JTCCラストチャンピオン、トヨタ・チェイサーの挑戦「タイヤを100%使うためにFRを選んだ」

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2020年04月17日 17:41  AUTOSPORT web

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1998年JTCC、トムスとセルモのチェイサー
いまも収まる気配の見えない新型コロナウイルス禍。自宅から一歩も出ない生活を送っているレースファンも少なくないはずだ。ここではそんなファンのために、4月1日に発売となった雑誌『レーシングオンNo.506』のJTCC全日本ツーリングカー選手権特集から記事を抜粋して紹介する。

 第4弾はシリーズ終盤にトヨタが新規投入したFRマシン、チェイサーに迫る。開幕当初はコロナ、カローラ、セレス、マリノなど複数マシンがマルチに走っていたトヨタ陣営だが、翌年トムスが開発したエクシヴが速さを見せると徐々に収縮、同車を主戦車としてシーズンが進んでいった。

 シリーズ3年目の1996年からホンダがアコードを投入し連勝劇を重ねていくが、時をおなじくしてチェイサーの開発が始まっている。アコードに脅威を感じて新車を投入したと思われがちだが、それは必ずしも正しくないようだ。彼らがライバルとして見ていたのはどんなマシンで、彼らは何を考えて新機軸となるFR車両を開発しようと考えたのか。その真実に迫る。
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 1994年から1998年というわずか5年の短い期間で終焉を迎えた全日本ツーリングカー選手権(JTCC)には、国内外の自動車メーカーが数多く参加し火花を散らした。

 そのなかでも、ほかとは一線を画すマシンとしてトヨタがシリーズの最終盤に投入したのがチェイサーだった。国産でほぼ唯一のFRマシンは“時代の徒花”的に捉えられることもあるが、トヨタにとってはその後の活動に大きくつながるエポックメイキングな1台だったと言っていいだろう。

 JTCC初年度、トヨタがシリーズに持ち込んだのはトムスGBが開発し、すでにBTCCで実績を積んでいたコロナ。翌年からはトヨタ・モータースポーツ部とトムスの手によってエクシヴが開発された。

 そして3代目のトヨタ主戦車両として設計・開発が進められたのがFRのチェイサーだった(一説には、チェイサーの次に小型FRのアルテッツァを投入することが検討されていたとも言われているが、シリーズの終焉により実現することはなかった)。

 そのチェイサーがデビューした1997年からトヨタ・モータースポーツ部でJTCCを担当した柘植和廣は車種選定にあたってBMWを意識していたと言う。

「JTCCはフロントとリヤのタイヤが同サイズに規定されていたんですが、そのタイヤを100%使うならFRの方がいいのでは、という意見が出たんです。FFの場合は駆動と転舵すべてをフロントタイヤが受けもつことになりますから、フロントばかりを酷使することになる」

「その点FRのBMWはタイヤを4輪ともうまく使えているし、やっぱりFRかなと。(中略)マークII3兄弟(マークII/チェイサー/クレスタ)のなかでチェイサーを選んだのはイメージが一番スポーティだったからです」

 同じような意見はチームのなかでも出始めていたと、当時若手エンジニアとしてJTCCを担当していたトムスの東條力エンジニアも振り返る。

「僕らはずっとFFでやっていましたが、ほかを見ているとBMWが結構良かったんですよね。だから“やっぱりレーシングカーはFRだよね”って。まずボディをトヨタに出してもらって、トムスで最初の設計をしました」

「そこからロールケージを解析してもらって。足回りとかはトムスで最初に設計をしました。FRということで前後ともダブルウイッシュボーンを採用できましたし、とにかくトラクションとスタートは良かったです。(中略)タイヤが4輪ともに仕事をしてくれる分、エクシヴと比べて一段階ソフト目のタイヤを選択できましたね」

■FRのチェイサーから学んだことが、今のレーシングカーにも生きている
(中略)

 ところがチェイサーがデビューした1997年、JTCCは世界共通ルールから一歩離れ、国内独自ルールを設ける。その結果としてオーバーフェンダーの装着が認可され、リヤウイングの大型化も認められることとなった。これも空力開発という面でトヨタやTRDのノウハウ蓄積に役立ったと柘植は言う。

「空力開発に関しては我々モータースポーツ部にも担当がひとりいて、TRDのエンジニアといろいろやっていましたね。まだまだ十分なノウハウがトヨタにもTRDにもなかった頃なので、様々な手作りパーツを試していましたよ」

「何かが分かるとさらに面白くなって、またいろいろ開発するという具合。当時はトヨタにとってJTCCのプライオリティが一番高くて好きなことができるから、エンジニアは楽しくてしょうがなかったと思いますよ」

(中略)

 そうして迎えた2年目、チェイサーも大きな飛躍を見せると思われていたが、ホンダと日産が1997年いっぱいでJTCCから撤退。同年は開幕当初からメーカー間の争いが加熱し過ぎてキナ臭い空気がパドックに漂っていたのだが、最後は空中分解といってもいいような最悪の結果となった。

 そのため、トヨタとしてもJTCCにリソースや予算を割く意味が失われ、開発計画が停止。1998年に向けて改良する予定だったアイデアはすべて雲散霧消するかたちとなり、活動の軸足は全日本GT選手権(JGTC)へと移っていく。

 結局JTCC自体も1998年には終わり、チェイサーはたった2年で姿を消した。だがシリーズ消滅後、トヨタとTRDは残されたチェイサーをテストで走らせたと柘植は言う。

「クルマの基礎研究みたいなことを研究所のコースや十勝でやっていたんですよ。重心を下げるとどれぐらいパフォーマンスが上がるのかとか、重い状態でバラストを順にズラしていくとどうなるかとか、重量配分を変えるとどうなるかなど、チェイサーを使って我々とTRDとで一緒にレーシングカーの特性を学んだのです」

「JTCCまではレースに対するノウハウって、TRDよりもチームの方が上だったんです。その後、GTではチームからのアイデアや意見を吸い上げてTRDが開発をするスタイルを採っていますが、そういうムードになったのはJTCCあってこそ」

「また、チェイサーがFRだったことで、トランスミッションの考え方とかカーボン製のプロペラシャフトに出た問題とか、GTのスープラにはそのノウハウも活きました。JTCCから学んだことが、今のレーシングカーにもつながっているんです」
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 この他、カストロール無限シビック・フェリオのマシンギャラリーやニッサン・プリメーラなどのマシン開発秘話、実現するとは思えなかった中子修と本山哲の対談など、多くのJTCCについてを特集しているレーシングオンNo.506は全国書店、オンラインで発売中だ。三栄オンラインでの購入はこちら(https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=11359)まで。

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