落語界の「爆笑王」柳家権太楼、コロナ禍のありえない“恐怖体験”と思い描く『最期』

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2020年11月20日 08:00  週刊女性PRIME

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池袋演芸場前にて笑顔を見せる柳家権太楼

 現在の落語界において「爆笑王」といえば、柳家権太楼を置いてほかにない。彼が出てきて愛嬌たっぷりの笑顔を見せたとたん、客は引き込まれてしまう。噺(はなし)を始めると、権太楼の発する言葉から、こちらの頭の中にものの見事に絵が浮かぶ。噺家と客席が一体となる楽しさがある。そして、身体全体を動かしての渾身の落語に、爆笑に次ぐ爆笑が起こる。

コロナ禍、鏡の中にいる自分を見て驚愕

 2020年10月末、権太楼は東京・池袋演芸場で高座に上がった。客はお世辞にも多いとは言えない。

「このご時世、爆笑落語はやりづらいんですよ。“笑いの連鎖”というものがあってね。寄席(よせ)では本来、お客さん同士はくっついて座っているから、隣の人につられて笑うことがあるわけです。だけど、今は客席を間引きしなくちゃいけないし、大声で笑うのがはばかられる雰囲気もある」

 厳しい状況が続いているが、寄席が再開しただけでも、ファンはほっとしているだろう。

 このコロナ禍で、権太楼のもとにも2月ごろからキャンセルや延期の連絡が届き始め、3月、4月と情勢が悪化していくうちに「もうダメだ」とさえ思った。

「寄席も休館ですし、最初は一日じゅう、ぼうっとテレビを観ていました。感染者数が毎日増えていき、志村けんさんや岡江久美子さんが亡くなって、こちらの気持ちもどんどん落ち込んでいく。家から出られない心理状態になっていきましたね。稽古する気も起こらないんです」

 客の前で落語ができず、仲間や学生時代の友人とも会えない。「鏡を見るたびに、あたしがどんどん素人になっていくんですよ」と、権太楼は衝撃発言をした。

「鏡に映った自分が“権太楼さん”じゃなくなっていく。それはもう、恐ろしいくらいでした。自分の中に内在するものが出てくるのを待とうと思っていたんだけど、日に日に変わっていく自分の顔を見ていたら、これは何とかしなければと焦りましたね」

 かといって稽古をする気力は出ない。どうしたらいいだろう……。そうだ、『権太楼の権太楼による権太楼のための独演会』をしてみよう、と決意した。

「あたしはいつも散歩をしながら稽古するんですけど、独演会だから稽古ではなく本番の呼吸でやる。しゃべるのは権太楼、客も権太楼だけ。例えば、ある日の演目は『百年目』。うん、これは案外よかったんじゃないの、と帰ってきてから出来栄えをメモする。

 毎日それを繰り返していたら、『へっつい幽霊』という噺のときにね、ある言葉が途中で思い出せないんですよ。だけど飛ばしちゃいけない。本番のつもりでやっているから」

 落語の稽古は一からの積み重ねで、タンスの引き出しを下からひとつずつ開けていくようなものだという。途中で開かなくなったら、またいちばん下に戻って開いていく。

「言葉が出てこなくなったら毎回、マクラ(落語の本編に入る前に、演じる演目に関連する話をする部分)からやり直すんです。もう、どれだけ時間がかかるかわからない。一度帰って、作ってある台本を見ればすぐにわかるんですよ。でも、それをしちゃあいけない。すぐに忘れるから。自力で思い出さなければ身につかない」

 家に戻って「権太楼さん、これではお金はとれません」と、客の権太楼がダメ出しをする。結局、その言葉を思い出すまでに3、4日かかった。

「これ、逆に寄席なら、お客さんが気づかないように進めることもできちゃうの。だけど、いま聴いているのはあたしだけですからね(笑)、当然ごまかせない。この、ひとり独演会が楽しくてたまらなかった。やり始めてから、鏡の中の顔は“権太楼さん”に戻りました」

