韓国映画が描かないタブー「孤児輸出」の実態――『冬の小鳥』 では言及されなかった「養子縁組」をめぐる問題

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2021年03月05日 22:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『冬の小鳥』 

 画面に顔が映らない父親に向かって、微笑みかける幼い少女。やがて少女は孤児院に預けられ、父親が迎えに来ると信じながらも、少しずつ現実を受け入れていく。少女の目線から描かれる孤児たちの世界、大人たちの偽善、変わっていく日常……。

 映画『誰も知らない』(是枝裕和監督、2004年)が、大人の犯罪を告発するのではなく、誰の目にも留まらない“子どもたちだけの世界”として描いたように、今回取り上げる『冬の小鳥』(09年)もまた、余分な説明を一切排除し、主人公の少女の視点から、彼女の知識の範囲内で物事が見つめられていく。 
 
 それは恐らく、韓国とフランス名を併せ持つウニー・ルコント監督が、自らの幼少時代を振り返って映画化した作品であることも影響しているだろう。映画の細部に注意を払ってみると、笑みを絶やさず施設を訪れる欧米人の夫婦や、なんとか彼らに気に入られようと英語を覚える少女、韓国人家庭のもとに家政婦同然で引き取られていく足の不自由な少女といったように、養子縁組をめぐる韓国特有の事情が確かに描かれている。 
 
 朝鮮戦争後から現在に至るまで、韓国に付きまとって離れない汚名がある。それは、20世紀最大の「孤児輸出国」という、極めて不名誉なものだ。国の貧しさゆえに保護する余裕のなかった戦争孤児を、養子としてアメリカに送ることから始まったこの汚名は、経済的にはだいぶ豊かになった今でも払拭できないままだ。韓国がいまだに孤児を海外に送らなければならない背景には、一体何があるのだろうか?
 
 今回のコラムでは、映画ではあえて言及されなかった、「韓国における養子縁組」というテーマに踏み込んで本作を考えてみたい。そこには、日本とは異なる「家族」の価値観が浮かび上がってくるはずだ。

<物語> 

 1975年、9歳のジニ(キム・セロン)は父親(ソル・ギョング)に連れられ、ソウル郊外にあるカトリックの児童養護施設にやってくる。孤児たちが集まるその場所に、父親はジニを預け、無言のまま帰ってしまう。去っていく父親の後ろ姿を不安そうに見つめていたジニは、何日たっても“捨てられた”という現実が受け入れられず、周りの人に反発を繰り返す。そんなジニを年上のスッキ(パク・ドヨン)は気にかけ、ジニも少しずつスッキに心を開いていく。 
 
 一方、子どもたちを養子として引き取るため、施設には時々アメリカ人夫婦が訪れる。だが、養子になるには大勢の子どもたちの中から選ばれなければならない。気が乗らないジニに対して、スッキは1日でも早く引き取られようと必死に英語を勉強し、アメリカ人の前では余計に明るく振る舞ったりする。その努力は功を奏し、ついにスッキはアメリカ人夫婦の養子として迎えられる。頼もしかったスッキに去られ、残されたジニは再び周囲に反抗的になっていくが、ある日、ジニにも養子の話が舞い込んでくる。行き先は、幼い少女にとってはあまりにも遠いフランスだった。
 
 ジニを演じるキム・セロンの類いまれな演技に驚かされる本作は、『バーニング 劇場版』(18)や『ペパーミント・キャンディー』(1999)の監督であるイ・チャンドン氏がプロデューサーを務めている。フランスの映画祭に赴いた際に、フランスの国立映画学校を卒業したウニー監督と出会い、9歳でフランス人に養子として引き取られた経験に基づく彼女の脚本を読んだイ氏は、すぐに「映画化すべきだ」と製作者に名を連ねたという。日本では是枝監督が若手の育成に力を注いでいるが、韓国ではイ氏が同じような志を持った作り手といえよう。 
 
 彼のもとからは、本作のウニー監督をはじめ、『私の少女』(14)のチョン・ジュリ、本コラムでも取り上げた『君の誕生日』(18)のイ・ジョンオンら、特に女性監督が次々と育っているのも素晴らしい。男尊女卑の甚だしい韓国社会を、女性のまなざしから掘り下げ、問題を提示する彼女たちの作品が、韓国映画の多様性を担っていることはいうまでもない。本作は日本でも、良質な作品選定に定評があり、女性監督を積極的に紹介してきた、東京千代田区にある「岩波ホール」で公開され、注目を浴びていた。 
 
