渡辺久信は「表も裏も知っている」根本陸夫からあえて距離を置いていた

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2021年03月08日 06:51  webスポルティーバ

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根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第24回
証言者・渡辺久信(1)

「私が今の仕事に携わった時、いちばん初めに頭に浮かんだのが根本さんでしたね」

 開口一番、西武ゼネラルマネジャー(GM)の渡辺久信は言った。「今の仕事」とは主にチーム編成であり、その発端は2013年10月。監督退任後の渡辺がフロントに入り、シニアディレクター(SD)に就任した時のことだ。西武初代監督で実質GMでもあった根本陸夫が、渡辺にとって高い目標になったという。

「当然、西武もそうなんですけど、他球団でも、チームを強くするために尽力された方ですから。とくに、礎を築くことに関しては、根本さんの右に出る人はいないんじゃないかと思います。だから私自身、球団の方から『チームをどんどん強化していってほしい』と言われた時、目指したいというよりも、目指すべき人だと直感したんです」




 根本に薫陶を受け、信奉する野球人が数多いるなかで、根本を目標に掲げる野球人は滅多にいない。まして、GMとして目指すとなると唯一無二なのだが、じつは渡辺自身、ひとつ間違えば根本に出会わない野球人生になっていた。西武入団を巡って、当時の現場とフロントの考えが複雑に絡み合っていただけに、はじめにその経緯を明らかにしておきたい。

「根本陸夫の右腕」と呼ばれ、西武のスカウト部長を務めた浦田直治によれば、1983年のドラフトで「1位は前橋工高の渡辺久信でいく」と決めていた。これは直前のスカウト会議で浦田が発表し、管理部長の根本も承認済みだった。

 渡辺は最後の夏こそ群馬大会の決勝で敗れたが、1年時に甲子園のマウンドを経験。速球派の大型右腕ゆえ、浦田は「すぐに一軍で投げられる」と高評価していた。だが、会議の席で監督の広岡達朗から「高校生じゃなくて即戦力のピッチャーを」と要望が出た。「監督の言うことを聞いてやれ」と根本が方針を転換した。

 11月22日、ドラフト会議当日──。西武は2位指名予定だった東海大の高野光を1位で指名した。高野は首都大学記録の21連勝を記録し、通算23勝1敗、防御率0.92という実績を持つ右腕。それだけに、1位指名で4球団が競合した。

 すると、抽選に臨んだ根本はクジを外し、ヤクルトが高野の交渉権を獲得。外れ1位に渡辺を考えていた浦田だったが、同年日本一の西武はウェーバー指名順が12球団で最後になる。順番が来るまで時間をかけて検討するうち、渡辺は他球団に指名されたと思い込んでしまった。

 もう残っているピッチャーはいない──。浦田が「日通の辻発彦、いこうか?」と根本に問うと、「おう、そうせい」と返ってきて、用紙に名前を書いた直後だった。「浦田さん、これ、渡辺久信って残ってるんじゃない?」と広岡が言ってきて「あっ」となった。

 結局、当初の方針どおりになったが、即戦力の大学生を望んだ広岡が気づかなければ、渡辺はまず間違いなく他球団に指名されていた。渡辺自身、のちに担当スカウトからドラフト会議中の顛末を聞き、運命の不思議さを痛感したという。では、晴れてドラフト1位で入団し、初めて出会った根本の印象はどうだったのか。

「とにかく、あの目で睨まれたら人は動けなくなる、という感じはありましたね。蛇に睨まれた蛙じゃないですけど。恰好も何と言ったらいいのか......普通の一般の方には見えなかったですし。1年目のキャンプの時、ブルペンで投げていて、マウンドの横に立たれた時はもう大変でした。自分の投げ方を忘れるぐらい。広岡さんも同じように怖かったですけどね」

 プロ野球の世界に入って、いちばん強烈に印象に残った人──。渡辺にとって、それが根本だった。恐ろしい見た目に反して、言い方は優しかった。事細かに何かを言われたわけではなかったから、なおさら優しさを感じた。

「キャンプではよく、メジャーリーガーの写真を見せられました。だいたい、ピッチャーのフォームの分解写真みたいなもので。その時、私はトム・シーバーの写真を見せられて、『こういうふうに投げてみなさい』と。同じ右の速球投手で、背番号もたまたま41番で一緒だったので、そこからいろんなところで、トム・シーバーのことが頭に浮かびましたね」

 メジャー通算311勝、サイ・ヤング賞に3度輝いたトム・シーバー(元メッツほか)。この大投手と渡辺の共通項を、根本が見い出していたのか否かは、定かではない。だが、メジャーリーガーの写真を見せられる若い投手は稀だった。その点、工藤公康の場合、根本が工藤本人の分解写真を持ち出して「ここが違う」と指導が始まるから大変だった、と証言している。

「聞いたことあります、その話。根本さんのご自宅に招かれた時の話ですよね。私の場合、そういうことがないように避けてました(笑)。いったん指導が始まったら、2時間ぐらい続きますし、また話も長くなるんです。だから私は根本さんの前では存在を消すような感じで。ご自宅にうかがうなんて、まず考えられなかったですから」

 渡辺が「デーブ」と呼ぶ盟友、大久保博元は事あるごとに根本の自宅を訪ねていた。同じ茨城出身ということもあって、ほかの信奉者もそうだったとおり、根本を「オヤジ」と呼んだ。渡辺はそこまで親密な間柄ではなく、ある意味では賢く振る舞い、適度な距離を取っていたように感じられる。

「たしかに、ちょっと距離は置いていました。あんまり、どっぷり根本さんに浸かっていた、という感じではなかったと思います。それに私が若い頃、根本さんはほとんど球場に来られなかったんです。シーズン中、いつもいないというイメージで。必然的に、距離を置いてしまったようなところはありましたね」

◆秋山、伊東、工藤を獲得したドラフト戦略は「裏工作」と揶揄された>>

 渡辺は広岡に抜擢され、84年、高卒1年目にして一軍で15試合に登板している。勝ち星こそ1つではあったが、7試合に先発して完投も記録したほど。2年目の85年には43試合に登板したなか、右ヒジを故障した森繁和に代わって抑えも務め、リーグ優勝に大きく貢献した。

 ただでさえ、編成の仕事で日本全国を巡っていた根本は、チームに帰れば二軍を見ることが多かった。だから、すぐに主力級となった渡辺は、根本と顔を合わせる機会自体が少なくなっていく。ただ、それでも常に頭の片隅で意識している存在であり、一軍で活躍すればするほど、まだ新人だった時に聞いた根本の言葉が思い出された。

「野球選手というものは、簡単に人からご馳走になってはいけない。野球選手には、その地位を利用しようと企みを持った連中が寄ってくることもある。呼び方も最初は『渡辺さん』だったのが2度目は『渡辺くん』になり、3度目は『ナベちゃん』。最後は『ナベ』になる。そうやって身動きがとれない状態に追い込んで、取り込むのが奴らの手なんだから、ご馳走にだけはなるな」

 渡辺から見て根本は、「表も裏も何でも知っている人」だった。野球選手は、表の部分はある程度わかっていても、裏の部分はわからない。そこを補うべく、社会の仕組みについて何度か教えられることもあった。そして、さらに渡辺が結果を残して主力投手となった時、避けていた根本の自宅に出向く必要に迫られた。

つづく

(=敬称略)

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