『パラサイト』はなぜオスカーを受賞できたのか? 日本映画にはなかった韓国の“長期的視点”

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2020年02月13日 10:01  リアルサウンド

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Blaine Ohigashi/(c)A.M.P.A.S.

  韓国映画『パラサイト 半地下の家族』が作品賞を含む4部門を制するという歴史的偉業で幕を閉じた第92回アカデミー賞。非英語圏の資本で作られた完全外国語作品としては史上初めての作品賞であり、アジア人による監督賞受賞はアン・リー以来で、米国資本が入らない作品では史上初。英語以外の作品が脚本賞を受賞するのは17年ぶりと、まさに異例尽くし。このようなアカデミー賞の歴史を塗り替える“事件”の素晴らしさで若干霞んでしまってはいるが、本作が国際長編映画賞(以前の外国語映画賞)も受賞しているということを忘れてはならない。


参考:【写真】喜びを露わにする『パラサイト』キャスト一同


 アカデミー賞自体がアメリカ映画界の賞であるが故、もちろん韓国映画がその主要部門で牙城を崩したことはこの上ないほどの価値がある。けれどもこれまで多くの韓国映画の名作や傑作たちが、エントリーしてもノミネートはおろかショートリストにすら加えられなかった(昨年の『バーニング 劇場版』が初めてショートリストまで駒を進めたが)外国語映画賞・国際長編映画賞こそ、もともと韓国映画界が長年目標としてきた場所だ。シン・サンオク、ユ・ヒョンモク、イム・グォンテク、そしてイ・チャンドンなどなど。偉大なる先人たちが成し得なかった悲願を背負い、それをポン・ジュノはしっかりと成就させたのである。


 それ故、今回の授賞式で実に4度も壇上に上がったポン・ジュノのスピーチにもその意識が表れているように見える。1度目の脚本賞ではごくシンプルに韓国映画初のオスカーという快挙への喜びが中心となったが、2度目の国際長編映画賞の際には賞の名称変更によって生まれた新たな方向性に感謝を示した上で、キャストやスタッフたちの名前を呼ぶ。必然的に会場全体が彼らの功績を称え、保守的だと言われ続けたアカデミー賞により大きな変革が必要だというムードになると同時に、長年韓国映画界が目指してきたハリウッドとの壁が取り去られたことをまざまざと証明する。大願成就と呼ぶにふさわしい賞を得ながらも、韓国映画界の勢いはここで終わりではないのだという、強い意気込みさえもそこには垣間見られるのだ。もちろんこの時点で作品賞の結果は発表されずとも決まっていたとはいえ、誰もが今年は『パラサイト』の年になると確信せざるを得なくなった瞬間であろう。


 ちなみに3度目の登壇となった監督賞では自身の作家としての根幹に触れながらマーティン・スコセッシとクエンティン・タランティーノの2人の映画界の先人を立てながら他の候補者への敬意も表明。4度目の作品賞の際には自身も受賞者の1人であれど、クァク・シネ(有色人種の女性プロデューサーとして初めての作品賞という点も見逃せない)にスピーチを委ね、自身は少し端のほうで控えめにたたずむ。ここまできれいに棲み分けが為されたスピーチから考えるに、きっとポン・ジュノ自身も何度も名前を呼ばれることを想定していたに違いない。その自信と向上心があるからこそ、これほどまでに面白い映画が生み出せるのではないだろうか。


 ところで、今回の受賞結果を受けて日本国内では日本映画の現状を悲観する声が相次いだことに触れないわけにはいかない。すでに昨今近隣諸国へ対しての政治的な対立から波及した劣等感にも似た反発が、映画にとどまらずカルチャー全体に蔓延しているわけだが、まず今回『パラサイト』がハリウッドの大作と真っ向から競り合って勝利をもぎ取ったことからも、日本映画と韓国映画にそう簡単に超えられない大きな差がついてしまったことは残念ながら明白だ。日本映画とアカデミー賞の関係は韓国映画よりも古く、50年代や60年代には外国語映画賞の主要国のひとつとして存在し、その後、勅使河原宏と黒澤明が監督賞にノミネート。アメリカ映画にスタッフとして携わった日本人が賞を受けるケースは何度かあったが、作品そのものの評価に関していえば『おくりびと』が2008年に外国語映画賞を受賞し、昨年『万引き家族』が同部門に候補入りする以外は、頼みの綱のアニメーション部門に特化し、実写映画に関してはこれまでの韓国映画と同様に外国語映画賞がひとつの目標になっているのである。


 SNS上の意見に目をやれば、日本の国内市場向けに作られるいわゆる「漫画原作のキラキラ映画」やら「人気俳優・アイドルの映画」やら「テレビ局主導の作品」がさも悪の権化として槍玉に挙げられているが、はたしてこれらの作品が本当に問題なのだろうか? 考えてみれば、韓国はもちろんアメリカでもフランスでも、多少形は違えど明らかに内国向けのポップな作品は数多く作られており、むしろそれらがそれぞれの国内興行で存在感を示しているのは言うまでもない事実だ。ハリウッドのいわゆる世界市場向けのブロックバスターはさておき、そういったポップな内国向け映画と海外の映画祭などを目指した外国向け映画が両方存在してこそ映画は面白味を増すのである。もちろん日本でも是枝裕和を筆頭に、濱口竜介や河瀬直美、深田晃司、黒沢清、またジャンル映画に特化しているとはいえ三池崇史や清水崇のように外国で高い評価を得ている監督は多数存在している。


