F1日本GP、数々の名勝負を生んだグランプリの歴史と名場面

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2020年06月12日 17:31  AUTOSPORT web

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1988年F1日本GP 『セナ・プロ対決』を繰り広げたマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナ&アラン・プロスト
6月12日(金)、2020年シーズンの第18戦として予定されていたF1日本GPの中止が発表された。10年間の空白期間を経て、1987年から続いていた国内での開催が一度途絶えることになった。ここでは改めて、F1日本GPの歴史を簡単に振り返りたい。

 日本GPは、1976年で一旦中断し、その中断期間を挟みつつ富士スピードウェイと鈴鹿サーキットの2カ所で開催されてきた。今回はF1が『F1世界選手権イン・ジャパン』として日本にやってきた1976年から、2019年までの近年の日本GPを紹介する。セナ・プロ対決や鈴木亜久里と小林可夢偉の表彰台獲得、さらには台風によるワンデー開催などさまざまな出来事が起きた日本GPを改めて振り返る。

■『F1世界選手権イン・ジャパン』〜富士スピードウェイでの開催
 初めて日本でF1が開催されたのは、1976年のこと。当時は全日本F2000選手権の最終戦が『日本グランプリ』という名称で開催することが決まっていたため、F1は『F1世界選手権イン・ジャパン』という名前で富士スピードウェイにて開催された。

 翌1977年からはF1が『日本グランプリ』の名称を使用するようになった。10年間の中断期間を挟んで1987年からは鈴鹿サーキットでの開催となり、大会名称も『フジテレビジョン 日本グランプリ』に変更。ホームストレートのシグナルの上や、表彰台の背景に冠スポンサーを務めるフジテレビのロゴがあったことを覚えている方も多いだろう。フジテレビのスポンサーはその後、2009年まで続いた。

 そして1988年、1989年、1990年の3年間は、マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナとアラン・プロストによる『セナ・プロ対決』が繰り広げられた。1988年にはセナが初タイトルを獲得、1989年はセナが失格となり、プロストが3度目のチャンピオンに輝いた。

 1990年は接触によりセナとプロストの両者がリタイアとなった。その一方でラルースを駆る鈴木亜久里が3位に入賞し、日本人ドライバーとして初めて表彰台に。中嶋悟も6位に入賞し、セナ・プロ対決と日本人ドライバーの活躍が相まって大いに盛り上がりを見せた。

 1998年にはマクラーレンのミカ・ハッキネンが優勝を決め、自身初となるタイトルを獲得。同時にブリヂストンタイヤを使用するドライバーとして、初めてのチャンピオンを獲得。

 2000年には3年連続のチャンピオンを目指すハッキネンをフェラーリのミハエル・シューマッハーが下し、フェラーリ移籍後初めてのタイトルを鈴鹿で獲得。シューマッハーは鈴鹿で通算6度の優勝を挙げている。

 そして2002年には佐藤琢磨がF1にデビュー。日本GPでは自身初入賞となる5位に入賞すると、2003年には代役参戦ながらも6位に入賞した。2004年はグランプリ期間中に台風に見舞われ、日曜日に予選と決勝レースを開催するワンデー開催に。F1史上初めての出来事だったが、琢磨はここでも予選4番手、決勝レースでも4位に入るという好成績を収めた。

 2006年には鈴木亜久里が監督&オーナーを務めるスーパーアグリがF1にデビュー。ホンダエンジンを搭載し、タイヤはブリヂストン、ドライバーは佐藤琢磨と井出有治というふたりの日本人ドライバーを擁した。

 一方、鈴鹿での日本GP開催は2006年で一度途切れることになる。2007年と2008年には大幅なコース改修を終えた富士スピードウェイでの開催となり、大雨のなか行われた2007年はルイス・ハミルトン(当時マクラーレン)が、2008年は逆転でフェルナンド・アロンソが勝利を収めた。

■小林可夢偉の表彰台獲得、ホンダF1第4期

 2009年より再び鈴鹿での開催となる。この年初めて鈴鹿を走ったセバスチャン・ベッテル(当時レッドブル)が優勝を飾ると、翌2010年もベッテルが勝利。鈴鹿を得意とするベッテルはこれまでに歴代3位となる日本GP通算4勝を挙げており、昨年は予選でコースレコードも更新している。

 また2010年も悪天候によりワンデー開催だった。この年はザウバーからF1にフル参戦した小林可夢偉がヘアピンで5度もオーバーテイクを披露。7位に入賞する活躍を見せた。

 2011年は東日本大震災の影響により開催への不安もあったが、予定通りに日本GPを開催。エクレストンがチケット1500組3,000枚を用意して被災者を招待したり、ドライバーやチームによる日本への支援のメッセージも多く見られた。

 2012年は予選3番手を獲得したマクラーレンのジェンソン・バトンがペナルティを受けて、可夢偉が日本人最上位となる3番グリッドからレースをスタート。決勝レースでは可夢偉がバトンの猛追を抑え、3位に入賞した。表彰式前の『可夢偉コール』を覚えている方も多いだろう。日本人の表彰台獲得は鈴木亜久里、佐藤琢磨に続く3人目だった。

 2014年にパワーユニットが導入されて以降の日本GPでは、すべてメルセデスが勝利を収めている(ハミルトン4勝、ニコ・ロズベルグとバルテリ・ボッタスがそれぞれ1勝ずつ)。昨年は上述の通りベッテルがポールポジションを獲得したものの、好スタートを決めたボッタスが勝利。優勝争いを期待されたレッドブル・ホンダのマックス・フェルスタッペンも、スタート直後の接触によりリタイアとなった。

 2015年よりF1に復帰したホンダは、2017年までは苦戦が続いた。トロロッソと組んだ2018年は予選でブレンドン・ハートレーが6番手、ピエール・ガスリーが7番手に並ぶも、決勝はガスリーが11位、ハートレーが13位と惜しくも入賞を逃す結果に。2019年はフェルスタッペンがリタイアの一方でアレクサンダー・アルボンが4位に入賞し、鈴鹿での表彰台獲得まであと一歩のところにまで迫っていた。

 2020年はレッドブルとホンダがコンビを組んで2年目。当然2019年以上の結果を出すことを目標としており、鈴鹿での活躍、そしてタイトル争いも視野に入れていたことだろう。またトロロッソから名称を変更したアルファタウリも、3シーズン目を迎える今年は接戦の中団勢のなかでさらなる飛躍が期待されていた。

 ホンダF1への期待も大きく、また1987年から続く日本GPが途絶えてしまうのは非常に残念だが、鈴鹿サーキット側やF1の判断を尊重し、2021年の開催を待ちたいところだ。

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