【哀悼掲載】斎藤洋介さん、複雑な家庭環境で育つも最期まで注ぎ続けた「母への愛」

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2020年09月20日 11:30  週刊女性PRIME

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写真斎藤洋介さん('19年2月)
斎藤洋介さん('19年2月)

 斎藤洋介さんが、9月19日に亡くなった。週刊女性2009年11月17日号の連載『忘れられない 母の味』でのインタビュー記事を再掲する(以下、本文は掲載当時のまま)。

  ◆   ◆   ◆  

 “いい男”だった父に惚れていたんだろうという。食事は1品多く作ってあげ、しかも酒の肴料理ばかり。少年は大人の恋模様を垣間見てしまったーー!?

 僕が中学2年生のときでした。電気炊飯器はどこの家庭でも常備された時代なんですけど。うちの母親は炊き込みご飯を作るときだけは、釜を使ってたんです。シメジ、銀杏、鶏肉……。

 ある日、母親が炊き込みご飯を作っていまして。釜からご飯を出して、蒸らしているんですけど。ポロポロを涙を流しながら、かき回しているんですよ。

「なに、泣いてんだよ」

 そしたら、半べそかきながら、

「焦げちゃったぁ……」

 反抗期だったこともあって、

「うっせぇなあ、おめぇ。そんなことぐらいで、ポロポロ泣いてるんじゃねぇ!」

 で、バーっと2階に上がっちゃって(半笑い)。

 今思うと、かわいそうなことしたなぁ、と思うんですけど。それが、未だに強烈に印象に残ってて。きっと、父親に惚れてたんですねぇ。

お父さんに惚れ込んでいた母

 母親は、明治生まれです。

 父親より年が上だったんですけど。酔っ払って深夜近くにしか帰ってこないのに、食事の用意をして、ずっと待っているんです。ひどい時には、何時に帰るかわからない父親のために、食事が始まらない時がありましたから。

 あれだけ酒を飲んで帰ってきても、家で晩酌をするんです。父親だけ、ちゃんと酒のつまみ用に1品余分に作ってまして。子ども心に、(なんか不公平だな)と。

 父親が、ちょっと目を離したスキに、残ってた酒をグッと飲む。いまやっと自分が飲むようになるとわかるんですが。あと残り少ない酒を大事に飲みたいんですね(笑い)。

 母親は、僕が盗み酒をしているその姿を見ると、叱るんですよ。「お父さんが、大事に残しているのを……」って。

 子どもが喜ぶようなご飯のおかずって、あまり、なかったんですねぇ。小さいころから煮物とか煮魚とか。そんなのがずーっと続くと、さすがにヤになっちゃって。ご飯にソースとかかけて、ご飯だけ食べるときもありました。

 今思えば、決して料理の腕がまずかったんではなくて。あまりにも大人の、酒の肴の料理ばっかりが、ご飯のおかずになっちゃうので……。

 父親は満足なわけですよ。煮魚を食べちゃった後に、お湯を入れて、スープをとったり。味噌汁も、ナスかなんか入れてあって。ナスの入った味噌汁って、大嫌いなんですよ。なんかスカスカして。でも母親は、

「お父さんが、好きだっていうから」

イケメン僧侶にいそいそと

 母は、ひと言で言えば男好き、かもしれませんねぇ。毎日、托鉢の、顔立ちのきれいなお坊さんが見えるんですよ。チリン、チリンと音がすると、もう、いそいそと、財布から小銭を出して。パーッと渡しに行く。戻ってきてから、「いい男なんだわぁ」って。

 父親は、戦前は士官学校を出て、少尉までなった軍人だったんです。戦後は、不動産業をやっていました。これまた、いい男なんですよ。母親の方ほうが、惚れたんだと思います。

 僕には、姉2人と、兄2人がいるんです。父親の実子というのは、僕だけなんです。

 それと、顔も見たことない妹がひとり。この妹は、父親が外でつくった子なんですね。ある日、父親が、告白しちゃったんですよ。夫婦ゲンカをしているのを見ました。

 中学に上がるか上がらないかのころでしたね。

「洋ちゃん、離婚したら、どっちについていく?」

 って聞かれて。

「お母さんについていったって、お金がないし。お父さんは、お金があるから。お父さんについていく」

 といったら、ポロポロ……。

 大学は東京に出たんですけど。家から少しでも離れたい、というだけのことで。母親は、誰かまわず、グチをいうわけですよ。

 年端もいかない息子をつかまえて、父親の浮気のグチをいわれても。こっちは、困っちゃって。自分さえ楽になれば、人のことなんて考えないところがあったかなぁ……。

「洋ちゃんに面倒看てもらいたい」

 享年は、80歳になる年だったんですかねぇ。僕が、34〜35歳のころでした。寝たきりになりまして。僕は仕事がないと名古屋に帰って。付き添って、身体を拭いてあげたりしてましたね。

 家内も、手があけば、子どもたちを連れて、面倒を看てくれました。ただ母は病院で「お父さんは、付き添うとすぐ眠っちゃって。いびきが大きいし。お兄ちゃんは、気がきかないからヤだ」なんていっていて。

 最後は、言葉がしゃべれないで、ずっと筆談だったんですけど、「洋ちゃんに面倒看てもらいたい」と。

 歯も不自由だったんです。「落花生が、食べたいわぁ」。しょうがないから、すり鉢で、すり潰して、粉状にして食べさせてあげたりしました。

 母親が亡くなってから、「洋介、目玉焼きって、どう作ればいいんだ?」って、父親から電話がかかってきたことが。

 軍隊教育を受けていますから。「男子たるもの、いつ戦場に行くかわからない。すべてのことをできるようにしておけ」。ですから、アイロンがけに始まり、けっこう厨房にも入ってて。伊勢えび、活魚なんかは豪快に料理する人でしたけど。日常の料理を作ったことがなかったんです。

 その時、あぁ、本当に母親が実家からいなくなったんだな、と思いましたね。

母・てるさんの一生を振り返る

 自由だったんじゃないですか。子どもがいるにもかかわらず、その方と離婚し、うちの父親と一緒になって。最初は、いちばん下の子が、まだ赤ん坊だったので、その子だけを連れて逃げてきて。ほかの兄弟も家にいるのがイヤだというので、うちの父親を頼って名古屋に来て……。

 兄弟からは、「あんたのお父さんは、お母さんを奪った男だ」っていわれたことがありました。小さいころは、意味がわからなくて。

“あんたのお父さん”って。あんたのお父さんと違うの?」って。

 そういう母親の姿が、すごくイヤだなと思う、思春期の時期もありましたけど。今振り返れば、あぁ、あの人は、本当に自由に、好きなように人生を全うしたんだ。幸せだったっていう気がしますね。

(取材・文/鳥巣清典)

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