ジャニーズと戦後日本のメディア・家族(前編)

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2016年12月28日 06:51  ニューズウィーク日本版

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ニューズウィーク日本版

 論壇誌「アステイオン」85号(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス、11月29日発行)から、周東美材・東京大学大学院情報学環特任助教による論考「いつも見ていた『ジャニーズ』――戦後日本のメディアと家族」の一部を、2回に分けて抜粋・転載する。  SMAP解散騒動により、改めてその存在の大きさ・特異性に注目の集まったジャニーズだが、その1962年4月の誕生から振り返った周東氏は「『ジャニーズ』が日本社会において日常化していったという事実には、戦後日本が東アジアのなかで経験した独自の歴史が色濃く刻印されている」という。果たしてジャニーズとは何なのか。それは東京・代々木のワシントン・ハイツから始まった――。


(※なお、本稿では、最初の4人組グループのジャニーズを指すときには〈ジャニーズ〉と表記)


(上写真:ソノシート付き絵本『バットマンダイヤモンド強奪計画』日本ビクター出版株式会社、1966年。〈ジャニーズ〉はフジテレビなどで放送された「バットマン」の主題歌を歌った)


それはワシントン・ハイツから始まった


〈ジャニーズ〉を生み出したのは「アメリカ」だった。東京・原宿駅から徒歩数分のところに、代々木公園という都内では有数の大きな公園がある。この地には、かつて「ワシントン・ハイツ」と呼ばれた米軍住宅地区があった。金網で仕切られたフェンスの向こう側には、色とりどりの屋根をもった瀟洒な白壁の家屋が並び、緑と芝生に囲まれた「アメリカ」の生活の姿が、映画セットのように広がっていたのである。〈ジャニーズ〉を発案したジャニー喜多川は、このワシントン・ハイツで暮らしていた。


 ワシントン・ハイツは、一九四六年に着工、その工事規模は約二七万七千坪の敷地面積のなかに、礼拝堂、劇場、クラブハウス、小学校、PXなどの公共施設と八二七戸の住宅を建設するという大規模なものだった。その住宅は、アメリカ人の生活様式に即して建てられた家屋「デペンデント・ハウス」であり、電気冷蔵庫や電気洗濯機など、当時の日本人には馴染みのない電気機器が備えられた。デペンデント・ハウスが提示するアメリカ式生活様式は、これからの日本人が目標とすべき生活の姿とされ、電気機器の製造は、三菱電機、日立、東芝、松下電器産業(ナショナル)など国内メーカーが受注していた(小泉・高藪・内田一九九九:七二‐七五)。


 ジャニー喜多川は、一九三一年、ロサンゼルスに生まれ、アメリカ国籍をもつ日系アメリカ人だった。朝鮮戦争の後に来日し(1)、ワシントン・ハイツ内の宿舎(後の国立オリンピック記念青少年総合センター宿泊棟)の四階の一室に住みながら、アメリカ大使館軍事援助顧問団(MAAG)の職員として勤務していた。


 彼は大使館勤務の傍ら、プライベート・ビジネス(私事)として、子どもたちに少年野球を指導していた。この少年野球チームの名前が「ジニーズ球団」であった。


 あおい輝彦は、ジャニーズ球団を金網の外から羨ましく覗き込んでいたときに、中谷良は、友達とフェンスを乗り越えてラジコン飛行機で遊んでいたときに、ジャニー喜多川に声をかけられた。米軍施設といえばオフリミットであり、日本人は原則的に立ち入り禁止だった。だが、ワシントン・ハイツは一九五七年までは周辺に住む子どもの立ち入りを許しており、それ以降もこっそり侵入していた小中学生は少なくなかった。ジャニー喜多川は、そうした子どもたちを相手にして、ワシントン・ハイツや立教大学のグラウンドで野球を教えていた。当時の少年たちにとって野球といえば、阿久悠が『瀬戸内少年野球団』で活写したように、憧れであり新しい時代の象徴だった。


 ジャニーズ球団は、メンバーに浜田光夫らが所属し、力道山や松島トモ子が応援に加わるなど芸能界との強いパイプをもっていたが、かといって最初からアイドル・グループを志して結成されたわけではなかった。アイドル・グループ〈ジャニーズ〉結成の直接のきっかけとなったのは、ジャニーズ球団の少年たちがジャニー喜多川とともに丸の内ピカデリーで映画「ウェスト・サイド物語」を観賞したことだった。


 少年たちは、歌って踊るアメリカの不良少年のミュージカルに魅了され、何日も映画館に通った。やがて見よう見真似でダンスを始め、そのなかで残っていったのがあおい輝彦、中谷良、飯野おさみ、真家ひろみの四名だった。彼らは、自分たちでミュージカルを上演することを夢見るようになった。ジャニー喜多川も「日本版ウェスト・サイド物語」の上演を目指し、自作のミュージカル台本「いつかどこかで」の制作に着手した(2)。〈ジャニーズ〉は、ワシントン・ハイツという日本のなかの「アメリカ」を母胎とし、また映画のなかの「アメリカ」に憧れて誕生したのである。


