「セウォル号沈没事故」から6年――韓国映画『君の誕生日』が描く、遺族たちの“闘い”と“悲しみ”の現在地

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2020年12月11日 22:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

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近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『君の誕生日』

 あれからもう6年もたったのか……。韓国人の私は、ついそんな想いを禁じ得ない。2014年4月16日の朝に起こった、「セウォル号沈没事故」。修学旅行中の高校生325名を含む乗客476名のうち、299名の死者(生存者172名、行方不明者5名)を出した大惨事は、日本でも大きく報道され、当時は毎日のように話題になっていた。

 この事故がこれほど大きな問題となったのは、いわゆる船の違法改造や過積載が原因ではなく、メディアによる誤報が海洋警察隊の救助の遅れをもたらし、われ先と真っ先に脱出した船長らのあまりに無責任な行動、政府の安易な初動対応に至るまで、本来なら被害の抑制のために作動するはずの「国家・社会的機能」がほぼ不全状態だったことに起因する、史上最悪の「人災」であった点にある。

 実際、当日私のスマートフォンにも「旅客船の沈没」の直後に「全員救助」の通知が届き、胸をなで下ろしたのをよく覚えている。だがこの知らせは致命的な誤報だった。そして、この事故が国全体に深い悲しみをもたらしたのは、犠牲者のほとんどがまだ若い高校生たちだったためである。

 守ってあげられなかった、助けてあげられなかったことへの罪悪感に駆られた国民は、国家が機能不全に陥ったことの責任を当時の朴槿恵(パク・クネ)政権に求めた。これが発端となり、朴大統領の「お友達の国政介入」のずさんな実態が赤裸々に暴露され、その結果、朴大統領は罷免。現在の文在寅政権への交代が行われたのは説明するまでもない。文大統領は公約として、セウォル号事故の真相究明と責任者の厳罰を約束し、多くの支持を得たのだが、その道のりは今でも決して順調とはいえない。

 政権交代後、「セウォル号船体調査委員会特別法」が成立し、特別調査委員会による本格的な真相究明が始まったものの、野党(朴前政権側)の非協力的な姿勢や、ネット上に出回った陰謀説(「潜水艦と衝突した」「わざと沈没させた」といったもの)に始まり、究明への努力に対する野党議員の「死体商売」という暴言、事故の責任追及を政治利用する与党側の姿勢、さらには、遺族に対する右翼団体からのバッシングと、一向に解決の糸口が見えないことへの疲労感から、国民は次第に忘却へと向かっていった。

 今回取り上げる『君の誕生日』(イ・ジョンオン監督、2018)でも描かれているように、補償金をめぐる誤解や絶えない誹謗中傷によって、遺族間でも分断が見られたり、つい最近も、チョンワデ(大統領官邸)前で1年間「一人デモ」を続けていた遺族に対して批判が巻き起こるなど、事故は徐々に“遺族だけの孤独な闘い”となり、遺族の悲しみだけが取り残されたまま、韓国では醜い争いが繰り広げられている。

 本作は、大事なことを忘れてしまった国民が、愛する家族を失った遺族の悲しみに再び寄り添い、事故そのものを風化させてはならないことを思い出すという意味で、国全体を原点に立ち返らせてくれた映画である。

<物語>

 セウォル号沈没事故で息子のスホ(ユン・チャニョン)を失い悲しみに暮れる母・スンナム(チョン・ドヨン)と、幼くして失った兄を懐かしむ妹のイェソル(キム・ボミン)のもとに、仕事の事情で長い間外国にいた父・ジョンイル(ソル・ギョング)が突然帰ってくる。家族にとって最もつらい時期に不在だったジョンイルに対し、スンナムは戸惑いと怒りを隠せない。罪悪感にさいなまれながらも、夫として、父として償おうとするジョンイルに、遺族団体からスホの誕生日パーティーが持ちかけられる。

 激しい拒否反応を示すスンナムに対し、スホとの新たな再会の機会になるからと説得するジョンイル。生前のスホを知る多くの人々が集った誕生日パーティーで、スホがみんなの記憶の中に生きていることを再確認したスンナムやジョンイルは、スホを近くに感じながら、新たな日々を歩き始めるのだった。

 セウォル号沈没事故で犠牲になった高校生と、その遺族の悲しみを軸にした本作では、コラムの冒頭で紹介したような政治的利害論争とは距離を置き、事故について直接言及はしていない。最愛の家族を失った遺族の心境のみに焦点を当てていることが、何よりも本作の明確なメッセージになっているといえるだろう。

 イ・ジョンオン監督は事故後、遺族に寄り添うボランティア活動に従事し、長年にわたる遺族との交流の中から本作のシナリオを書き上げたという。特定の人物を取り上げるのではなく、多くの遺族から聞き取ったさまざまな物語を映画のキャラクターに溶け込ませる手法には、人間の内面を突き詰めた作品作りで知られるイ・チャンドン(以前のコラムで紹介した『バーニング 劇場版』の監督)のもとで学んだ彼女ならではの丁寧さが感じられる。イ・チャンドンも製作に参加している本作は、イ・ジョンオン監督のデビュー作であり、観客からも多くの共感を得た。

