成馬零一 × 西森路代が語る、ドラマ評論の現在地【後半】:価値観が変化する時代、“物語”が直面する課題とは

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2021年05月23日 12:11  リアルサウンド

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成馬零一×西森路代 評論家対談 後半

 ドラマやバラエティなど、数多ある番組のチェックは全録の導入でとても楽になったと語る西森路代氏とネット配信を活用しているという成馬零一氏。ともにテレビコンテンツに関する作品を刊行したばかりのふたりが対談を進めるなかで、話題になったのがドラマをはじめとするテレビ番組やそれぞれの批評における表現のあり方。今回はその話を中心にお届けする。(宮田文郎)


関連:「ドラマ批評」について2人が語り合った対談前半はこちら


■韓国のエンタメと日本のエンタメ、それぞれの姿勢


西森:私は常に韓国と日本の作品を比べながら見てるんですけど、そのなかで感じるのは韓国ドラマが好きな人は、日本のドラマをなかなか見ていなくて。でも、韓国ドラマとか韓国映画が好きな人こそ、面白いと思うような作品ってけっこうあるので、そういう作品もあるんですよってジレンマを感じています


成馬:西森さんの役割としては、普段、日本のドラマを見ていない人にも、良い作品がたくさんあるのだと言わなきゃいけないというのがあるんですね。


西森:そういう課題があるとは思ってないんですけど、あの韓国映画好きな人こそ、この日本のドラマ好きだと思うのになー、みたいな感じですかね。日本にはフェミニズムがドラマで描かれることが少ないと思われているんですけど、ぜんぜんそんなことなくて。今回『「テレビは見ない」と言うけれど』でも、その辺、韓国ドラマの現状については佐藤結さんが書かれていて、それもすごく勉強になりました。


成馬:そこは日本でも十把一絡げなところがありますね。『ハケンの品格』(2007年/日本テレビ系)や『ドクターX』(2012年〜/テレビ朝日系)みたいな、強い女性をスーパーヒロインとして出しておけばフェミニズムだと思っている作り手はいまだに多い。


西森:それとは別の流れとして、『妖怪シェアハウス』(2020年/テレビ朝日)みたいなものが出てきたのは面白いなって思います。


成馬:今クールのドラマを観ていると、これから社会派ドラマが増えていきそうな気配はありますよね。ただ、日本の場合はまだ、社会問題や政治的なテーマを具体的に描くというよりは、寓話の形で抽象化されたものの方が主流なのかなと思います。だから『俺の家の話』(2021年/TBS系)みたいなホームドラマの方が、すごく政治的な話に見える。


西森:そうですね。どうしてもドラマっていうのは、そうなるものなのかなとは思います。でも、身近な話にこそ政治性が宿るってのは基本的なことだし、最近はそういう作品が多いし、そういうものが面白いですね。


■自分の作家性を信じてる人がいちばん危うい?


西森:あと今期のドラマってけっこう空気感が切実っぽいじゃないですか。たとえば『生きるとか死ぬとか父親とか』(テレビ東京系)は、特に一話なんですけど、映像が切実っぽいというか、トーンも落ち着いてて。凄みがありましたね。映像のトーンとして『きれいのくに』とかにも近いものを感じます。なにかすごいものがこのドラマには描かれるんじゃないかという感じが画面から漂ってくる。


成馬:その不穏さから目が話せないというか。ドラマを観ていると、原作者のジェーン・スーはどう思ってるんだろう? と思います。山戸結希が撮る時点である程度は覚悟していたと思うのですが、あれこそ批評の持つ暴力だと思うんですよね。ジェーン・スーがお父さんとの関係を綴ったエッセイの構造に対して、監督の山戸結希がどういう風に思っているかが、残酷なぐらい画面に現れている。


西森:私も父親に対して、アンビバレントな感情を持ちつつ、どう折り合いをつけながら生きていくか、みたいなことがテーマなんだなと思うと、やっぱり見てざわつくのが反応として合っている作品なんですよね。そこは、放送前にプロデューサーの佐久間宣行さんと祖父江里奈さんにインタビューしたときに気づいて。でも、そういう指摘をTwitterでしてるのは、成馬さん以外にあんまり見たことがないですね。


