ギリギリのところで生きる、向井理と田中麗奈 舞台『美しく青く』が描く人々の営み

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2019年07月21日 11:01  リアルサウンド

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向井理『美しく青く』より

 誰もがみな、ギリギリのところで踏みとどまって生きているーー。Bunkamura シアターコクーンにて、舞台『美しく青く』を観てまず思ったことである。劇団「THE SHAMPOO HAT」の赤堀雅秋が作・演出を務め、向井理を主演に迎えた本作は、ある特殊な環境下に置かれた市井の人々に視点をさだめ、それぞれの心に巣食う「何か」を見つめた作品だ。


【写真】公演の模様


 人々が暮らすのは、波の音とセミの声が穏やかに響く町。だがこの町は、かつて大きな災害に見舞われているようだ。そして8年の時を経た現在、また大きな問題が生じている。凶暴化した野生の猿が、人々の生活を脅かしているのだ。そこで青木保(向井)ら町の男たちは、自警団を結成し、猿との攻防を日々繰り返している。


 主演の向井が演じるのは、自警団のリーダー的存在。自分たちの生活を守るため、ときに多少過激な言動をも放つが男だが、活動の後には夜な夜な仲間たちと打ち上げをし、現在の生活に甘んじているようにも見える。おさな顔と、つねにそこに浮かぶ微笑が印象的な向井の表層的な魅力は今作でも活きており、目の前にある現実を、どこかはぐらかしているような印象をも与える。そして、彼が誰かと交わす言葉にはさまざまな色があるが、それは、今のこの日常を変えたいという切実な叫びでありながら、問題の核心からは目をそらし、ただ日々を漂っていようという態度の表れでもあるように思う。自身の中に抱えるある秘密、日常への対峙と逃避を、向井は静かに示し、キャラクターに奥深さを生み出している。


 本作のヒロインを演じているのは田中麗奈だ。彼女が扮する保の妻・直子もまた、いくつもの不満を抱えながら日々を過ごしている。彼女から見れば夫たちの自警団はまるでサークル活動のようだし、重度の認知症を患う母(銀粉蝶)の面倒をみるのも限界だ。本作は演出上、たびたび演者が客席を歩いて回る。この演出の一番の狙いは、舞台上の大きなセットをガラリと転換させている間、観客の視線をその舞台から外させることにあるはずだ。そんな要請の中で“観客の日常”に近づくのは、彼ら“登場人物たちの日常”の現実感を損なう恐れもあるだろう。だが、客席をふらつく田中の表情に湛えられた焦燥感には、筆舌に尽くしがたいものがあった。


 この物語は、一人の若者(森優作)が一丁の銃を抱え、不安げに林の中をさまようところからはじまった。怯える彼が宙空を泳がせる銃口は、ときおり私たち観客の方へとも向けられるが、どうやらオモチャらしい。あまりに心許ない銃声には、思わず肩透かしを食らってしまうほどだ。森が演じるのは自警団でも一番の若者であり、いつだってこの町からの脱出を図ることができる存在だが、彼は町の同調圧力に半笑いのまま屈している。森は、不安な“登場人物たちの日常”へと観客を誘う役どころを、単身担っているのだ。そんな彼の同級生役を演じているのが横山由依。彼女が現役アイドルであることは多くの方が知っているはずだが、このところは役者業へも意欲的な姿勢を見せている。普段の彼女自身の笑顔は控えめに、この終わりなき日常に対する自らの態度と選択を、横山はその佇まいで示した。これが女優としての大きな自信にも繋がるはずである。


 個性派俳優という枠組みで語られがちな大倉孝二が演じるのは役場の人間であり、“日常を変えようとする者”、“変えまいとする者”、“流れに身を任せようとする者”といった人々のあいだで翻弄されるポジションだ。特異なその個性は本作でも際立っているが、場の空気をコントロールする才能は、性格俳優と呼ぶ方が相応しい。そして、彼が空気を「静」に変える存在であるならば、これを「動」に変えてしまうのが大東駿介だ。彼もまた大倉と同じく、“押しと引き”の器用な芝居で、ときに周囲の者を立てながら、ここぞというときはシーンの主役に躍り出る。しかしそれは単なる一方的な感情の爆発などではなく、あくまで周囲の状況・環境に対するリアクションの結果だ。大東の独擅場となることはなく、「町」に根ざす者たちの関係性を維持したまま新展開を生む、そんな彼の技量を強く感じられる。


 銀粉蝶、平田満、秋山菜津子らベテラン陣の芝居は、この物語を引き締め、より強度の高いものにしている印象だ。彼らが演じるキャラクターは、先に述べた“日常を変えようとする者”、“変えまいとする者”、“流れに身を任せようとする者”に、そのまま当てはまるように思えた。舞台上で同時多発的に展開される人々の会話は、数多ある考え方、物事の捉え方を、同等に並べる行為のようにも考えられる。物語的にも演劇的にも、それぞれの存在が互いに影響し合うことで生まれる有機的なものは、それが喜劇であれ悲劇であれ、人間の営みであることに変わりはない。


 本作で最も印象深いのは、田中が演じる直子が自宅にて掃除機をかけている途中、ふとキッチンの包丁を手にして母の部屋に向かい、扉の前で立ち止まる場面だ。そしてその場にくずおれ、堰を切ったように泣き出し、ふと立ち上がり、また掃除機をかけはじめる。誰もがみな、ギリギリのところで踏みとどまって生きている。劇中に見られる「日常」の綻びは、劇場という「非日常空間」から飛び出して、観客が各々の本当の日常に戻ってこそ、ひしひしと感じられるものがある。舞台上に息づくかれらの日常と私たちの日常は、まぎれもなく地続きなものだと、この肌は覚えているのだ。


(折田侑駿)


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