 それでも、仲間たちと飲みに行けないことは、かなりのストレスになったようだ。

「コロナのいちばんよくないところは、人と人との触れ合いをやめさせたことでしょうね。好きに旅行もできなかったでしょ。旅行ってのは家族でするだけじゃないんですよ。何十年も前に卒業した学生時代の仲間と一泊でどこへ行こうかとか、町内のお年寄りたちが集ってバス旅をするとか、そういうのが本当の旅行なんだ。くっついてしゃべって、笑いあって。それが楽しいわけですよ。

 今は寄席も再開したけど、前から2列目くらいまではお客を入れない。あたしたちが唾(つば)を飛ばすからね。これを『飛沫の刃』と言う(笑)」

 まじめな顔をして、いつの間にか笑わせている。これが権太楼流。

恋い焦がれた師匠の存在

 権太楼は1947年、東京・北区の滝野川に生まれた。大工の棟梁(とうりょう)のひとり娘と職人が駆け落ちして、滝野川に逃げてきたからだ。根っからの職人である父と、気風がよくて芸事好きな母、周りは長屋だらけと、江戸の落語の風景の中で育った。

 明治学院大学に在学中は、学生落語界で大活躍。卒業後の'70年、当然のようにプロの道へ。寄席で聴いて大好きになった5代目柳家つばめに弟子入りし、柳家ほたるを名乗った。ところが、大好きだった師匠が4年後に亡くなり、その大師匠だった5代目柳家小さんの門下へ。小さんといえば、滑稽(こっけい)噺を得意として人柄のにじみ出る話しぶりと豊かな表情で人気を博し、永谷園の即席みそ汁『あさげ』のテレビCMにも出演。昭和から平成半ばまで落語界を牽引、弟子の多さでも知られ、落語界初の人間国宝となった噺家である。

 権太楼は今もふたりの師匠をこよなく愛し、敬っており《お墓参りをするときは、つばめには相談を、小さんにはお礼と報告をする》と著書で記している。

 権太楼が客の前でお辞儀をするとき、その手と指を置く位置や身のこなし方は、小さんに生き写しである。

「いつも思ってるんですよ。小さんになりたい、小さんになりたいって。73歳になってもそう思ってる。俺の夢だったの。だけど、とてもかなわない。だからせめてお辞儀だけでも……って」

 小さんへの強烈な憧れと思いがある権太楼。最近では小さんが得意としていた噺を、よく高座にかけるようになった。

「うちの師匠の落語は奥が深いんです。よく“了見になれ”って言ってましたね。その言葉を発している人、そのものになれということ。しかも、師匠は落語を“目で語る”人だった。あたしはその域には、なかなか達することができません」

 小さんは常に「芸は人なり」と言っていたという。これでもか、と笑わせる権太楼にまったく邪気や嫌みを感じないのは、権太楼が「そういう人だから」なのだろう。

 権太楼は若いころ、タレントとしても大活躍した。人懐っこくて機転が利くため、ラジオやテレビから引っ張りだこだった。だが、二つ目として『さん光』を名乗ったころから、タレントと噺家の狭間で行き詰まりを感じるように。そして '78年、「落語をやる!」と決めて一念発起し、二つ目の会などにも頻繁に出るようになる。それからは、ひたすら精進あるのみ。4年後には真打ちに昇進し、3代目権太楼を襲名した。

 滑稽噺に以前にも増してのめり込んでいったのには、きっかけがある。

「昔、『たちきり』という噺を上野(鈴本演芸場)でかけたんです。これは男女の悲恋物語。帰りがけ、お客さんが帰るのとタイミングが同じになってね、後ろからカップルが話しているのが聞こえるわけ。男の子が謝ってる。“ごめんね。権太楼ってさ、いつもはもっとおもしろいんだよ、笑わせてくれるんだよ”と。

 その言葉を聞いてハッとしたんですよ。お客があたしに求めているものを寄席では出すべきじゃないか、と。爆笑派だと言われているならそれでいくべきだろう。でも、人情噺もできますかと聞かれたときには“はい”と言えるように、稽古だけはしておこう、と