成馬:向田邦子の時代から父と娘の関係を描くという流れはテレビドラマにあるのですが、仲の良い父娘の関係に次の時代を象徴する「何か」が現れているのかもしれないですね。山戸結希って2010年代に出てきた映画監督の中では、すごく重要な存在だと思うんですよ。先鋭的な映像表現を得意とする若手女性監督が感性のおもむくままに撮っていると思われがちですけど、個人的には凄く批評的なアプローチをする映画監督だと思っていて。たとえば少女漫画を原作とする『溺れるナイフ』と『ホットギミック  ガールミーツボーイ』は、2010年代にヒットコンテンツだったキラキラ映画に対する辛辣な批評となっている。特に『ホットギミック』はそれが顕著で、本来なら少女たちの王子様として描かれるはずのイケメン男子たちが得体のしれない怪物にしか見えなくて「でもそれが日本の現実でしょ」と作品自体が主張しているようで「おぞましい迫力」があった。この映画の公開された2019年の時点ではすでにキラキラ映画のブームが終わっていたので、あまりクリティカルなものではなかったですけど、何がやりたいのかはよくわかった。今回の『生きるとか死ぬとか父親とか』は『ホットギミック』にあったキラキラ映画に対する批評の刃を、父娘関係に向けているところがあって、彼女の作品にある「おぞましい迫力」が容赦なく発揮されていた。


西森:山戸さんがこの原作を選んだのはそこなのかなあとも思って。そういう矛盾したことが書けないのが自分にとっても、最近のちょっとしたコンプレックスではありますね。まあ、批評とエッセイとかの違いもあるかもしれないけれど。


成馬:それも今の時代だから感じることかもしれないですね。倫理的に一貫した「正しさ」が求められたのが2010年代後半だったと思うので。変な言い方になりますが『テレビは見ないと言うけれど』は、表の西森さんのしっかりとした仕事を読んだという感じなんですよ。逆に『韓国映画・ドラマーーわたしたちのおしゃべりの記録2014〜2020』(駒草出版)は、ハン・トンヒョンさんとの対話を通して作品を掘り下げる中で話題が二転三転していくので、表の西森さんも裏の西森さんも楽しめた。僕の『テレビドラマクロニクル 1990〜2020』は『「テレビは見ない」と言うけれど』の書き方に近いと思うんですよ。自分の中にある手癖や意見は極力抑えて、起こった出来事の記録を極力客観的に綴ろうという気持ちで書いていました。


西森:ほんとですか。私は意外と、成馬さんの『テレビドラマクロニクル』が、『わたしたちのおしゃべりの記録』のアプローチに近いような気がしていました。確かに、対話するからこそ、いったりきたりするということが出来て、そういうことは自分ひとりで書いていく上でも必要だなと思いました。たぶん、これからは、そっちに寄っていくかもしれない。ひとりで綴るときって、客観的になってしまいますよねどうしても。女性芸人にインタビューをしていく企画が始まったんですけど、ひとりひとり考えが違うので、これから1年くらいは、いろんな人の話を聞くという中で、いろんなアンビバレントさに直面する年になっていきそうかなと思います。これが正しいとか簡単にジャッジできないと思うので。


成馬:批評の対象となる作品に引っ張られたのかなぁと思うのですが、西森さんの本で中心に書かれていた2010年代後半の作品ほど「記録」として書こうと意識したころはあります。少し話が飛びますが、宮藤官九郎は一度脚本の書き方を変えたと思うんですよ。


 おそらく『ごめんね青春!』(2014年/TBS系)までは、自分の内側から出てくる感性で作品を書いていたと思うのですが、その次に書かれた『ゆとりですがなにか』(2016年/日本テレビ系)では、得意としている手法を封印し、ゆとり世代を取材し、プロットを決めないで書くというやり方を模索している。『ゆとりですがなにか』は『Mother』(2010年)と『Woman』(2013年/日本テレビ系)といった坂元裕二作品を見て、自分もこういう作品を書きたいと思って書かれた作品なのですが、その結果、坂元裕二の書き方を取り入れているのが面白くて、その後の作品でも丁寧に取材して書いている節がある。つまり、作家として自分の内側にあるものを素直に出すのではなくて、一度、対象を取材して社会のフィルターを通した上で書こうとしている。その前提を踏まえた上で、作家としての落とし所を探ってる感じがするんですよね。


