【ネタバレあり】『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』がヒーロー映画最先端となった理由

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2019年07月06日 10:01  リアルサウンド

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『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

 マーベル・スタジオ制作の『スパイダーマン』シリーズ第2弾にして、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)映画における、“フェーズ3”と名付けられた、3段階目のシリーズ最終作に位置付けられた、本作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』。


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 この作品が他のMCU映画と異なるのは、ヒーロー集結作品『アベンジャーズ』の最終作『アベンジャーズ/エンドゲーム』の次に公開された作品だということだ。この映画は、いままでのマーベル・スタジオ映画の顔であった、ロバート・ダウニー・Jr.やクリス・エヴァンスらが演じた第1世代のヒーローがシリーズから引退し、シリーズ全体のクライマックスとして最大のスペクタクルが展開しながら、同時に現代の正義のかたちを問う、シリアスなテーマを描き出すという内容であった。


 そのような巨大な作品の後を受けた本作に、同じようなテンションを求めていた観客は少なかったのではないだろうか。巨大な嵐が過ぎ去って、いったん落ち着いて楽しめる、ほどほどの作品になっているのが、おそらく『スパイダーマン』の第2作なのではないかと……。だが、その予想は裏切られる。本作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』は、シリーズ前作『エンドゲーム』を踏まえた上で、さらに先のテーマに厳しく取り組んだ意欲作だったのだ。ここでは、そんな本作がヒーロー映画最先端の位置を占めた理由を解説していきたい。


 “落ち着いて楽しめるほどほどの作品”……本作は、たしかに前述したような雰囲気でスタートする。ヒーローたちの奮闘のおかげで、宇宙はスーパー・ヴィラン“サノス”がもたらした最悪の惨禍を乗り越え、地球の人々も活力を取り戻していた。スパイダーマンことピーター・パーカー(トム・ホランド)も、地元クイーンズの高校に戻り、親友や仲間たち、そしてピーターが密かに想いを寄せる、個性的なセンスの同級生“MJ”(ゼンデイヤ)らとともにヨーロッパへの研修旅行へと出発する。サノスとの凄絶な戦いを経験したピーターは、肩の荷を下ろして旅行を楽しもうと、アベンジャーズを支えるニック・フューリーからの再三の連絡を“スルー”し続けていた。


 ヨーロッパの有名観光地を訪れていく学生たち。そこではMJの関心をめぐる駆け引きや、ピーターの親友ネッドの恋など、これぞ学生たちの旅行というような浮ついた、しかし楽しい気分が続いていき、それらが一種の定型的な青春映画の文脈で描かれていく。


 だがその裏で、ピーターはヒーローとして忙しく駆け回っていた。旅行先にまでニック・フューリーが追いかけてきており、ピーターは引率の教師や同級生たちの目を盗んでは、他の宇宙からやってきたという“ミステリオ”(ジェイク・ギレンホール)とともに、新たな敵と戦わされていたのだ。これら一連の描写は、『スパイダーマン』シリーズとしての前作である『スパイダーマン:ホームカミング』(2017年)同様に、コメディ要素が含まれつつ描かれていく。


 正体がバレないように敵と戦うというのは、いちいち面倒くさい段取りが必要で、観客を飽きさせてしまう要素になり得る。だがここでは、様々なシチュエーションを用意することで、それ自体を娯楽化しているのだ。


 ここで、ちょっと変わった例を出したい。かつて、日本映画の知性派・増村保造監督は、日本の時代劇TVシリーズ『遠山の金さん』に苦言を呈したことがある。『遠山の金さん』といえば、罪人を裁く江戸町奉行である遠山金四郎が、遊び人“金さん”として、密かに江戸の町に繰り出して捜査をするという物語だ。これもある意味で“ヒーロー作品”の一種である。


 このTVシリーズの一部について、劇中で金さんが町に出るまでに苦労する流れが省略されてしまう場合が多いことを、作品の味を活かしきっていないと増村監督は指摘した。いかに奉行所の見張りを突破して遊び人になるのかという描写は、たしかに面倒くさい。しかし、それが面倒くさいからこそ、その部分は面白くなり得る可能性があるというのである。


