから後輩となるとPANTERAとかあのへんですね。Atlanticと契約してた最後の頃、取材でレコード会社に行ったときに新しいバンドのCDとしてPANTERAの1st(1990年発売のメジャー1stアルバム『COWBOYS FROM HELL』)を貰って。「ごっついバンドやなあ」と思ったなあ。


■30年ぶりに恐々と聴いたら、しっかり歌えていてビックリ


──『THUNDER IN THE EAST』に関しては最初から全部英語詞でいこうと決まってたんですか?


二井原:それはもうAtlanticのほうから当然英語でっていうのが最低条件としてあったから。


山下:デモテープでは日本語で歌ってるけどね。


──じゃあアメリカに行ってから英語に訳したと。


二井原:そうです。日本人がゼロから流暢な英語で歌詞を書くのは無理だから。こんなイメージでこんな言葉を使ってと、アメリカで作詞家と相談しながらね。でも、マックス・ノーマン(『THUNDER IN THE EAST』のプロデューサー)にしても英語が喋れないボーカリストと仕事したことがなかったんですよ。だからもう、お互いの手探り加減といったらすごかったですよ(笑)。


──マックスはとにかく厳しい人だったと聞きますが。


山下:厳しいというか、細かい人やったね。几帳面というか。


二井原:完璧主義者みたいなところがあるし。「えーっ、そんなとこ気にすんの?」みたいなところを細かく積み上げて、作品にする人ですね。


──日本で作ったデモの中にはかなり貴重なテイクも含まれてますよね。ファンの方もそうだと思うんですが、特に驚いたのは「FIRESTORM」が入っていたことで。


山下:ですよね(笑)。


──この曲が正式にリリースされたのはこの7年後の1992年、お2人が脱退した後に制作されたアルバム『LOUDNESS』でのことですし。


山下:当時METALLICAがインタビューでLOUDNESSが好きだと言ってくれてたし、「『Whiplash』みたいな速い曲、作ろうや!」ってMETALLICAに対抗してできたのがあれなんです。


二井原:言ってたね。で、ひぐっつあん(樋口宗孝。2008年11月に逝去)はワンバスドラマーなんで、ツーバスっぽく聞かせるために……。


山下:ワンバスで叩いてディレイかけてね。


──なるほど! あのバスドラを連打してる感じはディレイによるものだったんですね。


山下:本人はツーバス、絶対にイヤで。タッカンはわりと昔からツーバスの曲をやりたいというのがあったんで、「ひぐっつあん、ちょっとディレイかけさせてや!」と言ったら「好きにせえや!」ってね(笑)。


二井原:僕らもあのデモテープを久しぶりに聴いたんですよ。久しぶりっていうか、録ったとき以来だな。


山下:今のマネージャーに「(当時の貴重音源は)なんかないの?」と言われて「あったけど、どこにあるかわからんわ!」て答えてて。でも大掃除したら出てきたんですよ。カセットのラベルに何も書いてないから、全部聴くのに3日間ぐらいかかりましたけど。


二井原:彼の保存がよかったから、この企画も成立したというね。確かあれは2日ぐらいで録ったと思うんだけど、ほんとそれこそ徹夜で朝方眠いって中で録ったから、きっとあまり歌えてないやろうなと思って30年ぶりに恐々と聴いたら、しっかり歌えていてビックリしてね(笑)。


■「CRAZY NIGHTS」は最初ボツ曲というかイロモノ系だった


──日本から持っていったデモをマックスや現地のスタッフに聴かせた結果、「NO WAY OUT」みたいにテンポが変わったりと、曲によってはだいぶ様変わりしましたよね。サウンド的に何か指示はあったんですか?


