下重暁子が明かす小三治師匠のイキな姿と談志師匠との関係

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2021年10月29日 07:00  AERA dot.

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写真下重暁子・作家
下重暁子・作家
 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、今月亡くなった10代目柳家小三治師匠について。


*  *  *


 小三治師匠が亡くなった。食事をし、外出から帰って、家人も気付かぬうちにひっそり息を引き取っていた。日常に組みこまれたさり気ない死。いかにも小三治師匠らしい大往生だ。


 私は東京やなぎ句会に何度もゲストとして参加し、句友でもあった。俳号は土茶(どさ)。私はなぜか師匠の句を「天」(最上の評価)にすることが多かった。師匠もまた、私の句をたびたび天に抜いてくれた。


 この句会は、天・地・人と自分が選んだ句には、何か賞品をもっていく。土茶さんにいただいたものでは、手作りの黒いこうもり傘。江戸職人の流れを汲む頑丈で大きなもので、どんな嵐にも耐えられそうだ。


 私はシャイで優しい小三治さんが大好きだった。若い頃はオートバイやオーディオに凝り、高田馬場の線路脇のご自宅にインタビューに伺うと、玄関でナナハンが出迎えてくれた。


 音楽、特にクラシックに詳しく、歌のリサイタルを開いたことも。途中、幼い頃の想い出を語り歌いはじめると、目に涙があった。感受性の強い人で神経質でもあり、常に多くの薬を持ち歩いていた。決して健康とはいえなかったが、体の声を聞いて折り合いをつけていた。おしゃれでどこかに本藍が一色入っていた。


 お酒は飲めないので、岩波書店の応接室で句会が終わると、夜風に吹かれてインバネスのような外套を羽おった師匠を囲んで歩く。イキだった。


 そういえば、小三治のマクラ全集が出ているほど、高座のマクラは面白く、政治、社会の話にも言いしれぬ趣があった。マクラだけで終わりそうになると、次の演題はきりっとマクラなしでまとまって、その緩急のつけ方の妙。高座は人気でなかなか券がとれなかった。


 晩年、落語協会の会長もつとめ人間国宝になったが、若い頃から小さん一門では談志と並び称される存在だった。談志が破門され、立川流を作り弟子を増やしていったのに比べ、小三治さんにはいつも独りの影があり、そこに惹かれた。




 私は談志師匠とも同じ年のよしみで親しかった。あの博識、不条理な噺。日頃は淋しがり屋で、いつも弟子を連れ西銀座の“美弥(みや)”というバーに集っていた。紀伊國屋書店の創業者・田辺茂一氏に心酔、奥に鞄と帽子が置かれていた。


 NHKアナウンサーだった田辺氏の長男・礼一氏から紹介され、一緒に酒を飲んだり花見をしたり。新幹線の中で偶然出会った時はグリーン車の一番後ろで田辺茂一伝の原稿を一杯にひろげ、推敲(すいこう)していた。いたずらがみつかったのを恥じるように私を見て笑った。


 ガンで声が出なくなっても私の対談には出てくれた。私は談志さんも小三治さんも大ファンだ。


 しかし二人は正反対。句会の席で小三治さんが談志さんを辛辣に批判するのも聞いたが、最後に必ずこう言った。


「だけど今、自分が落語が出来るのは談志がいたから」


 これぞ本物のライバルである。


下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

※週刊朝日  2021年11月5日号



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