韓国ドラマ『愛の不時着』、30代女性が「リ・ジョンヒョクになりたい!」ワケ――周囲に大笑いされた“欲望”とは?

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2020年08月28日 23:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

 今年2月からNetflixで配信されている、韓国の人気ドラマ『愛の不時着』。日本でも大ヒットし、タレントの笑福亭鶴瓶や黒柳徹子、藤田ニコルら多数の著名人が「ハマった」ことを公言している。そんなドラマの魅力は、一体どこにあるのだろうか? ジェンダーやエンターテインメントに詳しい加藤藍子氏に、“恋愛”だけではない本作の魅力について寄稿していただいた。

【※以下、ネタバレを含みます※】

 韓国ドラマ『愛の不時着』ブームが止まらない。2020年2月後半にNetflixで配信開始以来、総合トップ10入りを保持。全話鑑賞したファンは「不時着ロス」を避けるべく周回視聴を続け、7月に入っても、Twitterの鑑賞実況用ハッシュタグがトレンド入りすることもあったほどだ。なぜこんなに、熱狂するのか。

 物語は、韓国の財閥令嬢で、企業経営者でもあるヒロインのユン・セリが、パラグライダー飛行中に竜巻に巻き込まれ、あろうことか38度線を越えて北朝鮮に不時着してしまうところから始まる。そこで出会うのが、北朝鮮のエリート将校リ・ジョンヒョクだ。

 「北」には、少なくともこのフィクションで描かれている限りでは、法治という概念が存在しない。当局に見つかれば、速攻で殺されるかもしれない極限状態の中、リ・ジョンヒョクはユン・セリをかくまい、あの手この手で南への帰還を助ける。その過程で2人の間に愛が芽生えるという、設定は斬新だが、「胸キュン」の王道はがっちりとつかんだラブストーリーだ。

『愛の不時着』は男女の役割が逆転するから“胸キュン”ではない!

 このドラマについてのレビューや評論では、女性のために粉からこねた麺で料理をつくったり、コーヒーを淹れたりするリ・ジョンヒョクの振る舞いが度々注目され、「性別役割分業が逆転している描写が素晴らしい」とされているのを見かける。それはそうだが、私たちは「性別役割分業が逆転すれば、胸キュンする」というわけではない。

 見始めるやいなや熱狂した一人である私の中には、別の強い感情が湧いた。大切にされるだけじゃ、我慢できない。私はリ・ジョンヒョクになりたい、と。それは彼の存在が、「男だから/男なのに」というラベルを剥がしても成立する魅力を持っていたからではないか。

「リ・ジョンヒョクが、完璧すぎますよね。まあ、あんな王子様、現実にはなかなか存在しないですけど!」

 コロナ禍の緊急事態宣言が解除された6月、久しぶりに髪を切りに出かけたら、私と同い年の美容師さんが興奮気味に話を振ってきた。もはや、珍しいことではない。外へ出かけると、しょっちゅう「不時着見た?」という会話が聞こえてくる。カフェで隣席に座っている男性が、友人とみられる女性に、大げさな身振りで「リ・ジョンヒョク名場面」を再現しているのも見かけた。このドラマの最高なところはたくさんあるのだが、そんな「不時着済み」の人たちの間で「これはまあ、言うまでもなく前提なんだけど……」という共通認識になっているのが「リ・ジョンヒョクが最高にかっこいい」という真実だ。

 そのリ・ジョンヒョクに、私がなりたい、と思ってしまう――。この欲望を周囲に打ち明けると、大笑いされることが多い。無理もない。私は腕っぷしにも体力にも不安のある、気は強いが一見おとなしそうな30代女性だ。一方のリ・ジョンヒョクは、軍人らしい堂々たる肩幅。ネタバレになるが、ユン・セリを守るために銃弾を受け、どうにか一命を取り留めて間もない重傷状態にあってなお、数人の敵を一人でなぎ倒せるレベルの戦闘力がある。軟弱そうな女が、頑強な完璧男を目指すと豪語する。そのギャップが笑いを誘うのだろう。

 でも、違うのだ。私は決してマッチョになりたいんじゃない。美容師さんが「王子様」と表現したときに、もしかしたら彼女も潜在的に求めていたかもしれない、男とか女とかを超越した存在に、憧れるのである。

 ところで「王子様」とは何か。「私を選び、幸せにしてくれる男性」というイメージが一般的だろう。しかし、私たちが王子様にどうしたって憧れてしまうのは、そんな表面的な理由からではないだろう。王子様とは、ありのままの自分を愛し、守ってくれる他者の象徴とみることだってできる。