山下:難しいフィルとかフレーズは弾くなって、マックスから口を酸っぱくして言われました。「もうお前ら、『DISILLUSION』までで十分やっただろ。だからシンプルにやってくれ」と。だから「CRAZY NIGHTS」の頭の、ドラムが「ドドン、ドン、ドン」とかいうの、ひぐっつあんは「こんなの、俺のドラム生命に関わるわ!」って怒ってたな(笑)。僕なんかも「THE LINES ARE DOWN」でベースの4連、6連フレーズを入れたら「お前何してんの? もう終わったんだよ! そこは普通にしてろ!」って怒られたから。でもギターだけは、ソロはトリッキーでいいだろうって。とにかくアレンジはシンプルにせえ、ノリを損なうようなことはすんなって言われてました。


──それが当時の主流の音だったってことなんでしょうか?


山下:というよりも、とりあえずこいつらをいっぺんシンプルにしたらどうなるのか、やってみたかったんやないかな。だって次の『LIGHTNING STRIKES』(同じくマックス・ノーマンがプロデュースした、1986年発売の全米進出第2弾アルバム)ではコロッと変わって、テクニックを全面に押せって言われたから(笑)。マックスはとりあえず試さな気が済まへんのやろね。きっと彼の中では、アメリカではシンプルがものが絶対に売れるって思ってたのもあるやろうし。


──シンプルな演奏だとラジオで聴いたときにすごく入ってきやすいですしね。


山下:そこも考えてましたね、マックスは。


二井原:あと、みんなで一緒に合唱できるような、シャウトできるようなパートを必ず1ヶ所入れろとか。そういうのはあったかもね。


山下:実は僕らの中ではあのデモテープで一番気に入っていたのが、1曲目に入ってた「THE LINES ARE DOWN」なんです。マックスに聴かせる前は「今度のアルバム、1曲目はこれで決まったな!」ってみんなで言ってたのに、アメリカに行ったらボツになりそうになって(笑)。マックスは「この曲、大して良くないな」と思ってたんです。「FIRESTORM」も聴いた瞬間すぐに弾かれたから。それでも僕らは好きだったから、アメリカツアー序盤は必ず1曲目にやっとったのね。でも実際やってみると、これが盛り上がんのよ。ちょっと複雑なんやろうね、ノリが。10カ所ぐらいやってみてあまりにも盛り上がらないから、「CRAZY DOCTOR」に変えたらえらい盛り上がって(笑)。


二井原:あと「CRAZY NIGHTS」は最初バンドの中ではボツ曲というかちょっとイロモノ系やったけど、それがマックス的にはいいってことでメインの曲に急浮上して。最初はリズムももう少し複雑だったんだけど、どんどんシンプルになってたんです。タッカンは「こんなリフ、俺が弾けるか!」ってマックスに怒ってたけど。


山下:それこそひぐっつあんが何度も「俺のドラム生命がこれで終わったら誰が責任取んねん! 俺のファンはみんな、俺の難しいフレーズに期待しとるんや!」と言ってたけど、それもわかるんですよ。でも初めてのプロデューサーやし、ここはプロデューサーの言うことを聞いとこうかと。


■海外での成功を「話盛ってるんやないの?」と言う人もいた


──日本でリハーサルしたデモ音源、アメリカに渡ってから録ったデモ音源、そして完成したアルバムと順を追って聴くと、どういう流れを経て完成にたどり着いたのかが手に取るようにわかりますね。


二井原:僕はね、実は歌メロがこんなに初期からある程度完成されてたとは、ちょっと意外やったの。レコーディング前からメロディはほぼ出来上がってたんだなって。僕の中では英語で苦労した記憶があるから、作りが全然変わってるんやって思いがあったんだけど、そうでもなかったなと。だからこのデモテープは本当に新鮮だし、新たな発見がいっぱいありました。


山下:今は全部データとして残せるし、リハーサルスタジオでそこまで演奏するバンドもあんまりいないかもしれないしね。


二井原:あの当時はアナログだからね。今は曲の長さもいくらでも変えられるじゃないですか。でもあの当時は実際に演奏しないとダメだったからね。


山下:だからミックスのときに、ちょっと短くしたくなったらマスターテープを切ってつなげる作業をしてたよね(笑)。


二井原:そうね。ポイントを見つけて、一か八かハサミで切ってたし。


──(笑)。そんな貴重音源のみならず、今回は貴重な映像もたくさん発掘されましたね。


山下:やっぱり映像が出てきたのは驚きやね。しかも見せてもらった瞬間、若すぎてショックやったから(笑)。音は30年前のやつでも自分のプレイやからさ、ある程度変わらんなってイメージがあるやないですか。でも映像はさすがに変わりすぎてて「誰これ?」って(笑)。家で観てたら恥ずかしいもんね。


