【実写映画レビュー】野心的なアレンジと相反する曲調――骨太なクイーン・松岡茉優のゴルゴ的存在感が救い!?『ちはやふる 下の句』

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2016年05月05日 18:01  おたぽる

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おたぽる

映画『ちはやふる』公式サイトより。

 競技かるた(小倉百人一首)の世界を舞台にした青春部活モノの人気作『ちはやふる』(作:末次由紀/講談社)は、既刊31巻を数える人気コミック。その実写映画版が、前後編の二部作として作られた『ちはやふる 上の句』(2016年3月公開)、『ちはやふる 下の句』(2016年4月公開)だ。



 前編『上の句』は、天才的なかるたの資質を持つ高校生・綾瀬千早(あやせ・ちはや/広瀬すず)がかるた部を創設して部員を集め、初出場ながら団体戦で全国大会出場を決めるまで。後編『下の句』は、千早が宿命のライバル若宮詩暢(わかみや・しのぶ)と出会い、対戦して大敗するまでを描く。



 ここで映画の内容に行く前に、原作ものの実写化について考えてみたい。



 紙に定着した文字や絵である原作を、現実の俳優が演じる映像作品にうまいことコンバートするには、さまざまな工夫が必要だ。その意味で、原作ものの実写化は、楽曲の「アレンジ」にたとえられる。



「アレンジ」には多くの方法がある。オリジナル曲のメロディラインはそのままに、演奏する楽器だけを変えるのか。Aメロ、Bメロ、サビの展開ごといじるのか。オリジナルに存在しなかった楽器を追加してトラックを増やすのか。主旋律の音量を下げてベースやドラムを際立たせるのか。いっそ、使用楽器と歌い手だけを残して、まったく違うメロディを創作してしまうのか。 曲の展開構造を変えるのは、長い原作を短くまとめる際に有効な「プロットの再構成」というテクニックだ。トラックを増やすのは、短編原作を長編映画にする時、脇役の描き込みを肉付けして尺を稼ぐ手法にあたる。ベースやドラムを際立たせるのは、主人公の描写を減らして脇役の存在感を前面に出すやり方。最小限の要素を残してほとんど別の曲を作ってしまうのは、設定だけ借りてオリジナルストーリーをこしらえるトリッキー技。これは「原作レイプ」に陥る危険度が高い。



 どんな「アレンジ」を施すかは監督の手腕にかかっている。原作ファンのご機嫌、製作委員会や俳優事務所の意向、予算など、さまざまなオトナ要素が競合する場合もある。原作を無視してファンの総スカンを食らったものの、野心作として後世まで残ることもあれば、ファンの機嫌をとって慎重にまとめた結果、誰の記憶にも残らない無難作になったケースも少なくない。



 そこにきて映画『ちはやふる』、特に『上の句』は、かなり大胆な「アレンジ」を楽しむ作品である。原作のハイライトエピソードを順調に消化していながら、なんと主人公が千早ではないのだ。



 原作『ちはやふる』は、千早が仲間を作り、挫折を経験し、成長し、ライバルを次々と倒してゆく物語だ。この、次々と新しいライバルと対戦していく形式は、古き良き「少年ジャンプ」の王道展開そのもの。原作『ちはやふる』が、「女の子を主人公にした少年マンガ」と呼ばれる理由が、そこにある。



 ところが『上の句』は原作と違い、千早に想いを寄せるかるた部の部長、真島太一(ましま・たいち/野村周平)の目線で描かれる。太一は、自分が千早ほどかるたの才能がないことを知っている。そして、千早が恋しているのは自分ではなく、綿谷新(わたや・あらた/真剣佑)という、これまた自分が到底及ばない超天才かるた野郎であることも、痛いほどわかっている。 『上の句』は、少女マンガで言うところの典型的な“当て馬キャラ”である太一を主人公として展開する、辛くビターな物語だ。原作とは対照的に、「男の子を主人公にした少女マンガ」の体。歌い手(千早)のマイクレベルをぐっと下げてベース(太一)をメインで聴かせる、大胆なアレンジというわけだ。



 この腹に響くベースは、見ていてひたすら苦しい。そして男泣きに泣ける。負けると分かっている戦にあえて挑む弱者の意地に、凡才である我々は涙が止まらない。



「勝ち目のない恋の戦い」をクライマックスの試合にピタリと重ね合わせる演出は、『上の句』の白眉中の白眉だ。競技かるたならではのルール、そこで詠まれる歌のチョイス、太一の思いがけない戦法――その三点が交錯する団体戦の決勝、太一渾身の一戦は鳥肌もの。ボーカル・広瀬すずの存在をも忘れさせる、エモーショナルな魂のベースがかき鳴らされる。