 本作を見ながら頭に浮かんだのは、「不在(absence)」と「現前(presence)」というキーワードだった。というのも本作は、「死=不在」をめぐる物語にもかかわらず、『君の誕生日』(原題は『생일』=誕生日)というタイトルにも暗示されているように、新しい命としてこの世に生まれた「誕生=現前」の日に焦点を合わせているからだ。そして、映画の中心を担う残された3人の家族は、スホの不在を「現前する(=そこに存在している)不在」に変えていくことで、深い悲しみを少しずつ乗り越えていこうとしている。

 最愛の息子を突然失った母・スンナムは、スホの「不在」を受け入れることができず、スホの死に正面から向き合おうとしない。スホの新しい服を買い込み、突然灯る玄関のライトにスホの帰還を感じてしまうスンナムは、息子が今にもドアを開けて帰ってくるように思えて仕方がないのだ。

 彼女はスホの不在を受け入れている人々に対して激しい拒否反応を示し、それは時に、夫のジョンイルだけでなく、娘のイェソルにも向けられる。こうしたスンナムの姿は、スホの不在による悲しみの中に、自分自身を閉じ込めているようにも見える。彼女は不在を受け入れられないのではなく、その不在を認めることを怖がっているのだ。不在を認め、悲しみを乗り越える準備ができていないスンナムの姿は、遺族らに共通する「根源的な悲しみ」を象徴しているといえよう。

 一方、妹のイェソルは、幼いながらもスホの不在が何を意味するのかをよく知っている。イェソルにとってスホの死は、湯船にも干潟にも入ることができないほどの大きなトラウマとなっているが、同時に、スホの誕生日パーティーを素直に楽しみにしている。母親以外の人間たちとの関わりを通して、スホを「現前する不在」としてすでに受け入れているのだ。その意味でイェソルは、周囲の人々と触れ合おうとせず心を閉じてしまっている母・スンナムとは異なる形で、悲しみに向き合っている存在である。

 そして父・ジョンイルは、大事なときに家族と共にいられなかったことへの罪悪感に囚われ、スホがどんな子だったかも話せないほどに、息子を知らない自分を責める。だが、事故以前のまま残されたスホの部屋に足を踏み入れたジョンイルは、涙を流しながらスホの痕跡を一つひとつ確かめ、「現前する不在」を見いだしていく。だからこそジョンイルは、果たせなかったスホのベトナム旅行をかなえるために、彼の身代わりとなるパスポートを握りしめて入管に出向き、2人の思い出である釣りにも出かけるのだ。

 「現前する不在」としてのスホを、確かにそこにいるスホを確信したジョンイルは、「スホが来るから」とスンナムを説得して誕生日パーティーに導く。ジョンイルは、スンナムともイェソルとも違い、悲しみに打ち勝つための道を父として模索した。映画の中でのジョンイルの設定は、遺族の中でも特殊な事情のように思えるかもしれないが、彼の立場は韓国国民全体の象徴とも考えられる。そんな彼の行動と努力は、事故に対して韓国社会がどうあるべきかという問題に対する、本作のメッセージとも受け取れるだろう。

 こうして3人の家族は、それぞれのやり方で「不在と現前」を行き来しながらスホの誕生日を迎えていくのだが、最後にもう一つ、「縫合」という概念を取り上げてみたい。「縫合」は、哲学や精神分析において「不在と現前」を考えるうえで重要とされているのだが、「映画」の領域においても語られることがある。

 例えば映画の中で2人の人間が会話をしている場面を思い浮かべてみてほしい。会話はしばしば、話している1人の姿を交互に映す形で描かれるが、そのとき観客は、聞いているもう1人の人物が画面上に映っていなくても、そこにいることを知っている。つまり、画面に映らないもう1人は「現前する不在」であり、観客は映画を見ながら「現前と不在」を絶えず結び付けながら(=縫合)、意味をつないで総体的なひとつの作品として作り上げているのだ。「映画を見る」とは、このような観客自身の無意識的な作業の連鎖だといえる。

 誕生日パーティーでスクリーンに投影された数多くのスホのイメージは、「現前する不在」としての彼が数々の思い出や幾多の写真と共に「縫合」され、家族や友人たちの心の中で依然として「生き続けている」ことを余すところなく見せてくれる。家族だけが知るスホ、友人だけが知るスホが縫合され、その場にいる人たちによって共有されることで、彼は新たな命を得て生まれる――「現前する不在」としてのスホは、まさに誕生日に再び誕生の日を迎えるのである。

 残された人々にとって必要なのは、そんなスホをいつまでも記憶し、忘れないでいることだ。3台のカメラを使い、30分にも及ぶシーンをロングテイクで撮ったという誕生日パーティーのシーン、観客もまた同じだけの時間を通してスホの不在と現前を共有し、悲しみを乗り越えようとする遺族の姿と本作のメッセージを縫合していく。

 悲しみを乗り越えるとは、スホ(によって表象されるすべての犠牲者)と一緒に生きていくことにほかならない。セウォル号沈没事故において私たちが大切にしなければならないのは、責任者への厳罰でも真相究明でも、政治的利害や補償金をめぐる根も葉もない噂でもなく、遺族の「心の痛み」であるというあまりにも当たり前の認識に、今こそ立ち返るべき時が来ているのではないだろうか。

■崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

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  • 保導連盟事件とか哨戒艇撃沈事件(ムン政権は北の仕業じゃないとか言い出してる)とかのドキュメンタリー作ればいいんじゃない?
    • イイネ!17
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