川上麻衣子「芸能界は居心地が悪い」役者・スウェーデンへの思い・保護猫活動「私が3つの顔を持つ理由」

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2023年06月24日 16:00  週刊女性PRIME

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俳優・川上麻衣子(57)撮影/矢島泰輔

「今は、俳優業とスウェーデンデザインをコンセプトとしたお店と猫のための社団法人で、活動は3分割くらいの割合なんです」

 俳優とは、役を演じることでさまざまな顔を見せる職業だ。しかし、川上麻衣子は実生活でもいろいろな顔を持っている。芸能界での活動だけでなく、スウェーデン小物を販売するショップを経営したり、ガラスデザイナーの顔を持っていたり、はたまた、猫の保護活動に精を出したりもする。いろいろなことを器用にこなせる、生粋の俳優というイメージが彼女にはあるけれど、本人はそれを否定する。

俳優・川上麻衣子「芸能界だけっていうのは性に合わない」

「デビューが早くて、そのころは学業あっての芸能界だったし、芸能界だけっていうのはどうも性に合わない気がします。もともと、芸能界はあんまり合わないんですよね。なんか、居心地が悪いっていうのかな(笑)。そこにどっぷり浸かるというより、なにか軸みたいなものがどこかにないと不安なのかもしれないですね」

 川上が意図してさまざまな顔を持つ理由のひとつに、名優からのアドバイスがあったらしい。

「一時期、三國連太郎さんと同じマネージャーだったんですけど、そのとき三國さんが『俳優は3年間で持ってるものを出し尽くしてしまう』というお話をされていたんです。だから、『3年たったら、また新しいものを蓄えないと俳優業は続けられない』って。芸能界で芝居を学ぶとか、踊りを習うということではなく、毎日、電車に乗って職場に通ったり、普通の生活をすることで見えてくるものはたくさんある。それが俳優業に生かされていくことが、私はいちばん理想だと思うんです」

 多くの俳優は、彼女のような考えを持っていないと思う。これまでの半生で、彼女はさまざまなものを吸収し、そして蓄えてきていた。例えば、スウェーデンからの影響だ。

 スウェーデンのストックホルムで生まれた川上は、1歳で帰国。その後、9歳になったころに再びスウェーデンで生活するようになった。インテリアデザイナーである母・玲子さんが2年間仕事をするために発ち、一人っ子である川上もそれについていったのだ。

「スウェーデンの学校って、生徒を子ども扱いしないんですね。だから、みんな机に乗っかって先生と対等にしゃべるし、授業がわからなかったら『ちょっと待って、わかんないよ!』って、そんな感じなんです。私も子どもだったからスウェーデンに順応しやすくて、母が言うには、スウェーデン語をしゃべるときの私の態度がひどかったみたいなんですね(笑)」

 当時の娘の様子について、母・玲子さんが苦笑交じりに振り返ってくれた。

「スウェーデン語をしゃべりだすと、ポケットに手を突っ込んで大人顔負けの生意気な子になっちゃうんです(笑)。日本語もたどたどしい感じになってましたし、態度が日本人ではなくなったので、『このままでは日本で生活できなくなるかもしれない』と怖くなり、泣く泣くスウェーデンの滞在は1年で終えて日本に帰ってきました」

 帰国してから、またしても川上の人生は急変する。まず、学校の授業にまったくついていけなくなった。

「スウェーデンにいたときは天才扱いされたんですよ。当時の日本の教育は世界的に見ても水準が高くて、九九を覚えていったので算数の先生より計算が早かったし、そんなふうにもてはやされていたけど、日本に帰ってきたら体育と音楽と美術以外は全部いちばん下くらいに落っこちちゃって(笑)

 ただ、当時の担任が音楽の先生で、ものすごく教育熱心な方だったんです。私は英語ができたので、学芸会でやる英語劇のミュージカル『メリー・ポピンズ』の主役に抜擢してくれて、そこで訓練してくださったのがきっかけで『人前でなにかすることが合ってるかもしれない』と思うようになったんです」

