『1917』は何を伝えようとしたのか 長回しの意味、監督の作家性、宗教的モチーフから考察

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2020年02月27日 13:02  リアルサウンド

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『1917 命をかけた伝令』(c)2019 Universal Pictures and Storyteller Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.

 第一次世界大戦の西部戦線を舞台にした、サム・メンデス監督による戦争映画『1917 命をかけた伝令』。2020年のアカデミー賞を前に、“前哨戦”といわれるゴールデングローブ賞などで勝利したことで、アカデミー作品賞の最有力候補となっていた作品だ。結果は周知の通り、撮影賞、視覚効果賞、録音賞を獲得したものの、『パラサイト 半地下の家族』が、作品賞、監督賞などを獲得し、当てが外れてしまった感がある。だが、「本当にその結果で良かったのか」と思ってしまうほど、本作『1917 命をかけた伝令』は、力のこもったエモーショナルな一作である。


参考:サム・メンデスの新境地! 『1917 命をかけた伝令』の“シンプルな物語”と“実験的な手法”


■ワンカットとモンタージュ


 本作は、“ワンカット”ということばで語られることが多い。重要な命令を前線に伝える2人の伝令が危険な戦場を通り抜けていく姿を、切れ目のない長回しで追いかけていくのだ。とはいえ、本来の意味でワンカットといえるものにはなっているわけではない。本作を鑑賞すれば分かるが、明らかに途中で暗転して時間が経過するという“カット”が存在しているし、観客が気づかない部分にも、巧みなカメラ技術や編集技術によって隠されたつなぎ目があるのだ。川に飛び込むシーンでのカット移行も分かりやすい。つまり、“長回しのシーンをつないで少ないカット数のように見せている映画”……というのが、より正確な書き方であろう。


 とはいえ、劇映画は現実ではないので、観客を視覚的に騙しきれば成立してしまう部分がある。つまり、この映画を「ワンカット」、もしくは「ツーカット」であると、鑑賞した観客が感じるということに意義があるのだ。では、そこまで苦労をして長回しを見せることに、どんな意味があるというのだろうか。


 映画には、「モンタージュ」という考え方がある。別々に撮った映像素材をつなぎ合わせ、場面を転換することで、作品を長尺にしたり、リズムを作ったり、互いのカットに意味を持たせることができる。例えば、ナイフを持った男を映したカットと、叫ぶ女のカットをつなげば、女が男に襲われているような意味が生まれることになる。これは、映画における発明だといえよう。ただ、それがあまりに便利なために、安易にカットをつないでしまうと、場面によっては散漫な印象になってしまうし、迫真性を失わせる要因となることがある。


 基本的に劇映画において、「これはつくりものだ」と、鑑賞中の観客に意識させてしまうのは得策ではない。感動させたり手に汗を握らせ興奮させるには、現実に近い体験をさせる必要があるからだ。だから不自然な演技をする出演者が映ると、鼻白んでしまうことになる。カメラが動いたときには撮影者の存在を感じ、カットが切り替わるときに編集者の存在を感じることで、「本物ではないんだな」と思ってしまう。それがたとえ無意識レベルの心の動きであれ、映画への没入が阻害され、最終的には作品の評価に関係してくることになる。


 その意味でいうと、本作はサム・メンデス監督の盟友でもある名カメラマン、ロジャー・ディーキンスによる流麗なカメラワークによって、常に演技者を追いかけ、前に回り込んだり、美しい構図を作ったりと、せわしなく働き続ける撮影者の存在を意識してしまうのは確かだ。しかし、その一方で、編集者の存在を感じることは少ない。


■極端な長回しがもたらした未体験の現実感


 映画解説者・淀川長治氏によると、ヴェネチア国際映画祭で最高賞を受賞した黒澤明監督の『羅生門』(1950年)が映画祭会場で上映された際、志村喬が演じる木こりが山に入っていく場面が話題を呼んだのだという。撮影を務めた名手・宮川一夫が、あらゆる撮影技法を駆使しながら、木こりの道行きをとらえていく。丸木橋を渡る姿を、あおりの角度で正面から写していたはずが、いつのまにかカメラは背中側をとらえている。いまでは何でもないようなショットに見えるが、当時の海外の監督たちは、どうやってこのような自由な撮り方ができるのかを知りたがった。まだまだ機材が大きく重かった時代の話である。


 その意味では、常にカメラが回り込みながら演技者をとらえ続ける、今回のロジャー・ディーキンスのカメラワークは、宮川の技法の最新のかたちだといえよう。今回の撮影のため、ディーキンスはメーカーに新型のカメラ開発を急ぐよう依頼までしているほどである。


