新しい手法でリアリティを追求した魔法の映画『ハッピーアワー』 - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

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2016年12月13日 15:32  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

<国際的な評価を受けている濱口竜介監督の映画『ハッピーアワー』は、これまでの映画の虚構性をいったん否定して、再定義した意欲作>(画像:映画では30代後半の4人の女性の「リアル」を描く)


 濱口竜介監督といえば、酒井耕監督と共同演出した東北記録映画三部作『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』が話題になりましたが、最新作の『ハッピーアワー』は、4人の主演女優たちがスイスのロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞するなど、日本の内外で話題となっています。


 今回、濱口監督と主演女優の一人である菊池葉月氏がプリンストン大学に招かれ、スクリーニングが行われたのを機会に、全編を鑑賞することができました。


 映画の内容については、公式サイトの紹介を掲げますが、


「30代後半の女性たちを主人公に、4人それぞれの家庭や仕事、人間関係を丁寧に描きながら、濱口竜介は、どこにでもいる"普通"の女性たちが抱える不安や悩みを、緊張感あふれるドラマとして見事に表現してみせた。今の私は本当になりたかった自分なのか? 本当に伝えたいことを言葉にできているのか? ゆっくりと、迷いながら発せられる彼女たちの一言一言が、観ている者にスリリングな感動を届けてくれる。」


 という内容については、実際に見てみると確かにその通りでした。ですが、この作品、私がこれまでに見たどの映画とも「何か」が違っていました。不思議なリアリティがあり、いつまでも余韻を残すのです。


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 本作の一つの特徴は、演技未経験者の参加による「即興演技ワークショップ in Kobe」という演技ワークショップ出身者17名が主要なキャストを務めているということです。賞の栄誉に輝いた主演女優4人もこのワークショップ出身です。また、全編で5時間17分という「長尺」ということもあります。


 実は「演技未経験者の出演」ということと、「長尺」ということに関しては事前知識はありました。ですから、役者さんに新鮮な魅力があるのだろうとか、悠然とした時間感覚や情景描写があるのだろうという「勝手な予想」をしていたのです。


 そうした予想は完全に裏切られました。


 ですが、驚異の映画、魔法のような映画であるということは間違いないと思います。


 それは、これまでの商業的な劇映画が持っていた「劇」つまり芝居、あるいは演技ということを一旦全否定して、新たにフィクションの空間としての映画というものを再定義したということです。


 その再定義というのは、どういうことであって、何がそれを可能にしたのか、この点については映画のメイキングの記録というべき『カメラの前で演じるということ』(濱口竜介、野原位、高橋知由、左右社刊)を読んで、驚愕とともに理解をしたことを申し上げておきたいと思います。


 通常の劇映画というのは、文字通りの「劇」に他なりません。まずストーリーがあり、それは台詞から構成された脚本という形で表現されます。その脚本は、恐らくはそのまま舞台で上演されても意味を持つように作られており、従って虚構性に満ちています。


 虚構性というのは、絶対に現実世界では起きないという意味です。どういうことかというと、台詞に加えて、ト書きに書かれた情報が舞台の演出や装置、映画のセット・演出として表現されることで、誰にでも分かる虚構の空間が完成するからです。


 その虚構の空間では、一つ一つの台詞は、ストーリーの流れと、その場の演技の相互補完によって「誰にも意味とニュアンスが分かるように」表現される仕掛けです。ですから、実生活における会話とは似て非なるものとなります。


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 ところが、この『ハッピーアワー』では、そのような映画的な虚構性が極端なまでに排除されています。それは3つのアプローチから出来ています。


 1つ目は、役者さんに登場人物の背景情報と、場面場面の複雑なコンテキストを理解させているということです。役者さんが未経験者だということが重要なのではありません。そうではなくて、「劇の台詞」ではなく、ある複雑なコンテキストの中で、一つの台詞が発せられるのであれば、その背景にはどんな感情や意味があるのかを、膨大な情報とともに役者さんに考えさせているのです。


 具体的に言えば、そもそも「自分の役というのはどんな人格か」「このシーンの相手役は」「そこで言及される第三の人物は」ということを過去からの変遷として理解し、更に相互の関係性などもその変遷の結果として「この時点」が設定されているのです。そのために、この作品にはシナリオ本体とは別に、膨大な「サブテキスト」というものがあり、登場人物の過去や、過去の相互関係を説明するダイアローグが書き込まれています。


 役者さんたちは、本編のシナリオとは別に、その「サブテキスト」の読み合わせも行い、それを通じて、人物の過去と現在に至る経緯を、関係性の変遷としても理解した上で演技に臨んでいるのです。その結果として、もちろん100%ではないのですが、虚構性を最小限にして、疑似現実のような空間を作り出すことに成功しています。


 特に非言語の部分、つまり所作や表情の部分で、この4人にはベテランの役者さんのパフォーマンスを越えるような表現が出来ているように見受けられましたが、その秘密はここにあります。その不思議なリアリティという特徴がまず一つあります。


 2つ目は、時間の感覚です。劇映画では、全てが計算された時間の中に綿密に構成されています。ですから、時間も完全な虚構性に満ちているわけです。ですが、本作では、徹底して「現実に近づけた時間感覚」ということが意識されています。


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 例えば、ある決定的なシーンで、主人公の一人が夜明けの町を歩いて行くのですが、そのシーンには通常の映画ではあり得ないような長い時間が当てられています。その長い時間を歩き切ることで、しかも与えられたコンテキストに基づく一種の悲劇性を帯びながら歩くことで、観客は、役者さんの演技にリアリティを感じるのです。そのリアリティは、通常の映画的な時間とは全く別物です。


 作中に出て来る「ワークショップ」とか「飲み会」あるいは「朗読会」といったイベントも、説明的なスケッチではなく、観客に実時間の共有に近い経験をさせるような時間感覚で表現されています。「5時間超え」はその結果というわけです。


 3つ目は、会話や関係性がリアリティを持つというマジック、限りなく現実に近い時間感覚を観客に共有させるというマジックを活かすために、緻密な演出と照明、撮影の努力がされているということです。


 薄暗い空間が必要なら本当にそれを撮ってしまう、どうしても必要なアングルがあるのなら思い切り遠くから望遠で撮る、船や電車、あるいは自動車の中という移動空間における印象的な画作りをする......つまり演出・照明・撮影に関しては、実は通常の映画よりも人為的な作為、あるいは虚構性は拡大されているのです。映像は凝りに凝っていて、それが特殊な演技と特殊な時間のもたらす「疑似現実」をコッソリと支えているわけです。


 本作の公開は、2015年末から始まっていますが、現在でも日本国内、あるいは世界中で上映が続いています。一見をお勧めします。



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