天皇の“愛人”だった女官たち……知られざる皇室ロマンスと女の牢獄【日本のアウト皇室史】

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2019年11月30日 20:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

堀江宏樹さん(撮影:竹内摩耶)

 
 皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な天皇家のエピソードを教えてもらいます!

天皇による“愛人女性”の青田買い!?

――前回のラストでは、戦前の御所に仕えていた女官たちの“秘密”の私生活に、お話がおよびました。

堀江宏樹(以下、堀江) ただね、上級女官になればなるほど、御所暮らししていたことの記録をほとんど公(おおやけ)にはしていません。しかし、前回も出てきた大正天皇生母の柳原愛子(やなぎわら・なるこ)こと「早蕨典侍(さわらびのすけ)」さんは、姪の柳原白蓮(やなぎわら・びゃくれん)に、いろいろぶっちゃけトークしちゃってるんですね。

――柳原白蓮といえば、NHKの連続テレビ小説『花子とアン』で女優・仲間由紀恵が演じた、主人公の「腹心の友」・蓮子(れんこ)さんのモデルでしたっけ。

堀江 そうそう! 大正天皇の従姉妹にあたる公家華族出身の女性なんですけど、政略結婚させられた夫を捨て、若い恋人と駆け落ちしたりするから、華族から除名されちゃった「不良」です。だからというか、因習には縛られないんですね、白蓮さんは。

 叔母の柳原愛子がこっそり語った御所の内実を、彼女は書き残してくれています(笑)。例えば、美少女として有名だった柳原愛子には10歳を過ぎたころから、御所、つまり明治天皇から「私の女官にならないか?」というお誘いが頻繁に来たそう。これは天皇による“愛人女性”の青田買いみたいなもの。しかし、天皇の本当の目的に気付いた父親が、申し出を拒むのですね。娘にはちゃんと“正式”に結婚させてやりたい、と。すると明治天皇ではなくて、「明治天皇の母君にあたる英照皇太后にお仕えしないか?」と持ちかけられ、断れなかったといいます。

――そんなに熱意を伝えられたら、断れないかも……。そして? 

堀江 毎日のように明治天皇は、英照皇太后のところにご機嫌を伺いにやってきて。結局、それは柳原愛子狙いということが誰の目にも明らかになり、2人は恋仲に……。

 愛子は明治天皇との間に2人の皇子と、1人の皇女を生んだけれど、そのうち2人の皇子は幼くして亡くなってしまいます。すると、御所では「『小倉の局』なる女官の祟りだ」とささやかれたそうです。

――「小倉の局」とはなんでしょうか?

堀江 都市伝説ですね。とある天皇に愛された、小倉家出身の女官というくらいしか、わかりません。彼女は別の女官と同時期に妊娠し、天皇から「一刻でも早く皇子を生んだ方を皇太子にする」と言われていました。しかし、その争いに半日の差で負けてしまい、その後、あれこれあって、「天皇家を七代にわたって呪ってやる〜。世継ぎの皇子一人を残し、あとの子の生命は全部いただく〜」などと言って、(皇位を狙えないように)すでに出家させられていた息子と共に自害したそうな。
 
 「小倉の局」の呪いを恐れる宮中関係者は多くいて、明治初期、和宮 の母君だった中山慶子という女官が、正式に神社でお祀いをしています。和宮は明治天皇の叔母にあたり、十四代将軍・徳川家茂と政略結婚した方ですね。悲劇の皇女といわれます。 しかし、御所が京都から東京に移動した後も、例の「小倉の局」がらみの呪いというか、呪いの伝説は明治時代の御所でも現役で語られ続けました。それはある意味、御所で暮らす女官たちの社会が、いかに閉鎖的だったかという表れかもしれません。

――この頃、ほかにもたくさんの皇子・皇女が亡くなっていたそうですね。

堀江 そう。これが明治初期の話です。西洋文明に触れ、どんどん近代化していく世間と、明治維新以前と変わらない閉鎖的な宮中の世界のギャップを感じてしまいます。

 後の大正天皇となる皇子を柳原愛子が生んだのが、明治12年のこと。彼女は「呪い」のプレッシャーを打ち破ったのでした。ま、「呪い」っていうけど、実質は呪いにかこつけた「人災」。廊下に油を垂らして、妊娠中のライバル女官が滑って流産するように画策したとか、呪いの人形が御所内の大きな木に打ち付けてあるとか、なかなか香ばしいんですね。

――東京・世田谷にある大宅壮一文庫で見つけてきた、1968年6月10日号の『週刊サンケイ』(産業経済新聞社)に、「豆を入れた麻袋を水にひたして放置、豆がはちきれて潰れそうになる」のを、「お腹の子が無事に外には出られなくするためのおまじない」として黒魔術的に行っている女官がいたと書いてあります。あまりにも、ホラーな話に震えてしまいそう……。

堀江 柳原愛子も「私は顔では美しく笑っていても、心はいつでも泣いている」的なことを白蓮相手に言ったそうです。ただ、自分が苦労したからなのか、周りの人には優しく接したので、身分を超えていろいろな人たちから慕われました。身分の低い女官たちは、上級女官の前で敬服したり、そもそも視界に入らないようにものかげに隠れたり、いろいろしなくてはいけないのですが、柳原愛子は「おかまいなく、おかまいなく」といってフレンドリーに接したそうな。

 そんな彼女も、明治天皇が崩御なさってからは東京・四谷信濃町に一軒家を構えて移り住んだそうです。ドラマなどでは「側室」でも、男子を生むと威張っていますが、実際はそういうわけにはいきません。使用人は使用人、実質的には大正天皇の実母でも、身分は皇后陛下直属の女官、つまり使用人にすぎないのです。だから明治天皇が崩御なさると、皇太后様の手前、肩身が狭かったのだと思いますね。ただ、御所の外に出た後も、展覧会で女性のヌード画を見た際、「おいど(=御所言葉で、おしりの意味)を出して、まぁ〜」などと言ったそうです。

――西洋画ですかね。御所の中では、見る機会が少なかったのでしょうか?

