ホンダがF1に投入するパワーユニットを開発しているのは、栃木県さくら市にあるHRD Sakuraだ。HRDはHonda R&Dの略。R&DはResearch & Developmentのことで、研究開発を意味する。Sakura(さくら)は、四輪モータースポーツの技術開発を行う研究所の位置づけで、その中核を占めるのがF1用パワーユニットの設計・開発・組み立てだ。
HRD Sakuraで開発し、組み立てたパワーユニットはイギリス・ミルトンキーンズ(シルバーストン・サーキットに近い)にあるHRD MKに送られる。HRD MKはレース現場でのオペレーションを行う拠点で、Sakuraから運びこまれたパワーユニットの管理や整備を行う。ホンダは以前から複数チームへの供給に向けた準備をしており、施設は拡張済みだ。
栃木県さくら市のHRD Sakura。ザウバーに供給するパワーユニットもここで開発する
■2チームへの供給で開発効率が高まるはず
複数チームに供給するメリットは、開発のスピードアップだ。ホンダのパワーユニットを搭載する車両が2台から4台になれば、単純に、収集できるデータ量は2倍になる。
グランプリの週末では2台を同時にコースに送り込むことができるが、テストでは各チーム1 台しか走れない決まりになっている。マクラーレンとしかパートナーシップを組んでいない場合、虎の子の1台にトラブルが発生すると、もうお手上げだ。そんなとき、ザウバーがいればテストメニューをカバーすることが可能。2チームにメニューを振り分けることで、開発の効率が高まる。
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新たにホンダとパートナーを組むザウバーの本拠地は、スイス北部のヒンヴィルにある。最寄りの空の玄関はチューリッヒだ。スイスに本拠を置くF1チームはザウバーだけで、創設者であるペーター・ザウバーの地元である。ザウバーはすでに一線を退いており、モニシャ・カルテンボーンが12年からチーム代表を務めている。F1で初めてにして唯一の女性チーム代表だ。
レース用の車体を自ら設計するコンストラクターとしてのザウバーの飛躍は、メルセデス・ベンツと提携したことに始まる。88年、ザウバー・メルセデスとして現在のWEC(世界耐久選手権)の前身であるスポーツカー世界選手権(SWC)に参戦すると、89年にはル・マン24時間に優勝。シリーズも制覇した。
メルセデスがF1参戦に目を向けると、ザウバーも歩調を合わせ、93年にF1に初参戦。ヒンヴィルのファクトリーはこのとき建てたものだ。96年、メルセデスがマクラーレンに鞍替えすると、ザウバーはフォードのエンジンを載せることでF1に残った。フォードとの付き合いは1年で終わり、97年からは(型落ちではあったが性能も信頼性も十分に高い)フェラーリのエンジンを手に入れ、マレーシアの国営石油企業であるペトロナスのバッジを付けて戦った。
そのペトロナスのエンジンを面倒見るエンジニアとして、ホンダの第2期参戦時代(83年〜92年)の一時期プロジェクトリーダーを務めた後藤治氏がチームに加入している(05年に離脱)。05年、BMWがザウバーを買収し、06年から09年まではBMWザウバーとして活動した。このとき、BMWはヒンヴィルのファクトリーに多額の投資をして設備の近代化と拡張を図った。60%スケールの風洞施設は現在でも一級品だ。
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2012年のザウバー時代、小林可夢偉は日本GPで3位表彰台に上った
09年限りでBMWが手を引くと、創設者のザウバーがチームを買い戻し、10年からはプライベートチームとして再スタートを切った。このとき加入したのが、トヨタのF1撤退によってシートを失った小林可夢偉選手である。可夢偉選手は12年第15戦日本GPで自身初の3位表彰台を獲得したが、これが、ザウバーにとって最後の表彰台である。
近年のザウバーはマクラーレンに負けず劣らず低調で、14年シーズンはノーポイント。16年は9位に1回入って2ポイントを獲得したにとどまり、コンストラクターズランキングは最下位だった。ホンダとのパワーユニット獲得が転機になるだろうか。
明るい材料は、16年末にテクニカルディレクターとしてヨルグ・ザンダーが加入したことだ。ザンダーはF1参戦準備期間中のトヨタや第3期F1参戦時代(00年〜08年)のホンダに在籍した経歴を持ち、日本の企業や日本人エンジニアとの付き合い方を心得ている。ザウバーとホンダの融合はスムーズに進み、早くから効果を挙げると期待したい。