 では何が日本映画に足りていないのか。昨年アメリカ国籍を取得し、今回のアカデミー賞でメイキャップ&ヘアスタイリング賞を受賞したカズ・ヒロは「日本は夢を叶えるのが難しい」と、授賞式後の会見で語ったのだと言う。いまの日本映画界に足りていないものは、アイデアではなくて長期的に先を見据える堂々とした視点ではないだろうか。韓国映画界では『シュリ』以降とくにハリウッドと対等に渡り合える娯楽映画を念頭に置いた作り手たちの半ば無謀と思われた野心が根幹にあり、何度政権が変わっても文化を尊重する姿勢と映画の企画段階から発生する助成金という国家をあげてのサポートがあり、面白い映画は盛り上げ、つまらない映画は淘汰される正直な世論があった。だからこそ作り手たちは常に観客の目を意識した面白い作品を目指し、結果的に娯楽が多様化したなかでも映画の価値は一寸たりとも下がるどころか、毎年のように動員記録を塗り替える作品を輩出し、『パラサイト』が生まれたのだ。


 またアメリカでも、今回作品賞をはじめ最多の11部門で候補に上がった『ジョーカー』のトッド・フィリップスといえば『ハングオーバー!』シリーズを手がけた人物。結果的に同作は世界的な人気シリーズになったが、もとを辿ればこれも完全にアメリカ国内向けのポップなコメディ映画の文脈に数えられる映画であろう。また昨年の『バイス』を手がけたアダム・マッケイもしかり、高を括られかねない内国向け作品を手がけていた作家の素質をきちんと見抜き、次につなげるシステムがきちんと確立しているとみえる。対して日本では、「キラキラ映画」を手がけある程度の興行的成功に導いた監督に、次にオファーが来るのはやはり「キラキラ映画」であり、インディーズでどれだけ大きな注目を集めた監督であってもいきなりメジャーの大作を任されるというケースは極めて稀な印象だ。ましてや興行的成功を生み出しても、なかなか作家の自由が効かず、よほどの知名度のある監督でなければ、いわゆる“受けそうな題材”を“受けそうな形”で作らざるを得なくなってしまっていることは否めない。


 それはもちろん映画がビジネスであるから致し方あるまいとは思うが、少しくらいは冒険しなければ成長もあるまい。短編向けのストーリーテリングと作家性で人気を博す新海誠が『君の名は。』で興行的大成功を収め、そこで抑えていた作家性を一気に解き放った『天気の子』で荒削りながらも魅力的な作品に仕立て上げたように、250億円儲けないと多少の自由も効かないようでは確かにあまりにも夢がない。また、日本人の多くが年に1〜2本しか劇場で映画を観ないからといって安易にポジティブなメッセージだけを発信したり、とりあえず名前が知られれば良いと言わんばかりの弱腰の宣伝(これは外国映画にもいえることだが)。それに同調するかのように批評文化が衰退し、さらにヘビー層の間でも自分の好きな作品が批判されることをよしとしない風潮が見え隠れしてしまう。すると誰にでも好かれるような作品を目指して極端な感情に依拠した無難な映画が頻発し、ライト層が“今年の1〜2本”に選ぶ映画が無難なものにしかならず、次の3本目に結び付かない。興行も満足いかないから現場に落ちるバジェットは芳しくなく、また無難な映画を作らざるを得なくなり、労働環境は悪化し、いつぞやの味噌汁話のように作品と違うところで勝負しようとしたりなどなど、悪循環は枚挙にいとまがない。


 結論から言えば、「内国向けのポップな作品」「集客のために人気俳優を起用する作品」の存在が悪なのではなく、目先の興収だけに目を奪われて完結してしまうことが悪なのではないだろうか。そこで得た利益が、既存ないしは将来の作家やスタッフたち、さらにはシビアな観客の育成のために充分すぎるくらい充てられていけば間違いなく何かが変わる。たくさんのアイデアを持つ作家たちはすでに面白い映画を作りたくてウズウズしながらも、なかなかその機会を得られていないのだから。少なくとも、絶望感や危機感の中で強いられるネガティブな変化に比べれば、目先のリスクを背負ってでも先を見据える向上心を持ったポジティブな変化の方がいいに決まっている。


 2000年代の韓国映画界は、内国産のコメディ映画やスター俳優のアイドル映画など無難な作品が目立ったが、それがポン・ジュノやホン・サンスのような作家輩出に結びつき、興行的にも国際評価的にも大躍進の2010年代へとつながった。それは一朝一夕でできるものでもなければ、過去の先人たちの功績に擦り寄ったものでもなく、作り手と受け手が一体となって映画を信じたからに他ならない。そして今回の『パラサイト』のアカデミー賞受賞で証明されたことは、エンタメであろうが芸術であろうが、好き嫌いのような感情論も超越するほど優れている作品を作りさえすれば、世界レベルで歴史を変えることができるということだ。 (文=久保田和馬)


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  • 気持ち悪い朝鮮押しは、置いておいて日本映画は世界のマーケットを見ないでちまちました少女漫画原作ととアイドルのホラーと監督の自己満の自慰映画ばっかり
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