フィリップ・ガレルは“小さな世界”に囚われた作家ではないーー『救いの接吻』日本初公開に寄せて

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2019年05月07日 13:31  リアルサウンド

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 スピルバーグかP・T・アンダーソンか、ホン・サンスもいればジェームズ・グレイも捨て難い――と、昨年末、ベストテンの季節を前にもやもやと悩んでいたのが嘘のようにいざとなったらあっけなく、迷いなくフィリップ・ガレル『つかのまの愛人』を1位に選んでいた。するりと胸に入り込み、気づいてみるとすごく好きというこの感じ、重々しい巨匠なんかに決しておさまろうとしないガレルの映画ならではの磁力ともいえるだろう。


参考:アニエス・ヴァルダ追悼 貴女と我等の合言葉ーーさようなら、そして今日は


 ヌーヴェルヴァーグの後に来た映画作家たち――ユスターシュ、ドワイヨン、ピアラ等と共に70年代にかけ頭角を現して極私性が光る世界を差し出してきたガレルの核心には、68年パリ、政治と革命の季節とその挫折、宿命のヒロイン、ニコとの破滅的な愛と別れ、ドラッグとロックンロール、アートと暮らしの葛藤といった、飽くことなく繰り返される主題が備わっている。それはやはり“祭りの後”の70年代、日活ロマンポルノで描かれた四畳半的青春のじくじくとした痛みや虚ろとも通じるようでいっそう親密に胸に迫る。が、見逃せないのはガレルがその後の歳月に耐えしぶとく作り続けてきたことだ。そうやって鍛えられた”私映画”には、やわな感傷と一線を画す思想と思考、感情と情動の鋼の強さが軽やかに獲得されてきた。変わらぬひとつの主題を全うしてきたようなガレルの映画は実際、逞しく進化を呑み込み、さらなる変化を遂げつつあるらしい。


 『ジェラシー』『パリ、恋人たちの影』『つかのまの愛人』という直近の3部作が差し出す新たな世界の広がりを目にすれば、『救いの接吻』『ギターはもう聞こえない』と30年前の快作を今、改めて見直すスリルもうれしくかみしめずにはいられない。


 まずは3部作に見た新しいガレルの世界の芽のことから始めてみよう。


 父モーリス・ガレルの若き日の恋を素材にした『ジェラシー』は、絶望的な負のスパイラルめいた展開を持ちながら、ふっと涙ぐましく秋の初めの風を感知するような後味を残す。父、母、愛人をめぐる葛藤を自身も“ジェラシー”の輪に身を置きつつみつめていた子供ガレル(劇中では女の子に設定されている。ちなみにこの子役オルガ・ミシュタンの起用はドワイヨン監督作『アナタの子供』での好演に負っているようだ)の中で、反芻され咀嚼され痛みを超えて昇華された記憶。時という距離を介したそれが、懐かしさや慈しみの心を伴って涼やかな映画の肌触りを招き寄せていく。


 続く『パリ、恋人たちの影』はまたしてもだめだめ男の話ともいえるけれど、そこに奇妙な軽やかさが加わっているのが印象的だ。達観というのか、人を見る目にやさしい距離があって、大人になれない面々を描く自分が大人になってしまったか――というような諦念、寂しさにも似たものが感知される。前作で自らの子供時代を投影していたあの女の子の眼差しにあったもの、つまりは対照への距離の感覚、それがシンプルな語り口の奥行となって光る。


 前作の父に対しここでは亡き母に想を得たというガレルは自身の私小説的世界を踏襲しつつも、息子ルイ・ガレルによる語りを挿入してトリュフォーごしに19世紀の古典的小説の話術に目配せしてみせたりもする。一人称の映画と一線を画す意志をさらりと垣間見せる。ピアラとのコンビで知られるアルレット・ラングマン、現在の妻カロリーヌ・ドゥリュアスという前作以来のふたりの女性に加えて脚本に大御所ジャン=クロード・カリエールを迎えているのもどこか寓話的でさえあるような物語をかっちりと語ることへの傾きを示すようで見逃せない。カリエールという一筋縄ではいかない他者の目を獲得し、いっそうの距離をもって私的素材に向かったガレルがブラックで、何食わぬ顔の、ちくちくと皮肉な“コメディ”の方へと踏み出したかにみえるのも面白い。


