筒井真理子の恐ろしいほどの変容 深田晃司監督との信頼関係によって生まれた『よこがお』の凄み

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2020年01月25日 12:12  リアルサウンド

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(c)2019 YOKOGAO FILM PARTNERS & COMME DES CINEMAS

 「俳優」とは、恐ろしい存在である。彼らは自己という存在を極限にまで誇張させ、あるいはまた逆に否定し違う何かに変容させてしまう。2019年に公開された深田晃司監督作『よこがお』の筒井真理子ほど、恐ろしいものはなかった。


 深田監督といえばこれまでにも、『歓待』(2010)、『淵に立つ』(2016)、『海を駆ける』(2018)などで、他者の介入によって“自己”が変容していく者たちの姿を描いてきた。より社会問題を反映させた『ほとりの朔子』(2013)、『さようなら』(2015)ももちろん例外ではなく、それは今作『よこがお』までも連綿と受け継がれてきたテーマの一つだ。他者との交流ーーこれをなくして人が生きていくことは難しく、この『よこがお』には“看護・介護”というかたちでも、その側面が強く押し出されている。


※以下、一部結末に触れます。


 本作で主人公を演じ、恐ろしい変容ぶりを見せるのが筒井真理子だ。彼女の役どころは訪問看護師の市子という人物で、周囲からの信頼も厚く、いわゆる“善良”な一市民として人々の目には映っていた。ところが、ある事件をきっかけに、彼女の人生は一転していくことになる。甥の辰男(須藤蓮)が誘拐事件を起こしたことで、市子は“無実の加害者”として、思いがけず社会的制裁を受けてしまうことになるのだ。果たして、責任の所在は彼女にもあるのだろうか。


 本作の核になるのが、市子の人生の転落。ある日、彼女が訪問看護をしている大石家の末娘・サキ(小川未祐)が行方不明に。そのサキを誘拐したのが自身の身内である辰夫だと言い出せぬまま、市子は大石家との交流を続けることになる。しかし、やがてその真実が明るみに出たときに、彼女の人生の転落がはじまるのだ。むろん、“善良”な彼女は打ち明けようとするのだが、そんなことをすれば市子はこの家庭との交流を断たねばならない。それを避けるため、彼女に密かに想いを寄せるサキの姉・基子(市川実日子)が、「黙っておくべきだ」と手引きするのだ。


 筒井は『淵に立つ』でも主要な役どころを担っていた。それは他者の存在の介入によって、変容してしまう側の存在だ。例えば水面に石を投げ込めば、そこには波紋が生じる。そしてそれは“波紋が広がる”という慣用句があるように、周囲にも影響を及ぼしていく。『淵に立つ』、そして『よこがお』での筒井の役どころとは、まさにそんな水面のような存在だろう。今作における“石”とは、罪を犯した辰男であり、やがて手のひらを返すある人物であり、“無実の加害者”である彼女を責める世間であり、無自覚な闖入者となるマスコミのことだ。闖入者とは、深田作品において他者に影響を及ぼす存在として必ず姿を表すものでもある。


 本作の構成は、時間の流れが直線ではない。過去と現在がシャッフルされ、観客は変容する前と後の市子の姿を交互に見つめることになり、彼女の実態をつかむことがなかなかできない。感情は宙吊りにされたまま映画は進み、スリリングな時間を体験をすることとなる。これを実現しているのは映画の編集技術などだけでなく、やはりその最たる部分を担っているのが筒井の不安定な(ように見える)“顔”だろう。凪いで見えるその表情の下には、何が隠れているか分からない。何をきっかけにして、波を起こすか分からないのである。


 筒井が演劇界でキャリアをスタートさせた存在だということは知られているだろうか。当時、鴻上尚史が率いていた「第三舞台」の俳優としてだ。以降、彼女は人生の半分以上の歳月を俳優人生に捧げ、舞台のみならず、映画、ドラマでとキャリアを重ねてきた。この事実が、現在の彼女の俳優としての“凄み”の理由となっているは当然だ。やはり多くの場数を踏むことによる経験値に勝るものはない。しかしやはりその根底にあるのは、舞台俳優としての出自が大きいのではないだろうか。演劇では、観客の前に生身の俳優が、自身のすべてをさらけ出すことになる。そこでは大小高低といった声の扱いはもちろんのこと、表情筋の使い方、あらゆる関節……私たちが生きていくために必要な身体すべてのすみずみににまで意識を向け、行き渡らせなくてはならない。それは、どれだけ大仰な動作でも、些細な視線の揺れや仕草であっても同じことである。


 筒井は、目の見開き方の具合いや微かな頬の痙攣、声の震えまでコントロールしているように思う。これが、本作における彼女の“不安定な顔”の印象を与えるのだ。恐ろしい。これは不安定さが恐ろしいだけではなく、すべてをコントロールしているのだから恐ろしいのだ。むろん、カメラのアングルや照明効果といったもので、彼女の変容ぶりを“恐怖演出”で作り出すことはできる。だがそれはあくまで画全体のことであって、筒井が演じる市子の顔を注視してみれば、彼女自身がどれだけの所業に挑んでいるか分かるだろう。タイトルにある「よこがお」だけでは、その人間の本性を見抜くことはできない。こちら側から見える「よこがお」に笑みが浮かんでいようとも、その反対側にある「よこがお」は引き攣りを起こしているかもしれないのだ。そんな印象を観る者に与えるのが筒井真理子という俳優なのである。


 すでに膨大な数の出演作があったにもかかわらず、近年、筒井が大きな存在感を示してきたことは、やはり『淵に立つ』の成功が大きいのだろう。これまではバイプレイヤーといった印象が強かったのだ。彼女を力強く押し出すことができたのは、作り手と俳優の幸福な関係である。普通の人間に理解しがたい行為を映像に焼き付けることや、舞台上に乗せることを「役者魂」などと安易に呼んだりするが、かといって“なんでもあり”というわけではない。俳優はその作品世界に則したものを打ち出していかなければならない。これらを実現するために必要なのは、やはり監督と俳優の相互理解と信頼関係なのだろう。これは、深田監督が平田オリザ率いる劇団「青年団」の演出部に所属し、俳優との密なコミュニケーションが要される演劇の素地を持っているというのも、一つあるのかもしれない。それに彼は、俳優、スタッフの、映画制作環境における問題提起をつねに試みている人間であるし、こういった姿勢が、俳優の演技というかたちで映画に表れているのだろう。筒井は『よこがお』にて、犬の動きを真似てみたり、裸体までも晒すが、これらもまた信頼関係のなせるわざなのではないだろうか。彼女の変容ぶりに驚き、慄く者がいるかもしれないが、それは単純な「役者魂」などの言葉では語れないのだ。(折田侑駿)


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