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美少女・宮沢りえを「大女優」にした男はだれだったのか?

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2019年10月16日 11:30  AERA dot.

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写真バラエティーでも才能を発揮した宮沢りえ (c)朝日新聞社
バラエティーでも才能を発揮した宮沢りえ (c)朝日新聞社
 アニメ映画「ぼくらの7日間戦争」が12月に公開される。1988年に宮沢りえが主演して女優デビューを果たした実写映画「ぼくらの七日間戦争」のその後を描くものだ。31年の歳月を経て、りえも声優として出演。彼女はこの秋、映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」で太宰の妻を演じており、女優業は相変わらず好調のようだ。

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 しかし、デビュー当初は女優として高い評価を得ていたわけではない。87年に、後藤久美子とともに「美少女ブーム」で注目されたものの、まずはCMタレントとしてだった。その後、ドラマに出て、歌手デビューもしたが、初期の「大仕事」はなんといっても、ヌード写真集『Santa Fe』だろう。

 そのニュースが「朝日新聞」「読売新聞」の全面広告というかたちで告知されたのは、91年の10月。18歳の人気アイドルが脱ぐという前代未聞の話に日本中が大騒ぎとなり、1ヵ月後に発売されると155万部という空前絶後の売り上げを記録した。

 そして、この1年後、92年の10月にも彼女は日本中を騒ぎに巻き込む。のちの横綱貴乃花(当時は関脇貴花田)との婚約だ。角界で兄とともに「若貴」ブームを巻き起こしていたヒーローとの恋は、プロ野球・西武の日本一というニュースを押しのけ、スポーツ紙の一面を飾った。

 それからしばらく、この「貴りえ」フィーバーは続き、やはり国民的人気者だった双子姉妹・きんさんぎんさんが「ハダカのおつきあい」と評したのも話題になった。ただ、このおつきあいは3ヶ月後に破局してしまう。両者はそれぞれ、会見を開き、りえは「悲劇のヒロインにはなりたくない」などと語った。

 これについて、メディアはこんな表現をしたものだ。

「代表作がなかったりえにとって、この会見が代表作になるだろう」

 破局に同情しつつも、女優としてさしたる結果を残していないことを皮肉ったわけだが――。では、メディアはいつ彼女を「女優」と認めたのか。あるいは、彼女はどこで、いかにして「女優」になったのか。ということについて、考えてみたいのである。

■「りえママ」との関係

 その転機のひとつは、いうまでもなく、この破局だ。しかし、もうひとつある。3年後の「激やせ」騒動である。これも、最大の注目を浴びたのは10月のことだった。ゴルフイベントに参加して、途中で上着を脱いだりしたところ、半年ほど前から指摘されていた体型の変化が想像以上だったことに、世間は大いに驚かされた。拒食症ではないかとも報じられ、その背景などについてさまざまな推測が行なわれたものだ。

 なかでも盛んに取り沙汰されたのが「りえママ」こと母・光子との関係だ。そのステージママぶりは、娘の売り出しはもとより、破局にも影響したとされる。その濃すぎる関係性による自立への葛藤が激やせをもたらしたのだと、専門家も分析した。ゴルフイベントでのか細くきゃしゃな姿について、ある女性週刊誌は「まるでマリオネット」という見出しをつけたが、そこにはそれまでのりえが「母親のあやつり人形」みたいだったという暗喩も含まれていたのだろう。

 そして、こうした挫折は別の大スターのことも思い出させた。美空ひばりだ。りえが「平成のヴィーナス」になるのと入れ替わるように世を去った「昭和の歌姫」にも有名なステージママがいて、小林旭との破局にも関わったとされる。そんな共通点もあって、挫折はりえに、それまでなかったスターの悲劇的イメージを加えたのである。

 そのかわり、それまでの「元気でセクシーなアイドル」というイメージは脱ぎ捨てられることとなった。じつはこれこそが「女優」であるためには邪魔だったのだ。破局と激やせは彼女のイメージをリセットしたともいえる。