──映像にはドキュメンタリー作品とアメリカでのライブがありますが、そもそもドキュメンタリー映像は当時なんらかの形で発表しようとして制作していたものなんですよね?


山下:そうです。確か10時間ぐらい撮ったんですよ。


二井原:今の北野武さんの事務所(オフィス北野)の森(昌行)社長が、その頃スタッフを連れてアメリカに同行して。


山下:ほんまのプロが使うようなデカいカメラをアメリカに持ってきて。で、ツアーバスに乗ったら失礼やからって、ずっと後ろについてきてたんですよ。


二井原:でもその企画がお蔵入りになったかなんかして、挙げ句の果てにフィルムが行方不明になってたんです。だから僕らも観たのはこれが初めてなんですよ。


山下:当時武道館ライブのときに流した、ちょっと編集した15分ぐらいのやつは観たことあるんだけど。ステージが始まる前に緊張しながら袖で4人が待機してる姿から、ライブが終わって達成感ある顔でそのままバスの中でインタビューしてる姿まで、すべて入ってるからね。


二井原:今までそういう80年代の映像がなかったから、「ほんまLOUDNESSって(アメリカで人気があったというのは)話盛ってるんやないの?」という人も結構いたのよ。今はYouTubeとかあるからリアルタイムで知ることができるけど、チャートの話にしても「あんなのどうせ、お金で操作してるんやろ?」とまで言われたし。でも30年経って、今回晴れて映像が公開されて「ね、本当にやってたでしょ?」と証明できるわけです。


■30年経ってもツアーのやり方は変わってない


──それにしても30年って歴史を感じさせますよね。


山下:当時はまず、携帯電話がないから(笑)。そこが一番大変でしたよね。とりあえずホテルにチェックインしたらまず、ルームリストが必要やもんね。携帯がないから、例えばニィちゃん(二井原)とメシ行くんやったら、ニィちゃんの部屋は何番やろって。でも、30年前と比べていろいろ進化してるけど、アメリカツアーのやり方は変わってないね。バスに乗って、バスで寝て。頼むわ、ほんま(笑)。


二井原:サンディエゴでライブをやった次の次の次のライブがノースキャロライナっていうね。西海岸から東海岸へ、そのままバスで移動するのも初めてだし。


山下:1000km以上あるから。なんや、今回は3日くらい休みがあるからえらい楽なスケジュールやなと思ってたら、全部移動の時間だっていう。


──そこだけは当時からまったく変わってないんですね。


山下:全然変わってないです。たぶんスケジュール的にここの小屋が空いてます、ここが空いてますってことでブッキングした結果、こんなことになってしまうんやろうけど。エグいよね、移動が。


二井原:1日移動しても景色変わらへんねんもん。


山下:基本的に、Tシャツで大丈夫な場所からダウンジャケットがないとダメな場所へ行くからね。そこで風邪ひくんですよ、だいたい(笑)。だからやることはまったく変わってないです、30年前と。食べるものも変わってないよね。ライブが終わってバスに乗ってもピザが3種類ぐらい置いてあるだけで。


二井原:エサですよ(笑)。で、ビールとコーラが置いてあって。


──以前、二井原さんがラジオで話していた内容で、当時POISONとCINDERELLAが自分たちの前座だったのに、しばらくしたらその2組がバカ売れして立場が逆転したという話がありましたが。