堀江 おそらく。一生涯を女官で過ごしていたのだもの、世間の基準からはズレてしまっていても当然ですわな。フジテレビ系で放送されていた、ドラマシリーズ『大奥』以上に引いちゃうような“女の牢獄”っぽい世界でしたから。

――ということは明治天皇もおモテになったとか!? ますます御所内がドラマ『大奥』みたいになってしまいそう……。

堀江 明治天皇は長身でカッコよかったみたいですよ。あと名実ともに肉食天皇だった。675年、天武天皇が最初の「肉食禁止令」を出し、牛や豚、鶏などの肉を食べることが残虐だとして禁止させています。食べてもいいケモノの肉もあったりするし、徹底されていなかったようですが、約1200年間、天皇の肉食はおおむね禁止されていました。

 それが解禁になったのが、明治天皇の時代。1872年のことです。お肉がすごくお好きだったといい、そしてというか、かなり“精力的”でもあった、とか(笑)。天皇と肉食についての話は、また別の機会に……。

――高身長といっても、どれくらいあったのですか? 

堀江 数字的には170センチ位だといわれていますが、当時の男性の平均身長は160センチなかったようですから、高い方ですね。幕末の有名人の中では、長身だとされる坂本龍馬も実際はそれくらいだったと言われます。明治期の日本で、明治天皇のお姿をお目にかかることができる人はかなり限定されていました。一方で、日本滞在中の外国人たちの前には、わりと気軽に姿を見せたようですが。

 例えばアメリカから来た外国人教師の娘、クララ・ホイットニーが書いた日記には、天皇の姿を間近に見たという経験が何回か登場し、彼女は明治天皇を「誰よりも背が高くていらっしゃる」などと書かれています。ちなみに、クララは勝海舟の息子の妻になりました。

――イケメン天皇に女たちが翻弄されるって、まさにフジテレビの『大奥』めいた御所の世界ですね。でも、御所は昭和天皇のお声掛かりによって、改革することになったんですよね?

堀江 昭和天皇の「後宮改革」と言われるもので、戦前と戦後の2回行われています。大正天皇は、皇后にぞっこんでしたし、昭和天皇になる皇子などお子様は全員、皇后がお産みになりました。大正天皇は実母が本当に母だと思っていた昭憲皇太后ではなかったと知って、大ショックだったようです。

 “公式”には愛人を持たなかった大正天皇時代の後宮は、一見“クリーン”でしたが、逆に闇深いところでした。女官の一部には、せっかく縁談を断ってまで未婚、そして処女のまま御所に上がったというのに、天皇からのお声掛けもないまま朽ち果てていく人生に嫌気がさした人もいます。そのような女官と、宮中の侍従など男性職員が恋仲になってしまうケースもあり、密かに問題になっていたのです。あと、実際には大正天皇にも、女官との恋のウワサはあったみたいですが、その話は長くなるのでまた別の機会にお話します。

 それらを熟知した昭和天皇は即位後、「後宮改革」を断行。具体的には、(特に上級)女官が天皇の愛人候補生として、御所に上がるという制度自体をなくしてしまったのでした。ほかには、前回出てきた源氏名とか、そもそも典侍などといった女官のクラス分けも廃止することに。

――大正時代まで、「女官」には天皇の“愛人”もしくはその候補生という、ウラの意味が期待されていたんですよね?

堀江 ぶっちゃけ言うと、そうです。だから彼女たちは未婚=処女のままで御所に上がるわけです。そして、実家にもほとんど戻れず、御所内で人生を過ごしていたのですが、昭和天皇の「後宮改革」以来、女官といわれる人々の大半が通勤制に変更されました。

 ようするに、女官から“愛人”のカラーはなくなり、宮内庁の“女性職員”に生まれ変わったということ。また、女官の人数も、明治期の御所では総数300人以上いたものの、かなり減少したし、御所の上級女官の大半が未亡人……つまり、人生経験が豊富な、年長の女性こそが女官には望ましいというふうになったというのも「時代だなぁ」と言わざるを得ません。

 ちなみに、かつては女性皇族付きの女官に指名されると、なかなか断れなかったみたいです。しかし、現・上皇后様こと、美智子様の皇后時代には「畏れ多い」などと言いながらも、激務だというウワサが世間に漏れているため、各方面から辞退者が相次ぎ、なかなか決まらない時期もあったようですよ。これも「時代だなぁ」といわざるを得ませんね(笑)。

――次回は、12月14日更新予定です!

堀江宏樹(ほりえ・ひろき)
1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。2019年7月1日、新刊『愛と欲望の世界史』が発売。好評既刊に『本当は怖い世界史 戦慄篇』『本当は怖い日本史』(いずれも三笠書房・王様文庫)など。Twitter/公式ブログ「橙通信

このニュースに関するつぶやき

  • その昔、宮内庁◯◯部勤務の先輩、妖怪ババアみたいな女官と日々接していると精神ばかりか魂が擦り減るらしい。たまに美智子様をお見かけすると良い意味で宮中とは別世界の人物と輝いて見えたそうな。
    • イイネ!7
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