 ただ、韓国では作品自体は高く評価されたものの、興行的には成功とはいえない結果だった。莫大な製作費をかけた商業的な大作がスクリーンを占領する韓国映画界の配給システムの中で、イ氏が製作に関わっているとはいえ、本作のような低予算のインディーズ映画が観客の目に触れる機会は絶対的に少ない。

 だがそれ以上に気になったのは、評論家や観客のレビュー。「悲しみを乗り越えていく少女の涙の感動作」とか、「新しい人生へ旅立つ少女の物語」といった感傷的な内容ばかりで、なぜ幼い子どもたちが捨てられ、しかも海外にばかり養子に行くのかという、作品の根底を成す問題に目を向ける人はほとんどいなかったのだ。 

 近年では、あらゆる社会問題を映画化している韓国でも、「養子縁組」「孤児輸出」といったテーマは、映画においてはいまだタブーである感は否めない。私の知る限りでは、スウェーデンに養子として引き取られ、虐待や人種差別に苦しんだ挙げ句、韓国に帰国した女性の人生を描いた『スーザン・ブリンクのアリラン』(チャン・ギルス監督、91)くらいのものだ。

 養子に行った当事者が作り手となって、ドキュメンタリーや自主製作映画を発表することはあっても、メジャーな商業映画のテーマとして取り上げられることはない。 映画にも取り上げられないほどの無関心、「孤児は海外に引き取られるべき」という認識がまかり通っている現実。

 その理由を探すためには「孤児輸出」の歴史をたどらなければならない。

 
 先述したように、孤児たちを養子として海外に送り始めたのは、朝鮮戦争の直後からである。中でも、韓国で海外養子縁組を斡旋する団体として現在も活動している「ホルト児童福祉会」の設立者、ハリー・ホルトが、1955年に8人の戦争孤児を引き取ったのが始まりだとされている。彼は戦後、街にあふれる孤児たちを韓国政府の代わりに救済したわけだが、次第にそれは一つの「産業」に変わっていった。

 その産業化を決定づけたのは、朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権である。61年、クーデターに成功した朴政権が初めて成立させた法律が「孤児の養子縁組法」。この法律によって、海外に養子を送る際の手続きが格段に簡素化され、活発化する土台になったのだ。 
 
 朴政権の狙いは明白だ。当時、海外に養子を出すと、養子1人当たり5,000〜1万ドル以上が斡旋料として韓国政府に支払われたのである。朴政権にとって、街にあふれる孤児の問題が解決できるだけでなく、ドルまで稼げるとは、これ以上ありがたいことはない。開発独裁を前面に出していた朴大統領に児童福祉の意識などあるわけもなく、多い時は1年で8,000人以上の子どもたちが海外に「輸出」された。60〜70年代に韓国経済を潤わせた最大の輸出品は、カツラでもスニーカーでも車でもなく「子ども」であると、経済学者に皮肉られているように、この時代が礎となって「孤児の輸出大国」という汚名が誕生したのだ。 
 
 政府の統計を見ると、2016年までに海外に引き取られた養子の人数は延べ20万人にも上り、その半数以上がアメリカに渡っている。アメリカが圧倒的に多いのは、朴政権の政策はもちろんのこと、60年代以降のアメリカでの出生率の低下が問題となり、同時に人道的な孤児救済の運動が活発化した事情もあるようだが、建国以前からアメリカの支配下に置かれている(のと同然の)韓国の状況を考えれば、ドルを得られるアメリカが「輸出先」としてベストだと考えたのだろう。 
 
 さて、朴政権下で作られた養子縁組の法律は、子どもの人権を踏みにじる悪法だとして、養子に行った当事者たちの抗議と陳情によって12年、成立から50年ぶりに改正された。だが、いつでも本人のルーツを調べられるように産みの親の連絡先を明らかにするといった内容が中心で、諸外国に比べると、依然として海外縁組の審査や手続きが甘いといわれている。