西森:そうですよね。確実に。『監獄のお姫さま』(2017年/TBS系)や『いだてん』(2019年/NHK総合)は、『ごめんね青春!』を書いた頃から何か変わってないと書けなかっただろうと思うから。『「テレビは見ない」と言うけれと』にも書きましたが、宮藤官九郎ほんとに劇的に変わったなと感じはしましたね、いいほうに。


成馬:逆に言うと、今は自分の作家性を盲信して感性で書いてる人がいちばん危うい感じがするんですよね。特にドラマの脚本家は平均年齢が高いので、感性で書くと現代とはズレた価値観が暴走してしまう。野木亜紀子脚本の『MIU404』(2020年/TBS系)の第1話で、星野源が演じる志摩一未が「俺は自分も他人も信用しない」と言う場面があるじゃないですか。あれがいちばん誠実なやり方で、世の中の価値観が目まぐるしく変わっているので自分の感性だけで書くと、間違ったことを書いてしまうような気がするんですよね。


西森:私はつい最近までは、そういう理屈で考えて書くことが重要だと思っていたんですけど、さっきも言ったように、そうは言っても、それではどうにもならないことがあるということの重要性が日に日に気になるようになってきてて。


成馬:社会におけるあるべき姿とは別に人間のあるべき姿みたいなものが個人の中にあるのではないか? みたいな話ですよね。『テレビドラマクロニクル』に関して言うと、自分の感性ではなく、この時期のテレビドラマに何が起こったかを客観的に記そうって気持ちで書いたんですよね。だからこそ、自分にはわからない「無意識」の部分がにじみ出ている可能性が出てるんじゃないかと心配で、あまり触れてないんですよね。


西森:無意識は出ていてもいいんじゃないですか。


成馬:「無意識」にも何度もフィルターをかけて鍛え抜かれたものと、だらしなくダダ漏れしているものがあると思うんですよね。僕の場合は後者に対する不安が強い。言い換えると、自分が生きていく中で内面化した古いジェンダー観や無自覚なハラスメントといった「有害な男らしさ」ですね。『俺の家の話』で言うところの「殺気」が、油断すると無意識に溢れ出してしまうのではないかという不安が常にあります。無自覚にひどいことを言って相手を傷つけてしまうものじゃないですか、人間って。


西森:そうなんですよ。でも、今は、それを抑えることはそこから見えるものを抑えてしまうことになって。ちょっと前まではそんなことなかったんだけど。というか、無意識が出てしまうことを起点として、また考えていくということは重要なんじゃないかって。『わたしたちのおしゃべりの記録』に出てしまったのも、私の無意識ってことだろうとは思うんですよね。


成馬:西森さんが書いているものを読むと、そういうものは信じない人なんだって感じがあったので、それは意外ですね。


西森:確かに去年まではなかったかもしれません。『人志とたけし』で杉田さんと対談したときはなかったんですよね。なんか、社会的な変化を見ていての限界を読み取ったのかもしれません。「殺気」みたいなものをいいとは思ってないんだけど、わかったうえのほうがいいのかなあって。『俺の家の話』はやっぱり「殺気」の話があるからよかったと思うんです。なんか「あれはどういうことだったんだろう」ってずっと残りますよね。


■宮藤官九郎が進む「誰も傷つけない」の次のフェーズ


成馬:宮藤官九郎は、社会的に正しいことを書きたいというわけではなくて、笑えることが一番だと思っている人だと思うんですよ。だから、フェミニズムのことを書いているというよりは、フェミニズムやポリティカル・コレクトネスに根ざした現代的な価値観と今の日本に温存されている旧来の男社会の価値観が衝突した時に起きるコンフリクトをどう「笑い」に変えるかというのが、たぶん『監獄のお姫さま』や『俺の家の話』のスタンスだと思うんですよね。


西森:それで言うと、その衝突みたいなものを書いてるのは同じでも『ごめんね青春!』までは消化の仕方がフェミニズムでは絶対に解決しないっていう視点があったと思うんですよ。でも、『監獄のお姫様』以降は、フェミニズムもとりこんだ上で、宮藤官九郎なりの考えを見つけ出そうとしている感じはありますね。