 ジャニー喜多川は歌って踊れる少年グループを育てるべく、名和太郎の運営する新芸能学院や渡辺プロダクションに四人の少年たちを紹介し、本格的なトレーニングを受けさせた。やがて池袋のドラム、新宿のACB(アシベ)、銀座の美松などのジャズ喫茶に出演し、一九六三年一月にはナベプロが取り仕切る第十九回日劇ウェスタンカーニバルで伊東ゆかりのバックで踊るなどした。この時期の〈ジャニーズ〉は、ナベプロの強い影響下にあったのである(図1 ※アステイオン本誌には掲載)。


 こうした事務所外での「下積み」を重ねながら、〈ジャニーズ〉は坂本九《上を向いて歩こう》、梓みちよ《こんにちは赤ちゃん》などのヒット曲を生み出したテレビ番組「夢であいましょう」に出演するようになった。一九六四年八月には永六輔作詞、中村八大作曲の《若い涙》を披露し、十二月にはこの曲でレコード・デビューを果たした。一九六五年二月にはモーター・スポーツを舞台化した石原慎太郎の作・演出ミュージカル「焔のカーブ」(主演・北大路欣也)のオーディションを受けて合格、「神風のわかもの」のごとくサーキットに臨む主人公に憧れる「雷族」を演じた(『日生劇場プログラムNo.16焔のカーブ』日生劇場、一九六五年四月)。


 また、一九六六年には四カ月間、アメリカに滞在し、レッスンに明け暮れ、ラスベガスなどのショー・ビジネスにも触れていった。しかし、一九六七年一月に帰国したころには、ザ・ビートルズの来日を契機に大流行したグループ・サウンズが芸能界を席巻していた。〈ジャニーズ〉もザ・ビートルズを敬愛しステージでも歌ってはいたが、バンド編成ではないミュージカル少年たちが活動できる場は、そう多くなかった。そして、この年の夏、ジャニー喜多川原作の「いつかどこかで」を上演、十一月の公演をもって解散した。


 なお、《若い涙》以降、〈ジャニーズ〉の楽曲の作詞を手掛けた人物には永六輔、石原慎太郎のほか、岩谷時子、江間章子、安井かずみ、山上路夫らがおり、いずみたく、團伊玖磨らが楽曲を提供した。権利関係は、渡辺音楽出版株式会社やオールスタッフ音楽出版社(3)などによって管理されていた。


【参考記事】SMAP解散危機、ベッキー騒動は「ニュース」なのか?


*本稿は、二〇一六年度サントリー文化財団「知」の試み研究会、ならびにJSPS科研費26870168の研究成果の一部である。本稿で使用した図版はすべて筆者所蔵。


※後編は12月29日に掲載予定です。


[注]


(1)ジャニー喜多川の来日の経緯は詳しく知られていない。中谷良によれば、ハイスクール在学中に兵役志願し朝鮮戦争に従軍したとされているが(中谷一九八九:六一)、和泉ヒロシによれば、アメリカでラジオや演劇関係の仕事に携わったのちに来日、日本で韓国語を学習して板門店に渡り、米軍の命令で一年二カ月のあいだ朝鮮戦争の戦災孤児に英語を教え、そのあとに再来日したとされている(和泉一九七六:三七)。和泉ヒロシは小菅宏のペンネームで、彼は一九六八年からジャニー喜多川と親しく交際し、ジャニー喜多川本人から情報提供を受けて「ジャニーズ」関連本を著している。本節での記述は、この二著のほか、立花(一九九三)、秋尾(二〇〇九)、当時のコンサート・パンフレットや雑誌記事を総合的に検討し再構成したものである。


(2)ミュージカルの上演はジャニー喜多川の悲願であり、ジャニーズ事務所の特別な活動であり続けた。ジャニー喜多川が企画・演出している堂本光一の「SHOCK」や滝沢秀明の「滝沢歌舞伎」のような演目は毎年公演され、生田斗真や風間俊介のような歌手活動をしない人物もミュージカルには出演している。


(3) オールスタッフ音楽出版社は、いずみたくによって創設され、原盤制作と著作権管理によって新たな権利ビジネスを展開していった。その最初の原盤レコードとなったのが一九六七年発売の〈ジャニーズ〉の《太陽のあいつ》であり、三十万枚を売り上げたという(いずみ一九七〇:二三〇‐二三一)。


周東美材(Yoshiki Shuto)


1980年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了、博士(社会情報学)。首都大学東京、東京音楽大学等の講師。専攻は文化社会学。著書に『童謡の近代――メディアの変容と子ども文化』(岩波書店、日本童謡賞・特別賞、日本児童文学会奨励賞)、『カワイイ文化とテクノロジーの隠れた関係』(共著、東京電機大学出版局、日本感性工学会出版賞)、『文化社会学の条件――二〇世紀日本における知識人と大衆』(共著、日本図書センター)など。


※当記事は「アステイオン85」からの転載記事です。




『アステイオン85』


 特集「科学論の挑戦」


 公益財団法人サントリー文化財団


 アステイオン編集委員会 編


 CCCメディアハウス




周東美材(東京大学大学院情報学環特任助教)※アステイオン85より転載


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