村上春樹原作・韓国映画『バーニング 劇場版』、『パラサイト』につながる“ヒエラルキー”と“分断”の闇

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2020年06月12日 22:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『バーニング 劇場版』

 『万引き家族』(是枝裕和監督、2018)が最高賞パルム・ドールを受賞し、日本中が盛り上がりを見せた2018年のカンヌ国際映画祭。コンペティションのラインナップには、1本の韓国映画も名を連ねていた。イ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』である。イ監督は本作が8年ぶりの新作ということで、近年の韓国映画ファンにはなじみが薄い名前かもしれないが、ある男の死から時間をさかのぼって光州事件のトラウマまでたどり着く『ペパーミントキャンディ』(1999)、出所したばかりのチンピラと脳性マヒの女性の恋愛を描く『オアシス』(02)、娘を誘拐された母親の精神とカトリシズムの問題に切り込んだ『シークレット・サンシャイン』(07)などで数々の賞を受賞している、韓国を代表する映画作家である。

 『バーニング 劇場版』もカンヌで国際映画批評家連盟賞を受賞するなど高く評価されたが、それ以上に話題を集めたのが、村上春樹の短編『納屋を焼く』を原作にしていたことであった。世界的な人気作家であり、韓国でも老若男女を問わず幅広いファンを持つ村上の小説を、イ・チャンドンはどのように映画化するのか? 2人の巨匠の出会いがどんな化学反応を生むのかと、韓国メディアも製作当初から注目していた。

 今回のコラムでは、韓国における村上人気を紹介しつつ、原作と映画の違いに焦点を当てて、映画が目指した表現を探ってみたい。

 村上作品が初めて韓国に紹介されたのは、『ノルウェイの森(노르웨이의 숲)』が翻訳出版された1988年のことだった。実際この作品が国内外における村上の出世作となったわけだが、実は韓国では売れ行きが悪く、これといった反応も得られていなかった。タイトルの元になっているビートルズの同名曲が韓国では長年発売禁止曲だったため知名度が低く、「実際にノルウェイにある森についての本」だと誤解されてしまったため、このままでは作品の素晴らしさが葬られてしまうと判断した出版社は、間もなく『상실의 시대(喪失の時代)』と題名を変えて再出版に踏み切った。すると今度はたちまちベストセラーとなり、村上の名は一気に韓国中に知れ渡るようになったのである。

 その後の展開はもはや言わずもがなであろう。ファンが爆発的に増え、過去作品の翻訳出版が相次ぐ中、当時の若者に支持されていたアーティスト、イ・ソラが自身のテレビ番組で「村上春樹にハマっている」と発言し大反響を呼んだというエピソードが示すように、とりわけ『喪失の時代』は、若者たちの間で「洗練された文化アイコン」となり、「読まなければ話が通じない」と言われるほどの社会現象になった。

 こうした「春樹ブーム」は90年代を通して冷めることなく続き、しまいには韓国の若手作家たちの「盗作疑惑」まで持ち上がった。本人たちは、盗作ではないものの、村上独特の文体やスタイル、雰囲気といったものに多大な影響を受けたと認めた。いずれにせよ村上は、読者のみならず同時代の作家にも新しいスタイルをもたらし、村上からの影響を公言する作家の中には、映画化もされた『영원한 제국(永遠なる帝国)』のイ・インファらがいる。

 1980年代末に、最後の軍事政権である盧泰愚(ノ・テウ)政権から民主化の「約束」を勝ち取った韓国では、90年代初頭、軍事政権という目の前の「敵」が消え、学生運動は壮絶な宴の後の虚脱感、喪失感に包まれていった。そんな中で登場したのが、80年代の「闘いの世代」とは一線を画す、90年代の「新世代」と呼ばれる若者たちである。この世代の一番の特徴は「イデオロギーより私が大事」という個人的志向が強いことであった。80年代、国家との闘いに身を投じてきた世代が「個としての自分」を省察する余裕を持たなかったのに対し、90年代の新世代にとっては、内面の葛藤や人間関係などの私的領域が生活の中心となった。