 要するに、海外へ養子に行かせることそのものに対する問題意識が欠けているのだ。韓国国内での養子縁組は二の次で、なぜ海外養子縁組にばかり力を入れるのか? この問題について、多くの専門家が口をそろえるのが、韓国社会に根強く残っている儒教的「純血主義」である。  

 父系による「血のつながり」を何より重んじる韓国では、血のつながりのない子ども(=赤の他人)を養子に引き取ること自体、タブー視されてきた。純血ではないため「家門の血を汚す」というわけだ。この点について、血よりも「家」を重んじる日本では、養子縁組や里親制度を通して、養子を受け入れて家を継がせることに、韓国よりは柔軟だったといえよう。日本の「どこの馬の骨とも知れない」という言い回しは、韓国では「どこの種かも知らない」という表現に当たるが、この「種」という言葉に、韓国の父系中心の純血主義が端的かつ克明に表れている。 

 もう一つは、「未婚の母親」に対する差別(生まれた子どもへの差別も含めて)だ。これもやはり、女性に対する性的抑圧やタブーの多い儒教からの影響だが、戦争という特殊な状況下における孤児を除いて、捨てられる子の大半を「未婚の母親」の子が占めているのは、経済的な理由はもちろんのこと、周囲の目や差別を恐れての苦渋の選択といえる。こうして捨てられた「どこの種かも知らない」子を引き取ることを韓国人は拒んできたのであり、結果的に子どもたちは海外に送らざるを得なかったのである。

 近年は国際的な批判も高まり、さすがに韓国社会も意識の転換を図って、著名人が率先して養子を引き取るなど国内の養子縁組が少しずつ増えているとはいうものの、海外での養子縁組に比べると、まだまだわずかな数だ。そもそも先祖代々、いろいろな血が混ざって子どもは生まれるはずなのに、父系(男性)のみの「純血」という無意味なファンタジーに囚われている限り、「孤児輸出」の汚名から抜け出す道は当分なさそうだ。 
 
 そして忘れてはならないのが、誰よりも苦しむのは子どもたち自身だということ。当事者たちには親から捨てられた記憶や人種差別、アイデンティティーをめぐる問題まで、養子に行って大人になってからも苦しみを抱えて生きる人が多いという。現に韓国では、そういった養子を支援するための団体も発足している。

 本作でスッキと離れ離れになったジニは、穴を掘ってその中に入り自らを葬ろうとする。アッバス・キアロスタミ監督の『桜桃の味』(97)のラストシーンを連想させるようなこの場面、9歳の子どもが無意識に「死」を選ぼうとする姿に、ジニの苦しみの大きさを思わずにはいられない。しばらくして穴から出てきたジニは、一度自分を葬ったことで何かが吹っ切れたように、フランスへの養子縁組を受け入れ遠くの地に旅立っていくのだ。 
 
 ジニの現在がウニー監督であるとすれば、ジニは養親の下で「幸福に成長した」といえるかもしれない。だが養子をめぐっては、さらに信じられない「噂」も存在する。

 アメリカに養子に行く子どもたちを現地まで引率するアルバイトは、ひそかに人気があった。子どもを連れていって引き渡してしまえば、あとは悠々とアメリカ見物ができたからだ。実際、その仕事でアメリカに行ってきた後輩がいたのだが、帰ってきた学生たちの間で恐ろしい噂が流れていた。それは「臓器目的で養子にとられる子どもがいる」というもの。

 つまり、アメリカ人の中には、臓器移植が必要な自身の子どものために養子をとり、孤児の健康な臓器だけを取り出すと、後はわからないように“処分”されるのだそうだ。学生運動家がこの噂の真相究明を求めて活動したりしたが、社会問題にはならずじまいだった。信じ難い、信じたくない話だが、真相を知るのはそう簡単ではないだろう。
 
 9歳の子どもの目線から、韓国での最後の記憶が淡々と描かれている本作で、ここまでに挙げた海外養子縁組のさまざまな問題に言及されることはない。だからこそ逆に、語られていない韓国の現実が「余白」となって見えてくる。その余白には、依然として子どもたちを海外に送り続ける韓国に向けられた、静かで力強い「なぜ?」という疑問も刻まれているように思う。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。

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