 おとぎ話は、しばしば世界の本質を突いている。この世は、例えば『シンデレラ』のように、ただ善く生きたいだけなのに虐げられることがある。あらぬ方向から憎しみを受けて、気が付いたら茨の城に仮死状態で閉じ込められる『眠れる森の美女』的な状況に追い込まれることもある。こうした理不尽な苦しみに、一人で抗うことは難しい。でも、損得勘定なしに「この私」を全力で肯定し、解放してくれる誰かが傍らにいてくれたら、立ち向かうことができる。自分一人ではどうにもならない状況に囚われた者を解放するのが「王子様」なら、私たちが「白馬の王子様」を待たない理由なんてない。それに、女が「王子様」になることだって、男が「お姫様」になることだって、あっていい。

 リ・ジョンヒョクは、その意味での「王子様」なのだ。象徴的な場面がある。

 ユン・セリは、社会的地位や事業の成功には恵まれているが、親やきょうだいとの関係は崩壊している。あるがままの自分を受け入れてもらえる居場所を持たない序盤の彼女は、孤独な城の中に自らを幽閉したお姫様のようにも私には映る。

 そんな彼女は、北朝鮮での不自由極まりないはずの生活の中で、「生きることが楽しいという感覚」を取り戻す。リ・ジョンヒョクや、彼に忠実で心優しい隊員たちと出会い、食卓を共にし、あわやというピンチも、皆で知恵や力を出し合うことで何度でも乗り越えた。不自由なはずの環境で、精神的には自由を得たのだ。

 だが、38度線に隔てられている彼らにはやがて別れが訪れることが決まっている。また元の生活に戻るユン・セリに向かって、リ・ジョンヒョクは、こんな言葉をかける。

「孤独にはなるな」「そばにいなくても、君が寂しくないように――いつも思ってる」

 日々を豊かに過ごすうちに「僕のことは忘れても構わない」とまで言い切る。これは、彼女を所有しようとするのではない、ただ“孤立の檻”から解き放ってやりたいという願いを言葉にした、彼の真骨頂だと私は思った。 

 この世界は、自らが望むか望まざるかにかかわらず、孤立状態に追い込まれがちだ。他人と親密な関係を築くことは一般的に好ましいこととされるが、現実はそう簡単ではないからだ。他者と共に生きようとすれば、一人でいれば無縁だった悩みも抱えることになる。生じた摩擦が、耐えがたいほどの痛みをもたらすこともある。金、権力、知性に恵まれたユン・セリなら、一人ぼっちでも取れる選択肢は多い。本当は孤立したかったわけではないが、ある種合理的な判断でもあったのだろう。そんな彼女に、心に他者を住まわせることの豊かさを思い出させたのはリ・ジョンヒョクだった。

 一方、物語が中盤に差し掛かってくると、今度はユン・セリのほうがまるで王子様のように、リ・ジョンヒョクの心を自由にしたり、危険から守ったりする描写も増えてくる。リ・ジョンヒョクもまた、“孤立の檻”に自分を閉じ込めていたからだ。

 彼は尊敬する兄をある「事故」で失った過去を持つ。しかし、その「事故」とされた悲劇の背後には、祖国の暗殺部隊の影が見え隠れする。愛する者の耐え難い死を経験したリ・ジョンヒョクは、彼が劇中で回想する通り「未来を夢見ることをやめ、誰も愛さなかった」のだ。ユン・セリが彼の世界に、不時着するまでは。

どうして私はリ・ジョンヒョクになりたいのか?

 男女のロマンチックラブストーリーといえば、主役カップルの恋模様に焦点が集中していくものだが、このドラマでは「恋愛」だけでなく、2人が心を開いてこそ見えてくる周囲の人々との間の多様な愛も、魅力的に描かれる。分断ばかりが目につく時代に愛の力を肯定する、心温まるドラマだろう。

 そんなドラマに登場するリ・ジョンヒョクに対して「憧れ」の気持ちが生まれるのは、少なくとも私にとっては、彼が女性の求めるタイミングで颯爽と助けにきてくれるからでも、かいがいしく麺をゆでるスキルを持っているからでもない。

 当たり前に異なる他者同士であるリ・ジョンヒョクとユン・セリが出会い、互いの心を解放し合う。王子様とお姫様を軽やかに行き来しながら、男だとか女だとかいうラベルは、もはや意に介すそぶりもない。力を合わせて困難を乗り越えながら、「生きている実感」を確かなものにしていく2人の姿が、ただカッコよくて美しいのだ。

 だから私は、リ・ジョンヒョクみたいに誰かの心を解放するような「王子様」になりたい。この決意を新たにするために、何周目か分からない視聴を今後も続けるだろう。

■加藤藍子(かとう・あいこ)
1984年生まれ、フリーランスの編集者・ライター。 慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、全国紙の新聞記者、 出版社などを経て独立。働き方、ジェンダー、アート、 エンターテインメントなど幅広い分野で取材・随筆を行う。

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