菊地成孔の『アベンジャーズ/エンドゲーム』『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』評: <第二経済>としての<キャラクターの交換>を前に我々ができることは、<損得>だけである

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2019年07月27日 12:01  リアルサウンド

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『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

■<第二経済>は


 正規の経済用語であるわけがない。勿論、仮想通貨の話でもない。今や市場経済ー生活経済ー第一経済ー現実経済に並行している経済活動、キャラクターのトレーディングの事だ。


 並行関係であるが故に、二者には必然的にシンクロが起こる。ウォルト・ディズニー・カンパニーは近い将来、ヒンドゥー教自体をも買収するだろう。キャラクターの宝庫だからである。それからイスラム教を買収し、最終的にはキリスト教、ユダヤ教を買収するであろう。その際に必要であらば、28世紀フォックスさえ設立するであろう。


 地球上のすべてのキャラクターが一つの会社に買われ、一つのコンテンツ内に帰属する、等という、大英帝国やアレキサンダー王のような事は、第一にはあるわけがないし、第二にはあってはならない、そして第三には、だからこそ夢想してしまう。というのが、スピルバーグの『レディ・プレイヤー・ワン』の裏テーマであろう(表テーマは「友情に端を発する、全てのバディ関係の素晴らしさと恐ろしさ」)。


■この、第二経済の起源がいつからなのか


 経済学も社会学も学んだことがない筆者には想像もつかない。市場経済こそ、相当むかしからあるだろうな、と想像する程度で、資本主義がその名を持つようになったのは19世紀半ば、ウォルト・ディズニー・カンパニーの設立はたかだか20世紀の初頭である。高校生も自宅で株をやる、という資本主義による自殺行為が始まったのは、ついこの間ではないだろうか。


 しかし、ジャパンクール音痴を持って自他共に認める身でありながら、ポケモンは流石にヤバいと思う。最初からトレーディングカードが中枢にあるからである。勿論その始祖には伝説のカルビー食品の仮面ライダーカードがあり、現在の第二経済の直接的起源と言うことも容易い。子供達は競ってカードを「交換」し、その根拠ははっきりと「株価」だった。だが、始祖は始祖というぐらいに、鳥と同じく空を駆ける自由な生き物である。戦前から玩具は交換を子供達に経験させる側面を持っていたとも言えるし、有名なヤップ島の巨大石貨、文化人類学の交差イトコ婚、経済学、文化人類学、考現学、そんなものを持ち出してMCU作品の批評をしたところで、誰が喜ぶだろうか? ここはネットだ。


■しかし、今や我々が


 経済のセカンドラインをはっきりと持っていないと生きられない(自分も、社会も、第一経済も全て)所にまで来ていることは間違いない。そしてそれは、「キャラクターの交換」なのである。我々はキャラクターを交換し続けるという経済行為の為に生きており、よくある話だが、最初は自ら望んでいると思っているが、誰かにやらされている。


 その証拠に、我々はこの行為を、ある時、自分から気ままに止めることができない。要するに構造である。アニメファンや地下アイドルの追っかけに生理的な嫌悪感を持てるだけの、経済的、宗教的基盤を失った我々は、人類としてはっきりと進化したのである。そしてこの行為は、経済のセカンドラインのみならない、もうお気付きの通り、宗教のセカンドラインでもあるし、政治のセカンドラインにも、猛スピードで距離を詰めている。


 何でもかんでも「令和だから」というのも野暮な話であるが、ジャニーズ事務所と吉本興業という、オーヴァーグラウンド・エンターテインメントの2大帝国が激震というに相応しい揺れかたをしている。この事も、時代への炭鉱カナリアの、喉から血が出るほどの絶叫である。我が国独自のキャラクター論(ちびまる子ちゃんは循環時間を生きているとか。戦闘美少女がどうしたこうしたとか)を、神道や仏教からの暗喩で語っても、もはや意味はない。筆者が言う「我々」は、勿論、日本人のことではない。地球人のことだ。