待ち受けていた運命の出会い

 さらに、運命的な出会いが彼女を待ち受けていた。川上の両親は共にインテリアデザイナーの職についており、孫の面倒を見るため、母方の祖父母が近所に引っ越してきてくれたのだ。彼女は祖父母の家に入り浸った。

その隣に住んでいらしたのが、当時、『太陽にほえろ!』とか『ゆうひが丘の総理大臣』を書いてらっしゃった脚本家の畑嶺明先生で、『太陽にほえろ!』の放送前の台本をいつも私にくださったんです。だから、私はその台本を覚えて、放送を見ながら『ここが変わってる!』って楽しんでいました(笑)

 こうしたさまざまな出会いにより、川上には目標ができた。俳優に憧れるようになったのだ。中学在学中である1978年より、彼女は児童劇団「ピノキオ」でレッスンを受けるようになった。当時について、玲子さんが振り返る。

「そういう年頃になっただけと思って、最初は反対してたんです。無視してたんですね(笑)。ただ、そのころの麻衣子はちょっと早口だったので、劇団に入ったら直るかなとも思って。そこからは、劇団の方から『実際にドラマに出たほうが勉強になりますよ』って説き伏せられました」

 劇団側が両親を説得にかかるほど、最初から有望株だった。

 彼女がデビューを果たしたのは、TBS東芝日曜劇場『娘が出ていくとき』というドラマである。主演・杉田かおるの友達役として、ワンシーンのみの出演だ。しかし、共演者の顔ぶれがすごい。故・杉村春子さん、故・山岡久乃さん、草笛光子という錚々たる顔ぶれ。加えてプロデューサーは石井ふく子、脚本は故・田井洋子さんという大御所だらけの作品であった。つまり、川上は推されていた。

『金八先生』放送のたびに憂うつに

 そして、彼女はブレイクする。1980年10月にスタートした『3年B組金八先生』(TBS系)の第2シリーズで迫田八重子役を演じることになったのだ。同作で加藤優役を演じ、国民的な人気者になった俳優・直江喜一は、現在も川上との交流を続ける盟友である。直江は川上のことを、今も「八重子」と、役名で呼んでいるという。

オーディションで会ったとき、話はしてないのですが『この子は受かるな!』と思いました。それだけ、八重子(川上)に華があったんだと思います」(直江)

『金八先生』第2シリーズにおいては、直江演じる加藤と、故・沖田浩之さん演じる松浦悟、そして川上演じる八重子の3人が作品の主軸ともいうべき存在だった。そして、この3人は三角関係のような設定でもあった。特に沖田さんは、『金八先生』以前より竹の子族のメンバーとして多くの女性ファンを持つ人気者。しかも、当時は“マジ”になるファンばかりである。川上は女性視聴者から嫉妬の対象になってしまった。

「ヒロくん(沖田さん)のファンが、とにかく怖かったんです。ちょっとヤンキーっぽい子も多かったから、街を歩いてたら石を投げられたり、よくいじめられましたよ。あと、“あなたを嫌いと言ってる人リスト”とか『みんな、あなたのことが嫌いです』と血判状みたいなのが送られてきたり。全国の中学生の90パーセント以上が見ているようなドラマだったから、うつっぽい状態にはなりましたね……

 当時の川上の状態には、直江も気づいていたようだ。

「撮影中、そんな話は本人から聞いていました。ショックだったようでしたけど、そんななかでも明るく健気にみんなと仲良く話したりして、逆に彼女のことをすごいなと思っていました」

 翌1981年、社会現象にもなった『金八先生』第2シリーズは最終回を迎えた。

「忙しかったせいもあるんでしょうけど、当時のことはあんまり覚えてないんです。ただ、放送になるたびに何か言われてしまうので憂うつな気持ちになるのと、終わったときには解放されてホッとしたことを覚えています」