 MCUの『スパイダーマン』シリーズで、前作から引き続き監督を担当しているジョン・ワッツは、そのあたりをしっかりと踏襲して、そこで起こる面倒なあれこれをコメディとしても、ドラマを転がす要素としても活かすことに成功している。


 また、様々な人種や文化が背景にあるクラスメートの面々や、今回ヒロインの位置付けとなるMJが、クラスの誰にでも人気があるタイプではなく、辛辣で率直なものいいをする“ダーク”な面を持っているところなど、より現代的で多様性が描かれた作品にもなっているのが特徴だ。


 とはいえ、ここまで述べたことは前作において、すでにある程度行われていた部分でもある。本作では、前作で確立された娯楽表現をベースに、さらなる新しいテーマを登場させる。


 前作で描かれてきたように、両親を亡くし、メイおばさん(マリサ・トメイ)と暮らしているピーターは、アイアンマンことトニー・スタークを慕い、開発者としてもヒーローとしても憧れていた。そんなスタークの代わりのような存在になることを周囲は望んでいたが、自分はその器ではないということをピーター自身は分かっていた。


 そして今回新たに立ちふさがる敵は、ピーターには足りない部分、経験や知恵、狡猾さを持った大人の男だ。ピーターは敵の張り巡らした、あの手この手の策略に対応できず、どうあがいても先手を取られてしまうのだ。この敵を乗り越えることのできないピーターが、トニー・スタークに追いつくことなど夢のまた夢であろう。


 ピーターの戦い方は正々堂々、正面から敵と対峙し、その場で技を繰り出すことがせいぜいなのに対し、敵は数重にも張り巡らせた罠を用意し、頭脳的にピーターを陥れようとする。さらに、虚偽の情報を撒き散らして人間をコントロールするという、ユニークな技術を持っている。「人は信じたいものを信じる」とうそぶくように、大勢の世論を味方につけようともするのである。


 ここにきて、本作が扱おうとしているのが、現在のアメリカにおいて最も注目されているトピックのひとつである「フェイクニュース」についての問題だと思い当たる。


 先日、ワシントン・ポスト紙が、ドナルド・トランプ大統領の就任以来、同紙のファクトチェックによって、彼が嘘の発言をした回数が1万回を超えたことを発表した。驚くべき話だが、トランプは逆にこのような批判的な報道全般を「フェイク」と呼び、トランプ支持者のなかにも“偏向報道”によって大統領が貶められていると信じる人々がいる。つまり、互いが互いに嘘を言っていると主張し合っているのだ。アメリカの市民は、その渦中にあって、一人ひとりどう判断するのかを求められている。


 『アベンジャーズ』最終2作で描かれたのは、堂々と正義を名乗る悪が、まずアベンジャーズら正義のヒーローたちを、圧倒的な力によって屈服させ、失墜させていく姿だった。このような構図は、多くの人々が、何が正義なのかを見失いつつある現代社会を象徴しているように見えた。だが、そのように正義を騙る者の欺瞞を暴くことによって、“本当の正義は確かに存在する”という希望を観客に与えてもいるのだ。


 本作はその先にある、より具体的な問題に踏み込んでいる。つまり、サノスよりもより狡猾に、悪の側が意図的に虚偽の情報をばらまき、人々の“信じたい”欲望を刺激することで、大勢の人々を自分の嘘に引き込もうするというやり口である。そうなると世の中では、真の正義が悪と呼ばれ、悪が正義と呼ばれることになってしまう。


 では、そんな“正義が”転倒していく恐怖社会のなかで、正義はどう戦ってゆけばよいのだろうか。本作は、『ファー・フロム・ホーム(家から遠く離れて)』の名のとおり、単純な正義と悪の戦いから、ヒーローたちがあまりにも遠く離れてしまったことを意味しているようにも思える。


 フェーズ3から、新たなフェーズへ。その転換点となった本作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』は、ヒーローにとってより困難な戦いの時代が幕を開けたことを予言しているように思える。その意味で本作は、真にわれわれを遠く離れた次の世界へと運ぶ作品となったのだ。(小野寺系)


このニュースに関するつぶやき

  • フェーズ3の完結に相応しい作品でしたね。
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