 話を“ワンカット”に戻そう。人間は、眠るときや、まばたきをするとき以外は、基本的にワンカットでものごとを知覚している。言い換えれば、人間の1日はワンカットであり、人生もまた、その人個人にとって、長い長いワンカット(ワンシークエンス)の体験だといえよう。だからこそ、モンタージュのない長回し映像を見ることは、現実の体験に近いといえるのだ。


 本作では、決死の任務を遂行していく伝令の2人が、歩いたり、立ち止まったり、腰を下ろしたり、また立ち上がって歩き出したりする動きを、持続してとらえていく。そのことで、観客は第3者としてではなく、彼らとともに、本当に危険な道行きをしているような錯覚を覚えるのだ。


 土や砂利、水たまり。見上げた空の色。時間の推移による光の変化。演技者を包み込む、これらの様々な要素もまた映像の持続によって、生きて影響を与え得るものとして、我々の目に認識される。だからこそ、彼らが傷ついたり危ない目に遭う瞬間、一緒に緊張し、驚き、涙することになる。そこで人が死ねば、「本当に死んだ」と、一瞬錯覚しまうのだ。


 私自身、このような極端な長回しと、適切な構図によって物語を追っていくことが、ここまで感情に効果を及ぼすことになるとは思いもしなかった。本作の撮影は、難易度が高くて感心する……というような次元で終わるものでは決してなかったのだ。これだけでも本作は、撮る意義ある作品になっているといえよう。


■実際の証言と異なる戦争描写


 その一方で、本作の舞台となっている、第一次大戦における西部戦線の描き方には違和感を与えられる箇所が少なくない。この物語は、実際にイギリス軍の伝令兵をつとめていた監督の祖父の経験が基になっていることが、本作では文字として表示される。幼いサム・メンデスは、祖父の膝の上で、戦場での様々な出来事を聞いたのだという。その体験は本作のディテールにも生きているはずだが、攻撃中止の伝令などは創作だという。


 同時期に公開中の、ピーター・ジャクソン監督によるドキュメンタリー『彼らは生きていた』は、同じように西部戦線の模様をとらえた当時の映像を修復し、実際の兵士たちの声を収録した音源を使用して、あの場所で本当は何があったのかを伝えている。生き残った兵士の証言によると、危険地帯に行かされた兵士たちは、「命令に違反したら殺す」と、上官に銃剣で脅されていたという。兵士たちは、命令違反で殺されるよりはと、敵陣に向けて死地へと進まされたのだ。そして、最終的にそのほとんどが死亡することになった。


 『1917 命をかけた伝令』では、実際にその場にいた兵士たちが証言しているような、おびただしい数の兵士が死ぬ場面や、嫌がり怯える兵士たちの背中に、上官が銃剣を突きつけて脅す場面はない。


 では本作は、戦争の真実をただねじ曲げただけの作品なのだろうか。実際にはなかったことを描くことで、何を伝えたいのだろうか。その答えは、やはり映画のなかにある。


■“スカイフォール”に見る神秘的構造


 ここで、過去にサム・メンデスが監督した、『007 スカイフォール』(2012年)の話をしたい。イギリスの有名スパイアクション・シリーズの一作として有名な作品だが、ここでメンデスは、ジェームズ・ボンドが調子を崩し、敵に歯が立たないという展開を描いた。


 ここでテーマにされていたのが、イギリスという国そのものの失墜と復活である。政治、経済、文化など、あらゆる面で影響力が小さくなっていく今日のイギリスにとって、もともと世界を救う荒唐無稽な存在であるジェームズ・ボンドのリアリティは、さらにギャグのような陳腐なものでしかなくなってきている。では、そこでイギリスがもう一度誇りを持つためには、何が必要なのかというのが、作中に描かれているのである。


 ダニエル・クレイグ演じるボンドは、出身地であるスコットランドに帰郷し、悲劇的な歴史が残るグレンコーの荒野にある、自分の育った家で強敵を待ち構える。それは、いつも外国を飛び回るボンドにとって珍しい行動だ。ボンドは、地下にもぐり、火に追われ、爆風と戦い、水に沈む。そして、その果てに敵を倒す力を取り戻すのである。その姿は、やはりロジャー・ディーキンスの撮影によって、神秘的とすらいえる映像美で表現される。


 地水火風の四元素。それを神格化した精霊は、『アナと雪の女王』(2019年)にも描かれた、キリスト教化以前より北欧で信じられてきた、北欧神話における概念だ。現在のイギリス人の多くのルーツは、北欧神話を信仰していたゲルマン人にあるとされている。つまりメンデスは、イギリスのルーツを遡れるだけ遡り、太古の姿を残す土地でボンドに神話的な儀式を施し、神話のレベルでイギリスの権威を復活させようとしたのではないのか。