■時代劇に活路を見いだす

 そこに、彼女を「女優」にしたい人々が現われる。それでなくとも、若い女性スターが失恋して激やせすれば、世間は気の毒に感じ、同性は共感したりするものだが、男性のなかには「不幸萌え」をする人がいるのだ。

 貴乃花のあと、中村勘三郎(当時は勘九郎)と不倫を報じられるなど、もともとオジサン系には人気があったが、95年には倉本聰が「北の国から」のゲストヒロインに起用。元セクシー女優の役で、露天風呂にも入ったりした。また、伊集院静は96年に雑誌『Bart』で対談するため、わざわざ渡米。休養とメディア対策を兼ねてロサンゼルスに滞在していたりえを訪ねた。

 こういう状況が何かのヒントになったのか、激やせ状態を脱したりえは、いかにもオジサンうけしそうな時代劇に活路を見いだしていく。日蘭のハーフであることを活かしたドラマ「おいね 父の名はシーボルト」(00年)のあと、藤沢周平の小説を山田洋次が映画化した「たそがれ清兵衛」(02年)では日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞に輝いた。こうした方向性は、サントリー・伊右衛門のCMなどにも受け継がれている。

■「悲劇のヒロイン」と一体化

 こうして見ると、彼女の女優らしさとはまず、ドラマティックで悲劇的な実人生によって生まれたものなのではないか。それこそ「悲劇のヒロイン」的なイメージが先行したなかで、本人がそれに見合った演技力を身につけることにより、イメージと実体が一致し、女優らしい女優になった、そんな気がするのだ。

 その最大の立役者を選ぶなら、マネジメントをしたりえママでも、作品を手がけたり共演したりした男たちの誰かでもないだろう。それはおそらく、貴乃花だ。というのも、破局会見において、その理由を聞かれた彼は、

「愛情がなくなりました」

 という史上まれに見るパワーワードを発した。親同士の問題について勘繰られないよう、自分が悪者になろうとしたという見方も囁かれたものの、とにかくこれが「りえちゃん、かわいそう」という世論を決定づけたのである。

 他の有名な破局と比べても、このスタンスは異色だった。たとえば、近藤真彦と中森明菜のケースでも、小室哲哉と華原朋美のケースでも、男性サイドの事務所が近藤や小室を守ろうとしてさまざまな策を弄しており、普通はそういうものだ。

 しかし、貴乃花はこの発言によって、じつにわかりやすく、りえを「悲劇のヒロイン」にした。本人が「なりたくない」と言っていたそういうものに。おかげで、りえの会見はよりいっそう悲壮にけなげなものとして映り、語られることになる。メディアが「代表作」と評したのも、そこにそれまでなかった女優らしさを感じたからだ。ある意味、ここから「女優・りえ」が始まったともいえる。

 親方として「横綱」を作れなかった貴乃花だが、ひとりの「女優」の誕生には大きく貢献したわけだ。

 もちろん、りえ自身、ただの「悲劇のヒロイン」で終わらないよう、真面目に努力してきた。女優としての研鑽を積むべく、野田秀樹や蜷川幸雄の舞台に出たりしたことは、天海祐希の代役を急遽務めたときなどにも活かされることになる。

 私生活ではその後、実業家とできちゃった婚。離婚してシングルマザーとなったが、森田剛と再婚した。そんな、相変わらずの劇的な展開に加え、激やせ後に起きがちな激太りをすることなく、儚げな容姿を維持していることで、いわゆるメンヘラ傾向の女性たちからの支持も高い。

 そういう意味で、彼女はやはり、時代を象徴する女優だろう。また、そうなった今も、アイドル時代の輝きを記憶し続ける人がいる。このままいけば、吉永小百合のようなポジションに到達するかもしれない有力候補のひとりである。

●宝泉薫(ほうせん・かおる)/1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する。著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など。

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