 今更批評として指摘するのも馬鹿馬鹿しいレベルの話ではあるが、MCU(マーベル・シネマティック・ユニヴァース)が、スターウォーズ・シリーズを王の玉座から引き摺り下ろした実力の源は、スターウォーズ・シリーズが直線的な歴史をシャッフルして繋いでゆくサーガ形式であり、キャラクターの交換行為という意味では、MCUのディシプリンである「ユニヴァース」形式よりも古く、特に株価の設定がカスタマーに完全譲渡されず、制作側の操作が介入している事が払拭し切れていないという点で、旧世代文化としてクラッチされているからである。


 手塚治虫記念館に行くと、発表当時はユニヴァース形式ではなかったキャラクター群が壁画のように一堂に会している。おそらく、藤子不二雄記念館も、赤塚不二夫記念館も同じであろう。筆者は、火の鳥からブラックジャック、リボンの騎士から鉄腕アトムからジャングル大帝までが、遠近法に沿って「その場に一堂に会している」事を画角の中で明言した、手塚治虫死後の、関係者の心の中にあったものが、近代ユニヴァース物の原点だと暫定する。最初の「アヴェンジャーズ」は、兵庫県宝塚市に現れた。しかし、大変残念な事には、この、世界で最初にしておそらく最強のアヴェンジャーズは、集合しただけで一切の活動を行なっていない。


■さて、いきなりだが、サノスによって


 そんな地球人は、半分にされた。経済も宗教も政治さえもキャラクターの交換行為に支えられているようなダメな生物は、まず半分にすべきだ。サノスが正しい。いや、正しくない。どっちだろうか? 消されたヒーローたちは、次作で戻ってくると考えた人、戻るにしても、様々な複雑なドラマがあると考えた人、誰が正しかったのだろうか? 否、それ以前に、「予想が当たる」事の意義は、ユニヴァースの中ではどれほどの意味があるのだろうか?


 『エンドゲーム』以前から、アヴェンジャーズは総力戦であることが強調されすぎ、スペクタキュラーの表現が、画面を関ヶ原化(もしくは100人サッカー化。あるいは最も詰まらない呼称として「戦場化」でも良い)される方向に発達、定着してしまった。筆者が身震いして興奮したのは最初のアヴェンジャーズだけである。


 あの作品は「ニューヨーク市街が瓦礫の山と化す」という、9/11PTSDを、アメリカン・タフガイ型のコミカル&シリアスのトーンで祓い清めた大傑作である。アメリカ人が合戦を描くと、南北戦争からの内なる鬱性が噴出し、アヴェンジャーズの最大の魅力だった、アメリカン・タフガイ型のユーモアが、商品価値として他のコミカル系作品に計画的に再配置され、アヴェンジャーズの総力戦=合戦の魅力が、アメリカが経験したあらゆる戦争PTSDの総合体である「悲壮感」と交換されてしまった。勿論、アメリカ人が「戦争」を悲壮に描くことが大好物なのは言うまでもない。


 とこれは、あくまで筆者の個人の好みである。


 個人の好みならいくらでもある。あのキャラクターにもっと出て欲しかった、ああして欲しかった、こうして欲しかった、あのキャクターは要らない。この設定は納得しかねる。スカヨハの登場シーンが少ないのは、減量に失敗したからかも。ダウニーJr.がもう辞めたいと言い張るのと、それを準備してやる事のせめぎ合いはどうなのだろうか? いやそんなことはどうでも良い。ここの設定はすごい。このVFXのセンスはヤバかった。個人の好みはシンプルで早く、そして強い。


 しかし、我々が行なっているのは、映画の鑑賞の形をとった、キャラクターの交換、つまり経済行為なのである。個人の経済行為が批評という立場に立てるだろうか? 筆者の考えでは立てない。


 MCU作品のカスタマー評価を見ると、必ず、綺麗に賛否が分かれている。日頃、熱烈なカスタマーであろうと、気に食わなかったら「自分は気に食わないが、作品としては良いだろう」といった忖度は、行われないようでもある。


■シンプルな話、これはどうしてだろうか?