 こうして80年代の闘いの世代は「喪失感」を、90年代の新世代は「個としての自分」と向き合っていたところに、『喪失の時代』が登場したのである。韓国での“春樹ブーム”の背景には、「この喪失の時代をどう生きるべきか」を提示してくれる作家の存在を必要としていた時代の変化と、それに伴う新たな価値観の模索があったといえるだろう。

 このように、“春樹ブーム”といっても韓国には韓国ならではの文脈があったわけなのだが、ではイ・チャンドン監督は村上の原作を、どのように韓国の文脈に置き換えて映画化したのだろうか? まずはあらすじから見てみよう。

≪物語≫
 作家を夢見るジョンス(ユ・アイン)は、宅配のアルバイトの途中で幼なじみの女性ヘミ(チョン・ジョンソ)と偶然再会する。まもなくヘミは、旅行中の猫の世話をジョンスに頼んでアフリカへと旅立つ。帰国すると、現地で出会った男性ベン(スティーブン・ユァン)をジョンスに紹介する。金持ちだが素性のわからないベンと付き合う中で、ジョンスはベンからビニールハウスを焼く趣味があること、そして近日中にジョンスの家の近くのビニールハウスを焼くつもりであることを聞く。近所のビニールハウスを調べるジョンスは、同じ頃、突然姿を消したヘミを探すうちに、ベンに対する疑念を募らせていく。

 人物構成や、納屋(ビニールハウス)を焼くというモチーフは生かしつつ、サスペンス的な要素をふんだんに取り入れて、原作にはない「謎(犯人)の解明」という面白さも追求した本作だが、それだけで終わらせないのがイ・チャンドンのすごさである。監督自身が言及しているように、現在の韓国の若者たちが抱える無力感や怒りが、本作の物語展開に大きく関わっているのだ。では、「韓国の若者たちが抱える現実」とは一体どのようなものだろうか? 映画に描かれている2つのメタファーからそれを探ってみよう。

 ひとつは「名前」である。原作では登場人物はすべて「私」「彼女」「彼」という代名詞で書かれ、名前を持っていない。それに対して映画では「ジョンス」「ヘミ」「ベン」という名前が与えられている。短編小説と長編映画の違いを考えると当たり前かもしれないが、この「名前を与える」ことこそが、物語の展開において非常に重要なメタファーとなるのである。

 原作は名前がないゆえに、世界中の誰もがそれぞれの生活や環境に合わせて、物語を解釈できる。つまり原作が普遍性を獲得しているのに対して、映画では具体的な名前を与えることで「韓国」という文脈を付与している。そして、「ジョンス」「ヘミ」というありふれた名前と、「ベン」との間には、決定的な格差が横たわっている。

 日本人にもすぐにわかるように、「ベン」はいわゆる韓国人の名前ではなく、英語では「Ben」とつづられる外国人の名前である。つまり、得体の知れない不思議な男「ベン」は、在米韓国人(または帰国者)と推測できる。

 韓国には、今に至るまで、「在米韓国人」への憧れが根強く残っている。実際に成功したかは別として、韓国人にとっては「アメリカン・ドリーム」を叶えた成功者そのものなのだ。数多くのドラマや映画で「在米韓国人」は、おしゃれで金持ちで社会的地位の高いキャラクターとして描かれてきた。高級マンションに住んで高級外車を乗り回し、パーティと大麻の日常を送る「ベン」もまた例外ではない。「ベン」と名付けることで、彼について多くを語らずとも、韓国社会に根強く残る「羨望の眼差しを向けられる在米韓国人」のイメージを植え付けることができる。

 そんな「ベン」と、大学は出たものの就職もできず、小説も書けず、アルバイトをしながらトラブルメーカーである父親の裁判を見守る「ジョンス」との間には、到底乗り越えられない「格差」が存在している。それは、借金返済のために安っぽいダンサーのバイトをしながら空虚な日常を送る「ヘミ」(その空虚さは、彼女が習っているというパントマイムに象徴される)も同様だ。