 もっとも撮影監督レナート・ベルタ共々最新作『つかのまの愛人』へと引き継がれる脚本チームを得たことでいっそう注目したいのは、フェミニズムとみまがうくらいに女たちが主体的に存在し始めていることで、そこにこそガレルの映画のスリリングな広がりを見て取ることができそうだ。


 もちろん、ガレルの映画のヒロインたちはいつだってれぞれに忘れ難く存在していたけれど、いってしまえば彼女等はガレル(の分身たち)の愛/憎の眼差しの中に在って、だからみつめる人のみつめ方に縛られた存在でもあった。これに対して『パリ、恋人たちの影』では一見、自己犠牲の尽くす妻とみえるひとりも、その未来像ともいえそうな夫の嘘を黙認しつつ統御する老妻にしても、女という生き物のしたたかな大きさ、怖さをじわりと開示してみせる。そうしてさらに最新作『つかのまの愛人』では愛娘エステル演じるヒロインと、同年代の父の愛人とがいつしか共犯、共闘関係を結び、映画そのものさえもまた彼女たちのものとしてしまうのだ。私小説的映画という意味では主人公とみなされるはずの父(ガレルの分身的存在)が殆んどかすんで、彼女たちの眼差しの中で動くような逆転が生じている。


 『つかのまの愛人』の娘と父の愛人の主体的な共闘関係を目の当たりにした後で、ほぼ30年前の『ギターはもう聞こえない』にある妻と愛人の対峙の場を見ると、(なんとまぬけな言い方だが)やはり感慨深いものがある。『救いの接吻』革命の時代、闘士(ヒーロー)をめざし社会を変えようとしたと振返る愛人は、その時代がもうここにはないことを噛みしめつつ、愛する男と共に闘い夢を見た同志としての自負と優越感とを目の前の男の妻にやわらかに投げつける。両手を広げていれば名声も夢も理想もその手の中に飛び込んでくる、そう信じ得た時代、でもしっかりと抱きとめていないと夢も理想も生活に、現実に奪いとられてしまう――と苦い台詞を少し前に置いてガレルはもう闘士ではいられない自身と愛人の今を哀しく、酷く、だからやさしく噛みしめている。そうしつつ生活の重さを体現するような妻、その凡庸さの愛おしさに諦めにも似た称賛の眼差しを注いでいく。そんな場面の女ふたりはあくまでガレルの眼差しを、記憶を映す存在として忘れ難く輝いている。そこに『つかのまの愛人』の女ふたりの在り方との優劣をつけるつもりは毛頭ないが、みごとに“私”の世界を完結させていたガレルの映画が時を経て辿りついた最新作の場所、その隔たりをあっけらかんと踏破している様にはやはり胸打たれずにいられない。


 そうしてみると宿命のヒロイン、ニコの死に接し、その直後に彼女に捧げて撮られた極私的ラブストーリ―として公開当時はそのことにばかり気を取られ見落としていた『ギターはもう聞こえない』の、いくつもの滋味が浮上してくる。例えば友人となごむ主人公(ガレルの分身)が男と海(ラ・メール)か、男とお袋(ラ・メール)かとダジャレをいいあう何気ない始まりが「お袋みたいなことをいう」と妻に捨て台詞をぶつけ扉が閉ざされる終幕部分と鮮やかに韻を踏むように対置されていること。無論、それはユスターシュ『ママと娼婦』を想起させもするだろう。が、もっと大事なこととして気づくのは、映画がニコ以上に母/妻ブリジット・シィというガレルのもうひとりのヒロインに、生活の醜さを美しく盲信しているひとりの重みに、圧倒的に見惚れていることだ。


 前年に撮られた“家族映画”『救いの接吻』でまさに映画と暮らしの狭間に置かれた夫婦をガレルと共にものしたシィ、実の息子ルイと父モーリス共々、役と現実の二重性をも生きる、その意味では実存的な問いに満ちた映画をまんまと愚直な生の重みで支配してみせるこの女優、妻、母、女の興味深さはどうだろう! 母という、実の所はガレルの映画の肝心要ともいえそうなテーマ共々、再評価してみたい知性をひけらかさない知的女優だ。彼女と同じ顔した息子や娘がガレルの映画に主演する時、影のようにシィの存在も揺らめき立つ。ガレル映画を支える亡霊はニコだけではないのだと思い知る。


 何はともあれ私映画、家族映画、小さな世界に囚われているかに見えたガレルの映画の大きさを、新旧作合わせて吟味したいと思う。(川口敦子)


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