二井原:そうそう、『LIGHTNING STRIKES』のツアーで一緒に回ってる間にあれよあれよで。


山下:どっちも全米チャートのトップ3に入ってたよね。なのに僕らは100位内から1週間ぐらいで消えてたから。


二井原:ベスト10に入ってるバンドを従えてツアーを回るんやけど、あれは変な話やったな。


山下:あの頃、CINDERELLAのベース(エリック・ブリッティンガム)はまだ全然お金を持ってなくて、毎晩俺がビールを奢ってたな。で、「お前売れてんねんから、次会ったら奢れよ?」って言ったけど、まだ奢ってもらってないわ(笑)。まあ曲が覚えやすかったもんね、CINDERELLAもPOISONも。


二井原:カッコ良かったし、いいライブしてたからね。


■アメリカ、ヨーロッパ、日本のメタルシーンの違い


──30年前と比べて、アメリカやヨーロッパのメタルシーンはどんな感じなんですか?


山下:アメリカとヨーロッパではまた違うんだよね。僕らがアメリカで呼ばれる大きなフェスって大体80年代のバンドばかりだから、必然的にそういうお客さんが多いんで。


二井原:TESLAとかQUEENSRYCHEとかね。


──じゃあ年齢層も若干高め?


山下:そう。当時を知ってる人たちだから、もちろん盛り上がりますよね。でもヨーロッパに行くと最近のバンドも結構出るし、聴いたことないのがいっぱいいる。例えばフィンランドのフェスでは、僕はそのとき知らなかったけど、OPETHがすごく良くて。あとはAMORPHISとかABBATHとかSABATONとか、あのへんはヨーロッパでは必ず人気があるけど、アメリカではそうでもないよね。で、アメリカに行くとTHE WINERY DOGSが人気だったり。全然色が違いますよね。アメリカ、ヨーロッパ両方で盛り上がるのはLOUDNESSとTWISTED SISTERぐらいじゃないですか。


二井原:TWISTED SISTERは向こうではすごい人気だよね。


山下:この前のスペインは楽しかったですね。出演バンドがSCORPIONS、JUDAS PRIEST、KROKUSとちょっとあり得へん感じで、高校生の頃の僕に戻ってしまいましたから。しかも僕らの出番が終わったらすぐにACCEPTが始まって、その後にJUDASがたたみかけるように始まって。


二井原:最後にRIOTが出てね。


山下:RIOTのメンバーから「お前、『Warrior』弾けるか? だったら出ろ!」って言わて、そのままライブに飛び入りしたんです。


二井原:僕はそれを最前列で、酔っ払いながら観ていて(笑)。


山下:ものすごくデカいサッカー場が3つぐらいある場所にステージを組んでやってるんだけど、ありえへんのはすぐそばに普通に民家やマンションがあるのに夜中の3時ぐらいにVENOMがライブやってるの(笑)。これ日本だったら、神宮球場で夜中の3時にいきなりVENOMが演奏するようなものだからね。


──普通なら苦情が来ますよね(笑)。では皆さんから見て、日本の今のメタルシーンはどう映りますか?


山下:『LOUD PARK』とか呼んでもらうけど、盛り上がってるよね。ただ、あれも外国のバンドがメインで、日本人がまだまだメインにはなれていないのがどうなんやろうなって。例えばLOUDNESSだったりOUTRAGEだったりANTHEMだったりがメインにおって、それに対抗するようなやつがおったらまた違うのにね。そういうイベントができたらええなと思いますけどね。


──そういう意味ではLOUDNESSは今年、OUTRAGEとともに『LOUD∞OUT FEST』というイベントを初開催しましたが。


山下:そうですね。あれを大きくしていけばいいわけですから。


二井原:ドメスティックなバンドのメタルイベントっていう意味ではね。


■90年代末は引退、就職活動まで考えた


──ちょっと話は変わりますが、ヘヴィメタルにとっての90年代って80年代ほどの盛り上がりに欠けた時期でしたよね。


山下:ちょうどグランジの時代で。


──ですね。二井原さんも山下さんも当時、LOUDNESSから離れてそれぞれ別のバンドで活動していたわけですが、お2人にとってどういう時代でしたか?