 しかし、映画『ちはやふる』には致命的な欠陥がある。「調」がおかしい。幼稚すぎるのだ。そこはマイナーコードで憂いたっぷりに歌い上げる演出だろ! というところで、なぜか小学校の合唱曲のような健全メジャー音階が雰囲気をぶち壊す。要は、低年齢向けのずっこけコメディ演出が目に余るのだ。



 コミックなら許されるコメディタッチの演出も、実写ではサムくなりがち。コミックでは多少の脱線ギャグも主旋律たるシリアス展開を邪魔しないが、実写で俳優がコメディを演じるとインパクトが強すぎて、全体の楽曲トーンをコメディ一色に染め上げてしまうからだ。



 たしかに、上映劇場には中高生の同性仲良しグループの姿が目立っていた。演出タッチをライトなコメディ寄り、ローティーン向けに調整したのは、興行的にはおそらく正解だ。



 ただ、太一が体現する凡人の悲哀という大胆アレンジを心の底から感じ入ることができるのは、「かつて青春時代に“負けた”経験のある男ども」に限る。つまり、少なくとも大学生以上の男性だ。彼らにとって、本作のお子ちゃま演出トーンは耐えがたい。せっかくの入魂ベースサウンドが、カスタネットにかき消されている。



 この歯がゆい状況をどう表現すればいいだろう。スパイスたっぷりの本格カレーにリンゴと蜂蜜を入れすぎた残念感。極上のブルーマウンテンにミルクと砂糖を大量投入してしまったトホホ感。雅にあふれた百人一首の絵札が、pixivにゴマンと転がっていそうな萌え絵に置き換わったぶち壊し感……とでも言おうか。



 ただし、救いはある。あまたの萌え絵札のなかに、さいとうたかを先生ばりのガチな骨太劇画タッチをぶっこんでくる登場人物がいるのだ。主に『下の句』に登場する現かるたクイーン・若宮詩暢(わかみや・しのぶ)。千早にとって最強のライバルにして、孤高の天才である。 詩暢を演じるのは松岡茉優。元おはガールで、自他ともに認めるモー娘。マニア、『あまちゃん』ではアイドルグループGMTのリーダーを演じ、現在では大河ドラマ『真田丸』(NHK)にも出演する若手急上昇株だ。彼女は、そのキレた芝居で萌え絵札を盛大に蹴散らしてくれる。



 ゆるめのコメディ世界観を基本とする映画『ちはやふる』において、松岡の登場シーンだけは空気の温度が変わる。芝居のテンポが変わる。繊細にして怜悧、ぞっとする不敵な笑みを繰り出す松岡。天真爛漫で華やかな千早役・広瀬すずとは対照的な、低く落ち着いた声をもって、強引に「転調」を仕掛けてくるのだ。



 映画『ちはやふる』全体の演出トーンが、音割れした大音量の盆踊りソングだとすれば、松岡の登場シーンだけは、真冬のニューヨークで静かに奏でられるサックスの如し。憂いを帯びた音色が、人の心を軋ませる。ゴルゴ13よろしく、一撃必中のスナイパーなみの働きをするのが、松岡だ。日常系ゆる萌え世界に、ハードボイルドな殺し屋が土足で踏み込んだ感が凄まじい。痛快ではある。が、世界観が渋滞している感は否めない。



 とはいえ、さまざまな意味で「お子ちゃまランチ」な日本映画が多い中、本作の松岡に出会った健全な中学生男女の一部が舌の超えた観客に育つ可能性には、うっすら期待したい気もする。 「お子ちゃまランチ」にカラスミが混入されていたら、それを食べた子供の何十人かに一人は、渋い酒飲みに育つかもしれない。若者の酒離れが嘆かれる当世においては、頼もしい「事故」であろう。たとえ話ばかりで恐縮だが、松岡にはキッズたちの舌を育てる、尖った珍味感がある。



 というわけで、松岡をもっと拝みたい筆者としては、若宮編のスピンオフ作品をお願いしたいところ。仕上げはもちろん、さいとうプロで。アホ毛も萌え袖もぱっつん前髪も一切いらないんで、ひとつ。
(文/稲田豊史)


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  • ☆骨太なクイーン・松岡茉優のゴルゴ的存在感が救い!?「ちはやふる 下の句」 まぁ、音楽的な喩えでまわりくどく書いて誤魔化しとるが、結論は記事タイトルを見よ!と。
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