 権太楼は人情噺でも、笑わせる部分をきっちり描く。笑顔の裏に隠れた、ほろりと流れる一粒の涙のほうが号泣よりも悲しいことがあるように、その人情噺は心に沁みる。

背中からミシミシと音がして……

 40代から50代、権太楼は全速力で突っ走った。年間800席という、尋常でない数をこなす日々が続く。'01年、寄席で絶大な人気を誇っていた古今亭志ん朝が63歳という若さで亡くなり、翌年には師匠小さんも鬼籍に。権太楼世代が頑張るしかなかった。

「いつも客入りが気になっていましたね。それがストレスだったのかもしれない」

 奇しくも63歳のとき、権太楼は倒れる。金沢の落語会から帰って翌日は都内で仕事、さらに次の日、北海道で独演会を開いたときのことだった。

「噺の終わりかけに背中からミシミシって音がする。そのまま、なんとか噺を終えてお辞儀をしたけど立てないんですよ。ずるずると倒れ込んでいく。袖にいた弟子を呼んで“起こせ”と。でも、あのとき打ち上げには出たんですよ。確か1曲、歌ったんじゃないかな。せっかく労(ねぎら)いの場を用意してもらったから申し訳なくてね」

 満身創痍で東京に戻って検査を重ねた結果、告げられたのは腎臓がん。手術後、抗がん剤の治療をしているときに、今度は膀胱がんが見つかった。

「あのときが人生でもっとも心が落ちましたね。免疫力が落ちているから家にいないといけない。レコードでも聴こうかと石原裕次郎の『わが人生に悔いなし』を聞いたら、よけい落ち込んじゃってね。それでもやめられなくて何回も聴いて……。

 そんなとき、お医者さんが“楽しいことをしてください”と言うんだ。“落語でも聴いたら?”って(笑)。先生、あたしにそれを言う? あたしがいちばん楽しいのは、落語を“やること”なんだから」

権太楼、人生に悔いなし!

 だから権太楼は闘病中も、しばしば寄席や落語会に出演した。当時、同じくがんと闘っていた柳家喜多八と顔を合わせた際に「オレたちは爆弾を背負っちゃったようなものだから、もう好きにやろう。あとは勝手に生きよう」と決めたという。我慢していたお酒とタバコも解禁した。

「うちのカミさんにも言ったんですよ。オレが死んで棺(ひつぎ)にタバコを入れるくらいなら、今吸わせろって(笑)」

 そういえば、と権太楼は続けた。

「病気になる前、タバコのフィルター部分がいっつもガチガチに潰れてたんですよ。それだけ噛んでいたんでしょう。ストレスにまみれていたんだね。今は全然噛まない」

 闘病から10年、ますますパワフルに、そしてエネルギッシュな高座を聴かせている権太楼。

「本当はこれからだって、やってみたい噺はたくさんありますよ。だけどね、あれだけの病気をすると、できない約束をしていいのか、と自問しちゃう。病気のころ、カミさんに言ったんです。“オレにもしものことがあったら『権太楼は、めいいっぱいやってきました。一日たりとも怠けなかった。だから悔いはない』と明言してくれ”。間違っても『もっと落語をやりたかったはずです』なんて絶対に言うな”と。今だって、今日が一生だと思ってやってます

 “爆笑王”はおそらく、のたうち回るような努力の結果としてついてきた、落語ファンのお礼の気持ちがこもった称号なのだ。

=文中敬称略=

(取材・文/亀山早苗)

《PROFILE》
柳家権太楼(やなぎや・ごんたろう) ◎1947年、東京・北区生まれ。'70年、柳家つばめに入門するも'74年、師匠の他界により柳家小さん門下となる。'75年に二つ目、'82年に真打ちに昇進し、三代目柳家権太楼を襲名。落語界きっての「爆笑派」として知られ、現在は落語協会の相談役も務める。出囃子は『金比羅』。

《INFORMATION》
11/23(月・祝)の13時〜千葉県鎌ケ谷市のきらりホールにて『第1回 きらり! かまがや寄席』を開催! (詳細はhttps://kamagaya-kirarihall.jp/cgi-bin/event_wn/list.cgi

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  • なんか、柳家権太楼師匠の高座一度見てみたいと思った。
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