元『19』岡平健治、ブレイク時も通帳と印鑑を預けていた「東京の母・小林さん」

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2021年05月08日 16:00  週刊女性PRIME

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写真元『19』の岡平健治
元『19』の岡平健治

「趣味程度ですが、今も音楽活動を続けています。この20年間ずっと音楽漬けだったので、今は自分の好きなタイミングでやろうと、ペースダウンさせている感じですね」

 そう話すのは、1990年代後半に絶大な人気を集めたデュオ・19(ジューク)の元ボーカル・岡平健治だ。

 19は、1998年に岡平、岩瀬敬吾、イラストレーターの326(ミツル)の3人で結成され、セカンドシングル『あの紙ヒコーキ くもり空わって』は、100万枚を越える大ヒットになった。2002年の19解散後、岡平はバンド『3B LAB.☆』(後に3B LAB.☆Sに改名)を経て、現在はソロでの音楽活動のほか、スタジオの経営なども行なっている。

「20年以上、まとまった休みがなかったんです。ひとつのグループを長く続けていたら、1、2年休憩というのもあったと思いますが、19、パンクバンド、そしてソロと3変化したので、休む暇もなくリリースをしていましたね」

 19の歴史は、岡平と岩瀬が出会ったことから始まる。

「広島の音楽仲間の友達伝いで、岩瀬さんと知り合って一緒に音楽をやり始めました。そのときは『少年フレンド』というバンド名でした。東京に出てきてから、事務所やレコード会社に入って、どう売り出していこうかと考えたときに、絵を描いてくれる326さんが加入して、自然と結成していました」

「19」は岡平の年齢だった

 デュオ名の由来は?

「名前は326さんがすでに決めていて。“なんで数字なんだろう?”とは思っていました(笑)。19という数字は、年齢から取ったものですね。当時、僕が19歳、岩瀬さんが20歳で、326さんが21歳。19歳って、大人でも子どもでもない、だけど社会に出ている人もいる、学生もいる、成人していないからお酒は飲めない……。とにかく微妙な年齢が一番の青春、思春期じゃないかという話をしたのを覚えています。それで、健治が19歳だから19でいいんじゃないと

『紙ヒコーキ』の作詞は326、作曲は岡平と岩瀬が担当した。

「曲よりも詞が先にあったり、詞を後からチェンジしたり、すごく入り組んだ状態でごちゃごちゃだったと思います。詞は326さん、曲のベースは岩瀬さんが作ったんですが、足りない部分は僕がメロディーをつけたり、プロデューサーもアイデアを出したり、みんなで作っていきましたね。正直、最初は売れないと思っていました。僕が売れると思ったものは売れない、僕が売れないと思ったものは売れるんです(笑)」

 大ヒットの裏には、当時ならではの理由も。

「1999年の春に、『紙ヒコーキ』がTBS系列のキャンペーン・ソングに選ばれたんですが、当時の事務所の社長とTBSの会長がたぶん仲よしだったと思うんですよね。今は(SNSなどで)自分から発信できますが、当時は俳優でもミュージシャンでも、選ばれしラッキーな人しかデビューできない時代だった。

 だから、社長にはすごく感謝しています。『紙ヒコーキ』のヒットは、テレビやラジオへの積極的なプロモーションに加えて、僕らのファッションが女性誌でもよく特集されていたので、相乗効果で売れていったんだと思いますね」

 2000年には2度目の紅白出場も果たしたが、2002年に人気絶頂の中で突如解散を発表した。

解散は僕から言いました。周りの環境に不満もあったけど、根本の理由は僕と岩瀬さんの関係性。だから、解散したことは申し訳ないなと思います。急に解散したので周りの方にすごく迷惑をかけたなと……。解散に伴うペナルティとかもありましたけど、それも乗り越えて今があります

 解散から19年、相方の岩瀬とは今も連絡を取り合う。

「この前、NHKのテレビに出演する機会があって、歌う前に岩瀬さんに電話をかけて“『紙ヒコーキ』と『以心伝心』歌うね”と伝えたら、“いいよ、歌って、歌って! 俺の曲もお前の曲も一緒じゃけんねえ”と言ってくれました。解散したことに後悔はない、と言ったら嘘になりますね。19を存続させた人生を見てみたかったですから」

岡平が慕う東京の母・小林さん

 岡平には、19時代から”東京の母”と慕う、小林さんという女性がいる。

「当時からずっと高円寺に住み続けていて、小林さんにも高円寺で出会いました。たまたま僕が小林さんのマンションを借りて住んでいたことがきっかけです。資産家の方なんですが、すごくいいご縁で。今も本籍地を小林さんのところにしているくらい(笑)。今は不動産の仕事もしているので、その関係で都内に本籍があると謄本が取りやすいので仕事がしやすくて。息子さんもいらっしゃるんですが、僕も息子のようにかわいがってもらいました」

 “母”のために、雑務も引き受けていたという。

19の全盛期でも、僕はただの“運転手兼雑用係”でしたからね(笑)。運転手として社交の場に連れて行っていただいて、そういう場所でいろいろな方に出会えたのはすごくよかったです。小林さんのために、電球の交換とか駐車場でのケンカの仲裁とかもしていました。仲裁に入ると“あれっ、19の人じゃん!”と気づかれることもあったんですが、面倒なので“いやいや、息子ですよ”と言って対応していましたね」

 2人の信頼関係を示す、驚きのエピソードも。

19のころは、お金の管理もしてもらっていました。だから、あんまりお金を使えなかったんですよ(笑)。僕の通帳と印鑑が、小林さんの自宅の仏壇の中に入っていたんです。“若いから、お金でおかしくなってほしくない”と預かっていてくれて、3年くらいはそのままでしたね。他人に通帳と印鑑を預けるなんて不思議な話ですよね。悪用されても仕方ないですから(笑)。

 でも、圧倒的な存在感ですぐに信頼できる人だとわかりました。小林さんとは今も連絡を取り合うのですが、体調があまりよくないそうなので、コロナ禍で会いづらくなってしまいましたね」

 山あり谷ありの人生を送ってきた岡平。今年3月には、半生を描いた自叙伝『私』(リットーミュージック刊)が発売され、Amazonの音楽書籍でベストセラー1位になった。42歳の今、今後の人生について思うことは?

「今の自分の生き方に納得はしていないです。多くの面で、まだまだ力が足りないなと思いますから。早ければ、もう38年くらいしたら死んでしまいますから、もう人生の折り返し地点。本当はやりたいことがありすぎて200歳まで生きたいんですけどね」 

 岡平の夢を乗せた紙ヒコーキは、まだまだ遠くまで飛んでいきそうだ。

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