『テッド・バンディ』ドキュメンタリー作家だからこそ描けた、連続殺人鬼の恐怖 観客の先入観を暴き出す手法に

0

2019年12月06日 18:21  リアルサウンド

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

リアルサウンド

『テッド・バンディ』(c)2018 Wicked Nevada,LLC

 かつてのベストセラーに『人は見た目が9割』(竹内一郎著、2005年)という新書があった。そのキャッチーなタイトルがある種一人歩きする形でも流行し、さらに数字を盛った『人は見た目が100パーセント』なる漫画がテレビドラマ化(2017年)されたことも記憶に新しい。もちろんこれらは単なるイケメン&美女礼賛ではなく、主張・論旨の本質にあるのは、我々人間はその真実性(中身)よりも、表情や仕草や身だしなみ、さらには話し方といった外面の印象(情報)で社会的に判断されてしまうのだというアイロニーだろう。


参考:ほか場面写真多数


 確かにそうなのかもしれない。筆者にとって、おそらく過去最も「見た目」効果の凄さをリアルに実感させてくれたのが、ザック・エフロン主演、ジョー・バリンジャー監督の新作映画『テッド・バンディ』。このタイトルでお判りの通り、1970年代にアメリカを震撼させた伝説の殺人鬼、テッド・バンディ(1946年生〜1989年没)を描く実録犯罪映画にして「異色の」伝記映画だ。本作はドキュメンタリー出身のバリンジャー監督ならではの視点で、我々がいかに物事の真実を見誤ってしまうのかを暴き出す。テッド・バンディは、30人以上の女性を惨殺し、“シリアル・キラー”の語源になった男。彼の特異点は、IQ160とも言われる頭脳と甘いマスクで世間を翻弄したことだ。


 エド・ゲインやジョン・ゲイシー、あるいはチャールズ・マンソンのような「いかにも」邪悪性をぷんぷん放つ犯罪者ではまったくない。一見、誰からも好かれるタイプのモテ男。物腰の柔らかな態度で、品のあるシンプルな服装。よく気が利き、話も上手だが、押し出しが強いわけでもない。当時新聞には“Charming Killer seems ‘one of us’”(チャーミングな殺人犯は我々と同じ普通の人)という見出しが躍り、多くの人が彼のことを殺人鬼だとはなかなか信じようとしなかった。とりわけ史上初のテレビ中継された裁判であるフロリダ州での訴訟では、彼の立ち振る舞いやパフォーマンスが広く一般に知れ渡り、テッド・バンディは一躍メディアスターに。法廷の傍聴席には“プリズン・グルーピー”と呼ばれるファンの女性たちが詰めかけた。フェミニズムが台頭・白熱し始めた1970年代、それを嘲笑うかのような暗黒の存在に、皮肉にも多くの女性たちがハートマークを贈ったのだ。


 我々はなぜこうも「イメージの良さ」に翻弄されるのか。あるいは自分が抱いた「好感」を修正するのがいかに難しいのか。『ハイスクール・ミュージカル』(2006年)や『グレイテスト・ショーマン』(2017年)などの好青年の延長で、ハンサム・温厚・知的という三種の神器(?)を持つ驚異の人たらしを“快演=怪演”するザック・エフロンの演技も相まって、観客は当時の“バンディ・ガールズ”が「だまされた」ように「だまされる」。あるいは「やっていた」ことを知っているのに「謎めいた魅力」に転化されてしまう。


 これは監督のジョー・バリンジャーがNetflixのドキュメンタリー作品『殺人鬼との対談:テッド・バンディの場合』(全4話、2019年)をほぼ並行する形で完成させ、事件を検証・分析し尽くしたからこそ高度に実現できたアプローチだろう。


 エミー賞受賞のテレビドキュメンタリーシリーズ『Paradice Lost(原題)』をはじめ、骨太なドキュメンタリー監督として長年活躍してきたバリンジャーは、白熱の人間ドラマをえぐり出すロック・ドキュメンタリーの画期的名作『メタリカ:真実の瞬間』(2004年、ブルース・シノフスキーと共同監督)や、南米エクアドルで起きた米国大手企業シェブロンの原油流出による環境汚染疑惑の訴訟を追った『クルード〜アマゾンの原油流出パニック〜』(2009年)など、正攻法かつ徹底した取材姿勢で知られる。『殺人鬼との対談:テッド・バンディの場合』では、死刑囚監房での録音テープや、事件当時の記録映像を用いるに止まらず、関係者と本人に独占でのインタビューを実施するなどまさしくバリンジャー監督のドキュメンタリーへの真摯な姿勢が反映されている。今回の『テッド・バンディ』は、ドキュメンタリーでの真っ直ぐな取り組み方とは趣を変え、劇映画ならではの別の語り方を模索したのに違いない。


 そんなバリンジャー監督が選び取った、本作のユニークさは、その正体を知らないまま、連続殺人鬼との愛の日々を送った女性の目線で描くことだ。原作はテッド・バンディの恋人だったエリザベス・ケンドル(『殺人鬼との対談:テッド・バンディの場合』の第2話「普通の人」にも本人が登場する)の著書『The Phantom Prince:My Lifewith Ted Bundy』(1981年出版)。裁判で徐々に明らかになる残酷な犯行と、彼との想い出の狭間で翻弄されるヒロイン。温厚でウィットに富み、ハンサムな彼に魅せられた彼女、そしてメディアを通して彼のファンになった数多くの女性たちと同じように、我々観客もテッド・バンディの「見た目」にとことん振り回されてされてしまうのだ。


 真実のミスリード(錯覚)へと感情が入り込んでいくこの映画の優れた話法は、もちろんメディアリテラシーの問題とも絡んでくるし、何より一筋縄ではいかない人間の闇の深さをまざまざと示してくれる。それは前述のように、ドキュメンタリー映画監督として20年以上、刑事司法制度の改革や不当判決の問題に取り組み、真実を暴こうとしてきたバリンジャーあってこそだ。映画の冒頭、詩人ゲーテの「現実を想像できる者は少ない」との言葉が引用されるように、世界の複雑さを甘く見てはいけない。人間通や経験値の深さを気取る者ほど、自分が本当はどれだけ浅はかで「見えていない」のかを知るべきなのであろう。バリンジャー監督は独自の視点でテッド・バンディを描くことで、観客にその事実を痛感させる。 (文=森直人)


    ニュース設定