 批評家にも一般ユーザーにも評価基準がない前衛的な作品であるならば賛否両論はわからないでもない。しかし、こんなに明確な、世界で一番金が動いているトップの娯楽が、必ず激しい賛否両論に晒されるのは何故だろうか?


 それは、冒頭にある通り、これが個人的な経済活動であるからである。我々は、個人的な経済活動の範疇では、損得しか選択肢がない。利益が出た人間は、作品が気に入った人間で、損失が出た人間は、作品が気に入らなかった人間だ。経済学的に言って、両者に上下関係はない。ただ、その時その時、損得が生じるだけである。我々は次に出る目を直感で捉え、運の流れを水平的に感じてゆく博徒ではなく、予想をし、掛け金を払い、儲けが出ようと出まいとその事を評価に回し、分析結果をまとめなければ事が終わらないトレーダーである。


 この一連のトレーディング行為の中で、批評という側面は去勢されている。というか、経済活動、その結果を批評しようとする人間の愚かさと徒労感は、どなたでもご存知のはずだ。恐慌も、その鏡面であるバブル的な好景気も、批評しようとする事自体が、言ってみればダサい。それは天候を批評しようとすることと似ている。ましてや、キャラクターの交換(それは、膨大な量の「設定に対する知識」の交換も含んでいる)は、強く共有的に見えて、実のところかなり個人的である。


■さて、いきなりだがスパイダーマンは(*以下100%ネタバレ)


 第一には青春学園モノ、第二にはややコミカル。というジャンル設定が振られている。散文の歴史の中で、小説や詩よりも早く成立した戯曲の段階で、ギリシャ文明が、ドラマトゥルギーを「悲劇」「喜劇」に分離する(音楽の長/短調分離と統合は、遥かに後のオーダーである)という断行すら感じさせる設定のフィクスも、キャラクターのトレーディングに含まれる事は間違いない(『インフィニティ・ウォー』でのスパイダーマンは「スパイダーマンなのに悲壮」という交換によって剰余価値が生じた)。


 とまれ、いかな学園モノのコミカル系とはいえ、人類の半数がいないまま5年が経過し、そこに、消えた人類が、ごと全員一挙に戻ってくる。という、普通に考えても地球の一大事(というか、それを巡ってアヴェンジャーズは命懸けの総力戦を行なったのである。つまり『エンドゲーム』に至る動機そのものである)を、体育館でバスケをやってる最中に、マーチングバンドがいきなり現れて、ボーリングのピンのように倒れまくる。というギャグと、「5年前は鼻血出して泣いてた弟が、今やイケてる兄貴に」という設定と、それを紹介してるのが学園内のユーチューブチャンネルの番組、というオチで終わらせてしまって良いのだろうか?


 人類の半数がミッシングパーソンになって5年が経過したら、政治も経済も大混乱を来すし、増してや彼らがある日、いきなりビヨーンと現れたりしたら、再婚していた人はどうなる? オフィス管理はどうなる? 政財界は、マスメディアは、通信や土木はどうなるのだ。一切描かれない。


 殉死したアイアンマン、トニー・スタークの会社であるスターク・インダストリーズに反分子がいて、トップの死後に決起しても良い、彼らがアヴェンジャーズ全体の殲滅を図ろうと、そんなものは娯楽劇の骨法であろう。


 しかし、彼らの主武器はドローンとホログラムであり、これをミクスチャーする事でスパイダーマンを陥れる。それも宜しい。「VFX凄いけど毎回同じだ」と揶揄する者は愚者である。ゴダールの作品に「毎回同じだ」と言ってどうなる。毎回同じ物が見たい者に、トレーダーとして損益計算上、負けただけだ。今いきなり告白するが、筆者はマーベルのマニアである。あらゆる方法を駆使して、全作品を見ている。その一人として言わせてもらうが、「毎回同じ」であることに気づくのは、いつでも観終わった後である。毎回毎回、手に汗を握って、初めて観る画像であるかの如き興奮を感じている。トレーダーの才能があるのであろう。