 そのように、神話に根拠を求める試みは、権威主義的で保守的な印象を与えられるところがあるが、そんな神秘的な『007 スカイフォール』が、イギリスでとくに大ヒットを記録したことは事実だ。そのような内向きな空気が、現実の“ブレグジット(イギリスの欧州連合離脱)”にまでつながっていると言ったら、言い過ぎだろうか。『1917 命をかけた伝令』の構造は、この『007 スカイフォール』によく似ているところがある。


■サム・メンデスの作家性の核となるもの


 主人公が川に仰向けで浮かんで流れていくシーンは、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』を基に描かれた、ジョン・エヴァレット・ミレーの有名な絵画『オフィーリア』(1852年)を連想させる。


 イギリス「ラファエル前派」の代表的な作品であるこの絵画は、細密で写実的な自然描写を行いながら、同時に神秘的な象徴となるものを画面に紛れ込ませている。オフィーリアの周りには、季節の異なる草花が同時に生え、リアリティとしてはあり得ない一場面になっているのである。そんな存在しないはずの草花の一つひとつが、ここでは、それぞれが文化的に背負っている記号的な意味となって、一種の文学的な価値を絵画作品に与えている。


 そして、このような手法は、文学をはじめとする文化運動である「自然主義」や、美術に起こる「印象派」のカウンターとなった、“象徴主義”と呼ばれる、表現者の持つ理想を具象化する美術運動の先駆けとなっている。


 アカデミー賞でメンデス監督が、作品賞、監督賞を含む5部門を受賞した、『アメリカン・ビューティー』(1999年)では、ビニール袋が風に翻弄される光景が、真に美しいものとして映し出される。そんなただのありふれた物理現象に価値を与えるのは、そこに何か人生の本質のようなものを見出そうとするからだ。このように被写体に、より大きなものを仮託する表現こそが、メンデス監督の核となる、一種の象徴主義的な作家性なのである。


 本作では、岸に上がった主人公がずぶ濡れの服を着たままでいるが、4月とはいえ早朝にあの格好でいれば、体温が奪われ低体温症になって死に至りそうなものである。すぐ裸になって服を乾かさなければならない。だが、そんなリアリティなど笑い飛ばすように、主人公は幻想的な雰囲気が立ち込める、背の高い木々が繁る森林に導かれていく。


 森林には兵士たちが集い、戦場には不釣り合いに感じる荘厳な歌声が響く。故郷や家族を想う、兵士たちの声無き声が、そしてついに家に帰ることがかなわなかった死者の想いが歌詞に乗っているように感じられる。その情景は、北欧神話における、戦士たちの魂が集うという、ヴァルハラ宮に迷い込んだような不思議さを感じさせる。


■地獄に舞い降りた天使たち


 本作では、キリスト教的なイメージも随所に見られる。主人公たちは、自分が生きるために敵兵を殺害するが、その一方で、命の危険をかえりみずに敵兵を火のなかから救い出そうとするし、奇跡のように農家に放置されていたミルクを、まさに聖母マリアとキリストを想起させる、女性と赤ん坊に与える思いやりを見せる。まだ年若い主人公の献身的な姿は、ジョージ・マッケイとディーン=チャールズ・チャップマンの、あどけなさが残る容姿にも影響され、天使のように見える瞬間がある。


 考えてみれば、天使は神のメッセージを人間に伝える役目を持つ“伝令”である。聖人や熱心な信仰者のなかには、天使が伝える神の声を聞くことで、これから起きる災難などを事前に知る奇跡を経験したと伝えられている。実際の歴史には存在しない伝令の2人が、天使の役目を引き受け、善意によって大勢の人々が死ぬという史実を回避しようとする……本作はこのように、兵士たちが生きていて欲しかったという願いが込められた、神秘的で理想的な物語として見ることができる。そして同時に、そのような結末を迎えられなかった、現実の人間の愚かさをも暗示しているといえよう。


 そのように本作を解釈するためには、観客は少なくとも史実を知らなければならない。そうでなければ本作は、勇気ある兵士が仲間を救ったというだけの、戦争を美化した偽の英雄譚でしかなくなってしまう。もちろん、祖父の存在を映画内で言及したことで、そう思わせるつくりにしてしまったメンデス監督に問題がなかったとはいえないだろう。


 だが同時に、映画とは関係のないところで、過去の戦争の被害を知ることは、当たり前なことであるともいえる。そして、その知識を持っていれば、本作のエピソードの後、イギリス兵に大きな被害がもたらされることが、ある将校のセリフによって暗示されていることに気がつけるはずだ。映画はときに、社会や歴史など、外部の情報と結びつくことで成立することもある。


 本作『1917 命をかけた伝令』は、このように、撮影監督の高い技術によって長回しをこれまでにないレベルに高めながら、同時に映画のあり方そのものを考えさせるような、監督の強烈な作家性に貫かれた作品だといえるのだ。(小野寺系)


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