『ザ・ノンフィクション』東北出身者に「地震のとき大丈夫でしたか?」と聞くことの重さ「わすれない 僕らが歩んだ震災の10年<後編>」

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2021年03月15日 20:52  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

 日曜昼のドキュメント『ザ・ノンフィクション』(フジテレビ系)。3月14日は「わすれない 僕らが歩んだ震災の10年<後編>」というテーマで放送された。

あらすじ

 東日本大震災による津波の被害で全校児童の約7割にあたる74名もの子どもと教員10名が命を落とした宮城県石巻市の大川小学校。当時小学5年生だった哲也は山に流され助かるも、同じく大川小学校に通っていた妹と、母親、祖父を喪い、学校の近くにあった自宅も津波で流されてしまう。

 奇跡の子、として哲也のことを多くのマスコミが注目する。なお、大川小学校の児童で当時マスコミの取材に答えていたのは哲也だけだった。「全国のみんなに東北はこれほど被害を受けたので知ってもらいたいと思った」と小学生の哲也は話すも、父親の英昭は「あんまり出来過ぎた哲也を演じるのは、あいつにはものすごく苦痛だと思う」と案じる。哲也に対し出たがり、目立ちたがり屋という声もあったといい、普段は明るい様子の哲也もこのことを話すときは顔を曇らせる。

 21歳になった現在の哲也は当時を「(大人に)気は使ってたんじゃないですかね。俺もそうでしたけど、子どもながらに大人の表情とか雰囲気って。子どもって敏感じゃないですか。大人が嬉しい、悲しい、怒ってるとか。喜怒哀楽ってすごく伝わってくるんですよね。大人が大変だから自分たちが迷惑かけちゃいけないって」「震災当時の子どもは子どもじゃいられなかったんじゃないですかね」と振り返る。

 震災翌年の2012年から、地震直後の大川小学校の教職員側の対応を問題視する声が高まっていく。すぐ裏手に山がある立地にもかかわらず、児童たちは津波到着直前までの51分間校庭に待機させられていた。遺族の3分の1が県と市を提訴。原告団の中には英昭もいた。英昭は夜勤もある仕事と大川小学校のガイド、裁判の準備にと多忙な日々を送る。

 また、大川小学校は訪れる人が絶えない震災の象徴的な場所となっていったが、遺族の中には学校自体の取り壊しを望む声もあった。哲也は思い出のある学校を残したく、東京で開催されたシンポジウムにも参加するも、そこで、亡くなった友人の母親が取り壊しを希望している声を聞き、「すごく申し訳ないというか、みんなどういう気持ちで亡くなっていったのか考えてしまって、そこからいろいろ連想してしまって。重くなってきた」と沈痛な面持ちで胸の内を話す。

 その後、卒業生を中心に校舎を残すことを望む声が集まり、2016年3月、大川小学校は震災遺構として保存することが決まる。なお、遺族の県と市を訴えた訴訟も2018年4月、仙台高等裁判所、原告側が勝訴(のちの19年10月、最高裁でも遺族側の勝訴が確定)した。哲也自身は裁判を「好きじゃない」と話していたが、裁判を終えた英昭について「(今後は)自分の時間をしっかり取ってもらえればいいんじゃないかなって思います」と話した。

 そして震災から10年の2021年。哲也は番組スタッフに対し取材は今回きりにしてほしいと切り出した。自分自身が大川小学校の哲也であることを演じていた、と話し、「誰かのためじゃなくて自分のために時間を使わないといけない時期にきてるんじゃないかなと」と話す哲也の意思を番組スタッフも尊重。震災から10年にわたる哲也への取材が終了した。

 哲也と、また、先週放送の前編で出てきた福島県、南相馬市の絵里奈の2人は22歳、21歳だが、自分の思いを冷静に伝えるその姿はとてもしっかりしていて、大人びていた。現代日本に生きる、まだ社会に出ていない学生の22歳、21歳ならもっと浮ついてるくらいが普通だろう。

 哲也は、震災を経験した子どもは子どもではいられなかったと話していた。子ども時代を唐突に諦めなくてはいけなかった震災時の子どもたちの心境を思うと切ない。なので、哲也が中学生のときに反抗期で父、英昭と険悪な雰囲気になっているのを見て、逆にそういう子どもっぽい感情を出せるのだと、ほっとしてしまった。

 この放送の前編で、取材を受けた過去が重荷になっている哲也が気の毒だと書いたし、その思いは後編を見た今もあるが、過去はもう変えようがないことだ。哲也は自分が発している危機感に耳を傾け、そこから今後は取材を受けず自分のことを考えていくと決断し、さらにその決断を感じよくスタッフに伝えることができる。賢くて優しい青年だと思った。

 スタッフと哲也が別れるところで番組は終わったが、哲也は大丈夫だろう、と思える別れだった。

東北出身の人に「地震のとき大丈夫でしたか」と聞くことの重さ

 私は宮城県出身で、震災時は東京で生活していたが実家は今も宮城だ。出身や実家の話になると「震災の時にご実家は大丈夫でしたか?」とかなりよく聞かれる。3分の1くらいの人は聞いてきたのではないかと思うくらい聞かれた。

 相手に悪気はないのはわかるのだが、聞かれるたびにモヤっとしていた。「家族や友人を亡くしました」「家を失いました」と返ってくるかもしれない質問を、なんでそんなに軽く聞けるのだろう。そう返ってきたら、どうするつもりだったのだろう。

 今までは仕方なく話していたが、今回の前後編を見て「地震のことはあまり話したくないです」と、これからは気まずくなってもいいので言おうと思う。哲也を見て、私も哲也のように正直でありたいと思った。私が地震のときに感じたさまざまな気持ちの中には、今も残る強い憎しみもある。世間話のような状況で話せるようなものではない。

 この春、東北から上京してくる人も多いかと思うが、たぶん、そのほとんどの人が「地震のとき大丈夫でしたか?」と悪気なく聞いてくる人に会うと思う。悪気がないというより、あまりにも聞かれるので、聞くのが気遣い、マナーみたいに思っているフシすら感じる。もうちょっと想像してほしい。ここに書くことで少しでもそういう人が減ってくれればと願う。

 次週の『ザ・ノンフィクション』は「ふたりの1年生 〜新米先生と海の向こうから来た女の子〜」新米小学校教師、橘川先生のクラスには、日本語が話せない中国からの留学生、ナイヒちゃんがいた。新米教師と日本語がわからない2人の「1年生」の2年の記録。

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