KATSUMI、“バブルの象徴”歌手が明かす「円形脱毛症」「MVで脱がされた」過去

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2020年12月06日 16:00  週刊女性PRIME

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写真KATSUMI
KATSUMI

バブルの象徴と言われるのは嫌ではないし、どうぞどうぞって感じです(笑)。ただ、自分ではそういうふうには思っていなかったですね

 バブル経済まっただ中の'90年に、レコード会社・パイオニアLDCの“J-POP第1号歌手”として華々しくデビューしたKATSUMI。キャッチーな楽曲で数多くのCMソングに起用され、大ブレイクを果たした。

「当時の事務所が六本木にあったのですが、事務所の駐車場代だけで自分が住んでいたアパートの家賃ぐらいするのを知って驚いた記憶があります。僕自身は給料制だったこともあり、バブルとはほど遠い生活を送っていましたね」

 ソバージュヘアに俳優顔負けのイケメンという見た目から都会的なイメージがあるが、実は茨城県出身。東京へ来たばかりのころはなかなか訛りが抜けず、苦労したという。

音楽の専門学校に通うために上京したのですが、訛っているのが恥ずかしくて、最初のころはあまり話せなかったですね。当時はDCブランドブームだったし、田舎者だと思われたくなかったので、バイト代はバンド活動と洋服代に消えていました

似た曲ばかり求められるように

 専門学校卒業後もバンド活動を続けていたところ、24歳のときにチャンスが訪れる。

「22歳のときにやっていたアマチュアバンドのデモテープが音楽関係者の目にとまり、事務所に所属することができたんですが、なかなかデビューができなくて。給料はもらえていたけど、いつデビューできるかわからない状態だったので、辞めようと思い事務所の社長に電話をしたんです。そしたら“さっきレコード会社が決まったよ”と。ドラマみたいなできすぎた話ですけど、実話です」

 '90年4月にメジャーデビュー。そして2枚目のシングル『危険な女神』が、カメリアダイヤモンドのCMソングに起用されたことで、一気に注目を集めることに。

「いざデビューしてみると、レコード会社からの期待なども強く、プレッシャーのほうが大きくなっていって……。そこからは事務所が用意した神輿に乗せられて、どんどん進んでいった感じでしたね」

 その後は、リリースするたびにCMのタイアップが。

代表曲のひとつである『It's my JAL』は、JAL側と代理店で企業名も入れたCMソングを作りたいというアイデアが先にあり、曲が先行で完成していたところに、歌い手として僕の名前が出てきたそうなんです。運がいいことに作詞までさせていただきました。そういう縁もあり、今でも飛行機に乗るときはJALを選んでいますね。誰に頼まれたわけでもないんですが(笑)

 しかし“時の人”となるにつれ、こんな悩みも。

母親もレコード会社の人もすごく喜んでくれたし、素直にうれしかったです。当時、築いた人間関係は今でも財産になっていますね。ただヒットが続くにつれて、周りからは同じような曲しか求められなくなっていって……

 タイアップからヒット曲が生まれていたものの、それが重荷に感じるように。

CMソングを歌わせてもらえるのは光栄なことではあるのですが、企業や広告代理店の意向も強くなっていくので自分のやりたいことと、求められていることに、どんどんギャップが生まれるようになったんです。僕もまだ25歳ぐらいで若かったこともあり、自分の意見が通らないことに苛立つようになって……。今なら直しの注文が入っても、“はい、喜んで!”と言えるのですが、自分が一生懸命、作ってきたものを作り直してこいと言われたり、楽曲を作るうえでのプロセスで納得ができないことも続いて、悩むようになりました

俳優業に挑戦も……

 爽やかなルックスゆえ、アイドル的な要求をされることも多かったと振り返る。

3枚目のシングル『Yes‘抱きしめて』のミュージックビデオの撮影現場に行ったら、突然“脱いでみようか”と言われ、上半身裸で撮影をさせられました(笑)。最初のころは僕もまったく断らなかったのですが、ロックが好きで歌手を目指したので、アイドル的な扱いを受けることにもギャップを感じるようになっていきましたね

 '94年にはドラマ『妹よ』(フジテレビ系)で俳優デビュー。しかし、それが原因で円形脱毛症になってしまう。

役者なんてできないと最初は断ったんですが、説得されて出演することになりました。でも演じ方なんて誰も教えてくれないから、ひとり悩んでいたら円形脱毛症になってしまって。自分には演技は向いていないと実感しましたが、せっかく挑戦したからにはもう少しうまくやりたかったなという後悔もあります

 仕事と自分のやりたいことのギャップが大きくなったことで、ついに爆発してしまう。

「歌手として認めてほしいという思いが強くなり、CDジャケットにも“写真を使わないで”と頼んだり反発するように。でも作品を発表したあとの責任は僕自身が負わなきゃいけないし、自分が納得できるものを作りたいという意志は譲れませんでしたね」

 しばらくはマイペースに活動を行っていたが、'00年にウルトラマン関連の楽曲を手がける音楽ユニット『Project DMM』に参加。8年間、活動を行ったことで考え方に変化が起きる。

ユニットなので自分ひとりではなく、みんなで作り上げていかなくてはいけないし、ウルトラマンシリーズのテーマは“愛や勇気や希望”という王道なもの。そういう楽曲をみなさんの前で歌い、それを見た人たちが喜んでくれたことで、求められるならいろんなことに挑戦してみようと思えるようになりました

 '11年に発生した東日本大震災で地元・日立市も甚大な被害を受けたこともあり、茨城での活動もスタートさせた。

「震災が起こったことで地元に恩返しができないかなと。現在は月の3割ぐらいは茨城でラジオに出演しています。ネットが普及したおかげで、今はどこにいても活動ができるのも大きいですね」

 今年はデビュー30周年。記念ライブを開催予定だったが、新型コロナの影響で開催の予定を立てられない状況だ。

「年齢的にいつ活動ができなくなるかわからないので、いろいろな形を模索している段階です。過去のミュージックビデオをYouTubeで公開しているのも、少しでも元気を与えられればという思いから。でも、僕の人となりがいちばん伝えられるのはライブ。コロナ禍で大変な状況ですが、どうにか会える機会を作っていければと思っています」

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