 しかし、そんな有能なトレーダーでさえ、「じゃあさ、最初のヴェニスの運河崩壊は、全部ホログラムな訳? 建造物破損はドローンの大群がホログラムに隠れて代行しているとしても、スパイダーマンの動きはリアルなわけでしょ? なんか全然わかんねえわ。そもそもホログラムとVRの差がちゃんとついてないように思えるんだけど、、、、」と思うのである。観終わった直後に。大変な満足感と興奮とともに、設定の曖昧さ、というか、物語の重力を狂わせるほどの御都合主義に苦言を呈するのである。二度言うが、大変な満足感と興奮とともに。


 ヴェニスの破壊はホログラムだが、ロンドン塔は実際に破壊される。ハッピーやMJは鋼鉄製の武具が、鋼鉄製の展示ケースに入れられている部屋に雪隠詰めになる、殺傷性の高い、凶暴なドローンが一機、さる事情によって自動操縦となり、じゃによって彼らは間一髪で射殺を免れ、最終的にはドローンを破壊する。クライマックスのサスペンスである。


 しかし、いかな手動運転に切り替えたとはいえ、ドローンの目的は、機械的な殺戮でしかない。「あのまままっすぐドン突きまで飛ばして、180度回転して、というか、あのまま回転しながら射撃してドン突きまで行けば、簡単に全員を殺すことができたんじゃない? なんで処刑みたいに、一人ずつを、発見確認してから撃たなきゃいけないわけ?」としか思えない。思えないが、なんの不満もない。不満を感じたものは敗者だ、と言うより、損失を出したのである。経済活動で。


 『スパイダーマン ファーフロムホーム』が一番似ているのは『リトル・ロマンス』だろう。これは修学旅行(観光)映画だ。恋と修学旅行。途中に凄まじい吊り橋効果もある恋と観光映画である。MJの可愛さはハンパない。素直な好青年と、屈折してクールな美少女のキス。キスひとつにストーリー全体が持って行かれ、そのことへの不満は、ある者にはあるが、ない者にはない。MJとピーター・パーカーへの株価設定、恋の喜びがストーリーの中でどれぐらい強い効果を上げるかの価格設定。それがあるだけだ。この2人がキスをする。その事にいくら投資するか? それだけである。


 我々はキャラクターの交換という、第二経済活動と、実際に労働して得た可処分所得を第二経済につぎ込んでは、第一経済を動かしている。筆者は、『エンドゲーム』で少々の損失を出し、『ファーフロムホーム』で莫大な利益を上げた。『ファーフロムホーム』は劇場にもう一度観に行くし、スパイダーアイコンのクリアファイルとパーカーも買おうと思っている。明るく楽しい株に投資するのが好きだからであろう。そこに批評をしている時間的、思考的余裕はない。『エンドゲーム』はもう観ないし、グッズもいらない。両作に対する評価はそれ以上でもそれ以下でもない。


 これは諦念ではない。事の全貌を、その莫大な限界性を説明しただけだ。そのうち、あるいはもうすでに、「自分自身」というキャラクターさえも、トレーディングに成功したり失敗したりする事になるだろう。「セルフトレーディング」なんて言葉は、もうありそうだ。


 前衛映画ですら、第二経済には飲み込まれている。ひょっとすると、第一経済への飲み込まれ方よりもドープかもしれない。こうして我々全員が行ない続けている第二経済行為は、あと何百年続くのだろうか? そしてもし、その経済行為に対する批判が理論的に出た場合、それはどんな物になるのだろうか? 第二マルクスとも言えるその存在は、必ず革命を志向し、第二革マルが蜂起するであろう。MCU作品は、没入させ、損得を生じさせ、そして、こうした事を改めて強く考えさせるのである。フェイズ3はこうして終わった(スパイダーマンがフェイズ4の第1作でないことは、そこそこ重要である)。(文=菊地成孔)


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