 近頃、韓国の若者の間では、「금수저(クムスジョ=金のスプーン」「흙수저(フクスジョ=土のスプーン)」という言葉がはやっている。それぞれ「金持ち」と「貧乏人」を意味し、経済的に困窮している若者たちが自嘲的に使うものだ。“高嶺の花”である「クムスジョ」=ベンと、ご飯すらろくに食べられない「フクスジョ」=ジョンス。若者の失業率が最悪な状況に陥っている今の韓国社会には、「ベン」よりも「ジョンス」や「ヘミ」が圧倒的に多いのは言うまでもない。

 本作には「ベン」という象徴的な名前が入ることで、3人の登場人物の間に明確なヒエラルキーが生まれ、原作には描かれなかった「名前」が、多くを語るメタファーとなっているのだ。

 もうひとつのメタファーは「分断」である。ジョンスの実家があるパジュは、北朝鮮との境界である38度線に最も近い田舎町だ。この町では、北朝鮮からの「対韓国宣伝放送」が日常的に響きわたり、「分断」という現実が生々しく迫ってくる。パジュの町が自由に行き来できない南北の断絶を表しているように、前述した3人の間のヒエラルキーが、決して乗り越えられない「分断」によって断絶していることを隠喩する。

 宣伝放送を聞いてひとごとのように「面白い」というベン、「この世の果てのアフリカで感じた」絶望感を韓国の果てであるパジュで思い出したかのように、上半身裸になってグレイト・ハンガー(生きる意味に飢えている人)のダンスを踊るヘミ、そんなヘミの内面には気づかずに「(男の前で裸になるなんて)売春婦のようだ」と怒るジョンスの間の「分断」は、歴然としている。それ以上進むことのできない「境界線」という意味では、パジュという街はどこにも行き場のない、追い詰められたジョンスの立ち位置を象徴しているともいえるだろう。追い詰められているジョンスに、ヘミの内面まで見てくれる余裕などないのだ。

 そんな分断の空間では、言葉も断絶される。相手の発する言葉の意味合いが伝わらないのだ。本作を本格的なサスペンスへ導く言葉「ビニールハウス」は、断絶のメタファーでもある。同じ「ビニールハウス」という言葉でも、ベンの言うそれと、ジョンスの捉えるそれにズレが生じることで、分断・断絶の意味合いはさらに強まることになる(まるで延々とズレるばかりの南北会談のように)。

 ヘミとベンがジョンスの家に遊びに来た際に、ベンが語った「ビニールハウス」は、最初から意味深なニュアンスを含んでいたが、文字通りに受け取ったジョンスは、そのズレのために大切なもの(ヘミ)を失い、無力感からやがて強い怒りへと突き動かされていく。

 同じ言葉に対する意味合いのズレがもたらす分断は、韓国社会に度々見られるものである。つい最近大きな関心を集めている、慰安婦支援団体をめぐる問題がいい例だ(※)。彼らは30年以上にわたって一緒に闘ってきた「同志」にもかかわらず、それぞれの名分と利害にズレが生じていたために、知らず知らずのうちに分断が生まれ、醜い暴露合戦に至ってしまった。「慰安婦」問題の解決というひとつの指標を共有していたはずなのに、些細な意味合いのズレがやがて大きな断絶となり、彼らは大事なものを失ってしまったように見える。

 映画のラストに描かれる、ベンに対するジョンスの復讐(それが現実でも想像でも)は、社会的格差と階層間の分断が生み出す無力感と怒りが、「象徴的な暴力」となって表現されたと言ってよいだろう。昨年のカンヌ、今年のアカデミー賞で大きな話題をさらった韓国映画『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督)の結末にも共通するこの描写は、現在の韓国社会において、格差と分断の問題がそれほど深刻であることを物語っている。焼かれるべきは「ビニールハウス」ではなく、「格差」や「分断」かもしれない。

※日本軍「慰安婦」だった李容洙氏が2020年5月に会見を開き、30年間共に活動してきた「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」の前代表・尹美香氏に対し、寄付金の使途の透明性や、活動の在り方などの問題を提起。その後も、互いの主張が平行線をたどったり、保守派・進歩派それぞれのメディアや論客が“場外”から参戦するなど、大きな騒動となっている。

『バーニング 劇場版』
Blu-ray、DVD発売中
販売・発売元:ツイン

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

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