『花束みたいな恋をした』のオルタナティブな若者が直面するありきたりな問題

1

2021年02月25日 14:12  マイナビニュース

  • 限定公開( 1 )

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

マイナビニュース

写真画像提供:マイナビニュース
画像提供:マイナビニュース
『花束みたいな恋をした』は、ある種の人々にとっては、何か自分に重ねて語らずにはいられない映画だと思う。もちろん、私にとってもそうだった。

(内容にネタバレを含みます)
○これまで描かれてこなかったタイプの若者たち

この映画を見て驚くのは、その数々の実際に存在するカルチャーのキーワードだ。ある種の人にとっては、自分が聞いているもの、見たもの、読んだものが、いくつかは存在しているし、そのチョイスに唸ったり、もしくは違和感を持つこともあるだろう。

しかし、何度かこの映画を見ると、その見え方は違ってくる。むしろ、今の日本に、こうしたカルチャーに親しむ若者がたくさんいるというのに、そういう若者が書かれてこなかったと思うのだ。

これまで、恋愛ものに書かれてきた人は、どちらかというと、この物語の菅田将暉演じる麦と有村架純演じる絹ではなく、その周りに出てくる人々ではなかったか。

例えば、麦と絹が終電を逃し、共にバーで過ごす押井守を知らないほうの男女が主人公の作品は無数にあっただろうし、麦が憧れていた大学の同級生と麦の物語や、絹が天竺鼠のライブを見逃すきっかけとなった、劇団EXILEの佐藤寛太演じる余裕のある大学生の物語のほうも、たくさん描かれてきただろう。

これまでの恋愛ドラマや映画を見ても、「お仕事もの」と並行して描かれたり、病気や事故が二人を阻む物語であったり、また男性側がダメ男で実は相手に対して思いがあっても不器用でうまく伝えられないとか、女性側が何を考えているかわからなくて、相手を翻弄したりとか、そういうものが多かったように思う。

しかし、麦と絹の場合は、それらのどれにも当てはまらないどころか、一目ぼれですらない。なぜなら、終電を逃してひと時を過ごし、そこで別れる際に、ふたりとも名残惜しそうですらなく、絹が意を決して「押井守いましたね」とかけたそのときが、(古い言葉ではあるが)ふたりがビビっときた瞬間だったのではないかと思う。

そういう意味では、この二人は、押井守を知っている(好きか嫌いかではない)ほうの世の中に⽣きているほうの⼈間、つまりオルタナティブな生き方をしている人たちの恋を描いたものであり、それが、これまでになかなか描かれていなかったのである。

○二人が直面する"ありきたりな問題"

しかし、この二人がその後に直面する問題は、けっこうありきたりだ。その問題とは、結婚を意識する時期に、社会の中での立ち位置をどう考えるかということであった。

絹は、資格をとり、最初は堅実な事務の職につくが、その後には、自分の好きな世界に、非正規でもいいからと飛び込むこととなる。しかし、麦の場合は、最初は会社は会社と割り切り、5時に仕事が終わったら、イラストを描いたりと、今までのように生活を楽しめばいいと思っていたのに、だんだん会社に飲み込まれていく。それどころか、むしろ会社側の人間になっていく。

彼が最初のうちは、自分の趣味や生活が大事で、男女の在り方に対しても、固定観念が強いタイプではなく、むしろリベラルに見えていたからこそ、絹にとっても、そして見ているものにとっても大きな衝撃を与える。もしも麦が最初から、フラットなジェンダー観の持ち主ではなく、男は男らしく、女は女らしくという人物に見えていたなら、それはさほど衝撃ではなかっただろう。

特に絹が好きなことをやる方向への転職を打ち明けるときには、二人の位置関係が違っていることに気づく。麦はソファーに座り、絹は床に正座していて、あきらかに上下関係がみえるし、麦が仕事先で理不尽にも耐えて頑張っていることを、「生活のためだから」と、どこか勲章のように誇らしげに語る。『ゴールデンカムイ』の続き読むことはできないが、「パズドラしかやる気しない」という台詞は、あまりにも凄すぎて頭に残って仕方がない。

しかも麦は、こんなに価値観の違いが明らかになったというのに「俺頑張って稼ぐからさ、家にいなよ。働かなくても別に家事もしなくても、毎日好きなことしてればいいじゃん」というプロポーズをしてしまう。

麦はなぜこんな風に変わってしまったのだろうか。それは、麦が元から真面目で素直だったからのようにも思える。絹のためになると思うことや、会社で理不尽なことに耐えることで、何か、「ひとかどの男」になれるポイントが溜まっているような錯覚に陥っていたのではないか。

しかし、恋愛関係を解消した途端に、麦は悪い魔法(という名の固定化したジェンダー観)が解けたようになり、ときには一緒に映画やテレビを見て、タピオカを飲んだりしながら笑いあえる元のふたりに戻る。これを見ると、なんで一瞬でも麦が「ひとかどの男」にならなければという規範に真面目になってしまったのかなと、やるせない気持ちになる。

その後の二人は、冒頭のシーンでもわかるように、お互いにぜんぜん「趣味も価値観もあわなさそう」な相手と付き合っているけれど、未だに、ふたりが考えていることはやっぱり近い、似た者同士であることもわかる。悲劇は、ある一瞬、麦が「ひとかどの男」であろうと、旧態依然とした価値観をインストールするのに必死になったことなのである。

過去に恋人であったふたりが、現時点では、ぜんぜん趣味のあわなそうな人とつきあっているけれど、それでも腐れ縁を続けているというのは、実は坂元裕二作品ではテレビ朝日で放送のドラマスペシャル『スイッチ』にも登場する(現在、AmazonのPrime Videoなどで視聴可能)。

絹と麦の別れはせつないけれど、『スイッチ』を見ているものからすると、なんとなくふたりは、ことあるごとにすれ違ったり、ときには焼け木杭に火が付いたりするのかなと想像してしまうのだ。

(C)2021『花束みたいな恋をした』製作委員会 

西森路代 にしもりみちよ ライター。地方のOLを経て上京。派遣社員、編集プロダクション勤務を経てフリーに。香港、台湾、韓国、日本などアジアのエンターテイメントと、女性の生き方について執筆中。現在、TBS RADIO「文化系トーラジオLIFE」にも出演中。著書に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)、共著に『女子会2.0』(NHK出版)などがある。 この著者の記事一覧はこちら(西森路代)
    ニュース設定