――バラエティだと第七世代や傷つけない笑いの台頭がありましたけど、ドラマでもそれは感じますか。


成馬:それはありますね。坂元裕二が『問題のあるレストラン』(2015年/フジテレビ系)や『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016年/フジテレビ系)を経て『カルテット』(2017年/TBS系)へと向かったことが象徴的だと思いますね。『ひよっこ』(2017年/NHK総合)以降の岡田惠和にも同じことが言えます。元々、『ちゅらさん』(2001年/NHK総合)を筆頭にユートピア的な楽しい共同体を描く脚本家ではあったのですが、その裏側には現実の暴力性が常に描かれていた。その暴力性が全面に出たのが『銭ゲバ』(2009年/日本テレビ系)だったのですが、それ以降、試行錯誤を繰り返す中で表向きは誰も傷つけない優しい世界に見える『ひよっこ』へとたどり着いた。


 『家政婦のミタ』(2011年/日本テレビ系)の遊川和彦も露悪的な作品を書いていた作家でしたが『過保護のカホコ』(2017年/日本テレビ系)あたりから変わりましたね。おそらく『半沢直樹』(TBS系)が放送された2013年が露悪的な表現のピークで、それ以降、前述した3人の作家も作風を少しずつ変えていった。もしかしたら宮藤官九郎の作風の変化も、そういう流れの中にあるのかもしれない。


西森:でも宮藤官九郎はそこに対してもう一回、何か違和感とかを紛れ込まそうとしてるのかなとは思うんです。お笑いの第七世代も一見優しい、誰も傷つけない笑をやってるようなイメージはあるかもしれないけど、去年の『M-1』(テレビ朝日系)とかでマヂカルラブリーはそういう流れとは別のものを見せようとしていたし、他の人たちもギリギリのところを書こうとする欲望が強くなってる気がして。今期は、最初にも言いましたが、不穏で何かを訴えかけているような空気のドラマも増えていて、「優しい」世界を描くというのとはちょっと違うようにも見えますね。


――次のフェーズに?


西森:より、ギリギリのとこまで突き詰めようとしてる感じですかね。宮藤官九郎の『俺の家の話』での「殺気」の話とかも、単にあらまほしき世界のために最適化していくだけの危うさみたいなものを感じてんだろうなっていう気はしています。ただ単に優しい表現に満ちただけの作品ばかりでいいんだろうかっていうのはあると思うので。だって現実にはそうは簡単にいかないんだとしたら、それって逃げにもなってしまいますよね。


成馬:『俺の家の話』は、今のポリコレ的な基準に合わせて物語を作ろうとしたら、寿一(長瀬智也)が「殺気」に象徴される内なる「有害な男らしさ」を消し去り、父親の寿三郎(西田敏行)が亡くなったあと、新しい時代の父として、新しい家族を作ってく話になるのが最適解だと思うんですよ。


西森:そうですね。でも、そうはしなかったんですよね。しかも、もとの奥さんの新しい夫が、寿一の「殺気」みたいなものとは真逆のタイプで。


成馬:あの二人目のお父さんの在り方が今の時代の正解ですよね。『逃げるは恥だが役に立つ』(2016年/TBS系)の平匡さん(星野源)タイプと言いますか。


西森:そうですね。でも、それに対しての違和感をさくら(戸田恵梨香)が言うシーンがあって、みんなざわざわしてたんだけど、あれをそのまま正解みたいに書かないところにいい意味でも悪い意味でもすごく引っかかったんです。ないほうが確実に人にざわつきを与えないんだけれど。ずっと社会には良い方向に向かって進んでほしいという思いを強く抱いて何年間も過ごしてきたけど、世の中はそうではないことが多くて、それを全員が目指したからといって、本当にそれは目指すところにたどり着くんだろうかって。だったら、その矛盾を無視していてもいけないのではないかって。それを宮藤官九郎は書いてたんだろうなという気はするんです。『テレビドラマクロニクル』には、野木亜紀子さんの作品が倫理で進んでるのをそれだけでいいのかみたいなことも書いてましたよね。


■現代の「正しさ」を請け負ってしまった野木亜紀子


成馬:『逃げ恥』のスペシャル(2021年)に対して批判的な意見が多く見られたのは、野木亜紀子作品の受け止められ方が変わりつつある気がしますね。逆に言うと、批判されるくらい作家としての存在感が大きくなったとも言えます。


西森:やっぱり、2021年に、優しくてこうであったらいいなという世界を書くと、余計にその中にある矛盾が目立ってしまうんじゃないかなって。2016年には見えなかったものが見えるようになってしまったんだなと。それこそ社会的なドラマに対しての解像度が上がる人は上がってしまった。それは、野木さんが、いろんな作品を通して見せてきたからこそでもあったわけなんですよね。他のドラマになにか違和感がある台詞があっても、スルーされてると思うんですよ。