二井原:あの当時は世界的に、メタルバンドが生き延びていくのに大変な時期だったよね。特にオーソドックスなメタルをやってるバンドには厳しかったし、それこそギターソロがない曲が好まれる時代だったし。僕はすでにいなかったけど、LOUDNESSだって相当実験的な時期でしたから。


──二井原さんは当時SLYで活動していましたが、お客さんに変化ってありましたか?


二井原:SLYに関して言うと、EARTHSHAKERとLOUDNESSが合体したバンドだったから、デビューしたときはそこそこ興味を持って来てくれてたけどね。CDも10万枚ぐらい売れたのかな、あのときは。まあ話題作りはすごかったですから。ただ、その感じを維持できなかった。だって当時はB'zをはじめ、ビーイング系の時代だったからね。ちょっとロックっぽいギターが入りながらも、歌は歌謡曲的で。


山下:僕はまさにそこにおったんですよ。


──spAedのことですね。


山下:あの頃はいっぺんハードロックとは違うものをやってみようと思って、ああいう音楽をやってたんです。でも2年もやってたらどんどん鬱憤が溜まってきて(笑)。


二井原:僕は1998年ぐらいにバンドや事務所がなくなり。それこそもう引退やな、次は仕事何しようかなと、マジで求人雑誌を買ったり新聞の求人欄を調べたりして、履歴書を買って就職活動しないとなってところまで来てたからね。


──そこまでだったんですね。そして2000年に二井原さん、山下さん、樋口さんがLOUDNESSに復帰します。


二井原:ちょうどLOUDNESSが結成20周年で、もう一回オリジナルラインナップに戻ろうかって話があって。で、現在に至るという。35年もやってれば、いいときもあれば悪いときもありますよ。


──でもLOUDNESSは一度も解散してないですよね。


山下:そうですね。タッカンが1人で守ってきたから。


二井原:彼がいればLOUDNESSですからね、はっきり言って。


■口で説明するよりも1本ライブを観てもらうことの説得力


──LOUDNESSは来年でデビュー35周年。日本のヘヴィメタルバンドが35年続いているという事実はすごいことですよ。


山下:35年前はBOW WOWぐらいしかいなかったもんね。


二井原:さっきも話してたんだけど、やっぱり続けるってことは大事やなって。デモテープを録った当時は23、4歳だったんだけど、ちょうど自分の息子ぐらいの年代なんですね。今聴くと歌は荒いけど、でも面白いなって客観的に思えたなあ。あのときはマー君(山下)は21とか22でしょ? それでもあんなに完成度の高い音楽を作ってたんだから、すごいよ。


──2016年はいろいろ計画していることもあるんでしょうか?


二井原:35周年記念アルバムを準備していて、オリジナルアルバムも来年、時期を見てレコーディングできたらいいなっていう。もちろん日本でも35周年にふさわしいツアーをしたいと思ってます。あとは、もうヨーロッパでは大きなフェスがいくつか決まってます。


山下:海外からのオファーは続々と来ていて、すごいデカいのもありますよ。あるところではBLACK SABBATHと同じステージという話もありますから。で、そういうイベント出演に伴ってツアーも組まれると思うし。


二井原:最近は特に、『THUNDER IN THE EAST』の曲を演奏するツアーを日本でやると発表してから海外からのオファーが増えたんですよ。


山下:『THUNDER IN THE EAST』だったら客が入ると思ってるんでしょうね。「『THUNDER IN THE EAST』の曲を5〜7曲ぐらいやってくれるんだったら」って具体的なオファーもありますし。


二井原:やっぱり当時MTVでも流れ倒してたから、向こうのオッサンたちは喜ぶんだよね。しかも今は子供を連れて来てるから、親子二代で。で、その息子や娘がLOUDNESSを初めて観て、次に行ったときは子供だけでライブに来るようになったり。


──それは完全に長く続けてるからこそですよね。


二井原:やっぱりライブは大事ですね、とりあえず向こうに行ってやるっていうのは。いろいろ口で説明するよりも、1本ライブを観てもらったほうが説得力があるから。


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