M-1準優勝・ハリガネロックが解散の真相を告白! お笑いトレンドの変化に翻弄される芸人たち

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2017年01月18日 12:11  リテラ

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リテラ

『芸人迷子』(扶桑社)

「M-1グランプリ」準優勝、「爆笑オンエアバトルチャンピオン大会」優勝、「ABCお笑い新人グランプリ」最優秀新人賞、「NHK上方漫才コンテスト」最優秀賞──数々の大型漫才コンテストで華々しい成績を残してきた漫才コンビ・ハリガネロック。しかし、ユウキロックと大上邦博の2人は、2014年3月22日に解散した。「お笑いブームも終わった」と言われて久しいが、ここまで成功をおさめたコンビが解散することはなかったため、この解散が大きなニュースとなったのは記憶に新しい。



 なぜ2人は解散したのか? 決して売れていなかったわけではないし、お笑い好きからは一貫して評価され続けてきたコンビの解散理由をユウキロックが赤裸々に明かした著書『芸人迷子』(扶桑社)が話題を集めている。



 もともと2人は別々のコンビで活動していた(ユウキロックはハリガネロック以前、コンビ「松口VS小林」で活動。相方は後のケンドーコバヤシである)。ユウキロックは活動のなかで徐々に広がり始めたコンビ格差の状況に悩み、〈「松口VS小林」が売れても俺は売れない〉との思いから解散を切り出す。そして生まれたのがハリガネロックであった。



「じゃない方芸人」が始めたコンビという評価からのスタートではあったが、ライブを大事にし続けてきたが故の圧倒的な客ウケを武器に賞レースを勝ち上がっていく。03年には漫才コンビとしては異例となる渋谷公会堂での単独ライブも開催し成功をおさめた。



 しかし、結成10年目を迎えた頃からだんだんと歯車は狂い始めていく。その後は、コンテストの傾向を考えたうえで臨んだM-1グランプリでも芳しい成績を残せなくなり、ついには決勝進出すら難しくなってしまう。そして、そんな迷走期のなかで決定打となったのが、05年のM-1王者となったブラックマヨネーズの漫才であった。



 吉田敬の異常な「心配性」に小杉竜一がアドバイス、その助言を吉田が混ぜっ返し、さらにその返しに苛立ちながら小杉が応え、漫才はうねるような笑いを生んでいく。ブラックマヨネーズはハリガネロックより後輩だが、2人の個性がぶつかり合いながら笑いを生み出していくその漫才は、ユウキロックにとって理想の漫才のかたちであり、そのM-1グランプリでの漫才は彼に衝撃を与えた。



〈明確なボケはない。ボケとツッコミというパート分けも細かく存在しない。主義と主義。イズムのぶつかり合い。これこそが俺が問い続けた漫才の答え〉



 M-1でのブラックマヨネーズの漫才を受けて彼はこう思ったと言う。



〈何かを変えなければならない。いや、そんな生易しいことではない。すべてを捨てて、また新たに作り上げる。そこまでやらなければならないと思ったが、俺には簡単にできることではなかった。新しい漫才のスタイルを作るためには、必ず客前で試さなければならない。スベれない。スベることはすべてを失うこと。どんな人気者がいようと舞台では一番ウケる。これこそ「ハリガネロック」唯一の存在価値だと信じて生きてきた〉



 しかし、そんな思いを抱きつつも、迷走のまっただ中にいる彼らはどんどんうまく行かなくなっていく。ついには、ハリガネロックが絶対的な自信をもっていた「客票」でのコンテスト(08年の「MBS新世代漫才アワード」)にすら敗れてしまう。そして彼は重大な決断をくだす。自分たちがこれからも漫才師として生きていくためには、大上の個性を爆発させなければならない。もしもそれができなければ解散するしかないという決断だ。



〈ネタを作り続け、単独ライブにこだわり、ボケとツッコミも変更。「ハリガネロック」で起こるすべてのことを俺主導で行ってきたが、結果が出せなくなりアイデンティティも失った。俺が本物の漫才師として生きていくためには、それが間違いだったと認めて、俺自身で全否定するしかない。だから極端で身勝手かもしれないが、俺にやれることはもうこれしか残されていないと思った。それは「動かない」ということ。「何もやらない」ということ。そして、相方からの呼びかけをひたすら待ち続ける。動きを止めた俺を見て「ハリガネロック」再興へと動き出す相方を待つ。そこには深い意味がある。相方の自我が目覚めるからだ。俺に言われてネタ作りに参加するのではない。自分からネタ作りの場を作ろうとする。そこに責任感が生まれる。その時、五分と五分の「ハリガネロック」が産声を上げる。自我と自我がぶつかる「ハリガネロック」が誕生するのだ。そう信じて待ち続けると決めた。期間は2013年1月まで。それまでに呼びかけがなければ3月31日、芸歴20年を終えるこの日に解散する。俺は決断した〉



 しかし、それは難しかった。コンビを続けていくなかでユウキロックは大上に緻密な指示を出し、それを忠実に守らせた。そんな日々の積み重ねがいつしか大上から個性や主張を失くさせていってしまったからだ。主義と主義、自我と自我がぶつかり合う漫才をするのは、これまでの2人の関係性からいって難しいものだった。



〈俺は時間を細かく計り、秒単位でボケを詰め込んでいた。流行りものに手を出して簡単な笑いを量産した。ツッコミの台詞。長さ。言い回し。頭を叩く箇所まで相方に指示をした。そのすべての行為が相方の主義を奪い去っていた〉



 ユウキロックの先導がなくなった2人は新ネタをおろすこともほとんどなくなっていく。そして、仕事の関係もあり当初の予定からはズレたものの、大上からの呼びかけがなかったため、13年の「THE MANZAI」で決勝に残ることができなかったらハリガネロックは解散することとなった。ウーマンラッシュアワーが優勝を掴んだこの年、2人は2回戦を突破することもできなかった。そして解散が決まる。



 ただ、ここまで読んでいくと、どうしてもユウキロックのひとりよがりな解散劇のようにも思えてしまう。しかし、そこには彼なりの反省と悔恨もあったようだ。



〈昔から俺は先輩に可愛がってもらえない。簡単に言えば俺は可愛くないのである。多分、人相が一番の理由だと思う。言い方はおかしいが「可愛い後輩」感がない。大阪時代も師匠の方々に可愛がってもらう芸人を見て、そう思っていた。近場の先輩とのお付き合いもそうである。例えば、劇場での昼食。最初は俺が誘われるが、その後は大上が誘われて継続する。俺には「いじられる」要素がないし、可愛げもない。大上には可愛げがある。コンビを結成する前に、俺がいつも大上といたようにみんなもまた大上を求めるのである。

 だから俺はわかっていた。大上にはテレビで売れる要素がある。足を引っ張っているのは俺なのだ。それを隠して俺は偉そうにしていた〉



 人相の問題なのかは分からないが、ここで彼が指摘していることは重要だ。ひな壇芸人全盛のテレビの現場において最も大事なのは「空気を読む」力であり、彼のような職人型の漫才師が求められる場所は実は少ない。



『爆笑オンエアバトル』(NHK)に『M-1グランプリ』(テレビ朝日)と、2000年代前半に一世を風靡した若手お笑い芸人ブームを用意した2つのコンテスト。その両番組内でトップランナーのひとつであったハリガネロックがその後の芸人人生でたどった道は、21世紀の日本のお笑い文化がたどった変化を象徴するものであり、彼らはその変化の坩堝に最もネガティブなかたちで巻き込まれてしまったコンビなのかもしれない。

(新田 樹)


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