成馬:『逃げ恥』自体が半分誤解によって支持されていたという側面もありますよね。 連続ドラマが作られた2016年当時は、あくまでメインにあるのは楽しいラブコメで、フェミニズム的な価値観は全面に打ち出されていなかった。対して、2021年のスペシャルドラマはテーマ性が全面に打ち出されているため、説教臭く感じる人や、扱っているテーマには同意するが、恵まれた立場にある人のファンタジーでしかない「現実には無理」という批判が出てくるのは、ある意味、ちゃんと観られていることの証明という気もします。


 おそらく野木亜紀子作品の中で一番バランスが良いのは『アンナチュラル』(2018年/TBS系)だと思うんですよ。一方で彼女には『獣になれない私たち』(2018年/日本テレビ系)のようなハードな路線もあるのですが、視聴者に圧倒的に支持されているのは『アンナチュラル』の路線ですよね。TBSで作られた『逃げ恥』『アンナチュラル』『MIU404』の路線って、作家個人の意思を超えて、作品の根底にある「正しさ」を求める視聴者がSNSでシーンを盛り上げてきたところがあるので、そういった時代状況も含めて語らないといけないのが、難しいところですよね。


西森:たしかに。社会が変わっていってる感じがね。昔だったら「問題提起をよくしてくれた」って感じだけど、今はそれじゃもう「ただ羅列してるだけ」って言われてしまう。もちろん、野木さんの昨今の作品は、『MIU404』なんかを見ても、そういうことから前に進んでるんですが、『逃げ恥』は2016年の作品の続編だし、制作側も当時の気分を残したまま作ろうとなるのは当然のことで。


成馬:同時にテーマ主義的に、今の時代の正しさを示そうとする中で、野木亜紀子自身が切り捨ててしまったことも、いくつかあったと思うんですよ。


西森:今日、そればっかり言ってますが、矛盾したことを隠さずに書きながらじゃないと、ただ単に望ましいものを書くだけではもう難しくなってるんじゃないかなというのが実感ですね。『逃げ恥』への正しさへの期待みたいなものが大きすぎて、その中にある個人の矛盾を視聴者が受け入れられなくなったのかなとも思うんです。


成馬:時代の要請もあったと思うのですが、作家として「正しさ」を引き受けてしまったことの不幸を野木亜紀子には感じるんですよね。だからこそ、今のテレビドラマを論じる上で欠かせない脚本家になったことは間違いないのですが。


西森:そうだと思います。けっこうこれって、自分にも重なるところがあるし、もちろん野木さんも感じてるかもしれなくて、今後の作品にも表れてくるかもしれないと思うんです。ちょっとでも「あれ?」って思わせてしまうと、正しくないじゃんって言われてしまう可能性がある。それこそ、「殺気」の話みたいなもの、社会にまだ現存する違和感や本音みたいなものを入れてかないと逆に批判されてしまう可能性がある。矛盾した個人の思いを描くことで、本質にも触れてるみたいなものが増える感じはするんですよね。それが100%いい表現なのかどうかはわからないんですけどね。


成馬:本でも書いたのですが、2010年代後半のテレビドラマは、現実にどれだけ近いかを競うゲームみたいになってしまったところがあると思うんですよ。ポリコレをベースにした現代的な「正しさ」を提示することはもちろん、現実の出来事を忠実に再現することが一番の正解となったときに、それを踏まえた上で虚構(フィクション)は何を示せるのかというテーマが宮藤官九郎を筆頭とするドラマ脚本家が追求するようになった。『シン・ゴジラ』風に言うと「現実 対 虚構」ですよね。その時に野木亜紀子は「正しさ」を引き受けることで最前線に躍り出たのだと思うんですよ。でも『MIU404』の終盤を見ていると、そんな彼女ですらどこか戸惑っているように見える。コロナ禍の影響もあったと思うのですが『アンナチュラル』に比べると『MIU404』は歪な作品で、最後に対決する犯罪者の久住(菅田将暉)の描き方には作り手の迷いが伺える。でも、その迷いがあるからこそ、あの作品は魅力的だったと思うんですよ。だから現代的な「正しさ」を踏まえた上で、次は何を書くのかというところに、もう来ているのかもしれないですね。


(取材・文=宮田文郎)


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