多忙を極めていた俳優・川上麻衣子

 記憶がなくなるほど、当時の川上は多忙を極めていた。休めない、というほかに家族みんなが懸念していたのは、川上は小学生のころから私立の玉川学園に通っており、出席日数が足りなくなっていたことだった。

 実は、『金八先生』出演に際し、学校側からは「このドラマが終わったら芸能生活はやめてください」という条件が提示されていた。上り調子だった川上は、同年から芸能生活を休止する。

「芸能活動を一度やめて、その間もヒロくんやつかさちゃん(伊藤つかさ)といった仲間たちがテレビで活躍しているのを見て、『私もあそこにいたんだ』という気持ちが芽生えたんです。あと、休んでいてもオファー自体はいただくんですね。でも、全部断らなきゃいけなくて、後でほかの方がやっているのを見て『私だったらこうしてたのに』と思うと、またやりたいなという気持ちが強くなっていきました」

 結局、玉川学園からNHK学園に編入し、女優復帰を果たした。なんと、両親には頼らず、すべて自分で手続きを行ったという。

そのへんは自分で勝手に調べて、自分で決断して、私には事後報告でした。本人がそう決めちゃった(笑)」(玲子さん)

重度の知的障害者の役で復帰

 復帰した川上が最初に出た映画は、市川崑監督の『幸福』('81年)だった。

 彼女が演じたのは、重度の知的障害者。家の柱にしがみつき、ずっとよだれを垂れ流し、言葉もしゃべれず呻き続ける少女の役であった。母親役を演じたのは、故・市原悦子さんだ。

「私には(役を演じる)自信がないし、社交的なほうでもなかったから、楽屋ではじっと黙っていたんです。そうしたら、市原さんから『演じづらくてつらいだろうけど、女優としては最高の役だと思う。こんな若いうちから重要な役を任されるなんて本当に運がいいんだから、頑張んなさい』と言っていただいて。本当にありがたかったです」

 当時、川上に付いていたマネージャーは大竹しのぶを発掘した人物だった。つまり、川上の眼前には大竹のような演技派女優の道へ進むレールが敷かれていたのだ。そして市原悦子のような本格派は、まさに川上にとって目標とするべき存在だった。

「あんまり人がやらないような役をやったほうがいいっていうのは、目指すところではありましたね」

 川上が18歳になったころ、雑誌『写楽』で篠山紀信撮影による彼女のヌードグラビアが発表された。

「最初の劇団をやめて、樋口可南子さんや手塚理美さんがいらっしゃる事務所に入ったんですね。おふたりがちょうど、篠山さん撮影のヌード写真集で話題になっていたころでした。ただ、当時の私は16歳だったから、社長に『ヌードは絶対やりませんよ』と事前に言っていて(笑)。だけど、やっぱり篠山さんに会うことになっちゃうんですよね。で、篠山さんは『撮りたい』と。で、私も篠山さんに撮っていただけるのはうれしいんですよ。でも、『裸はちょっと……』というのはあったんですけど。

 そこからはもう、流れですよね。当時は出版社にお金があったから、撮影でドイツまで行って。写真を撮るときは、やっぱり現場で脱ぐ方向にいくんですよね。ただ、その撮影が部屋の中でとか、下着から徐々に……とかだったらやらなかったですけど、裸で野原をワーッと駆け回っちゃえみたいな企画だったので、それ自体にはあまり抵抗がなかったんです

 このときのヌード撮影は、「撮ってはみたけど、世間には出さないでおきましょう」という約束のもとで行われた……はずだった。

父の後押しでヌード写真公開

「日本に帰ってきて、篠山さんのスタジオで両親と一緒にできあがった写真を見たんです。大きいスクリーンで、クラシックをかけて、すごい発表会を開いていただいて。そのときは、『どこまで世間に見せるか相談しましょう』ということだったんですけど、もちろん母は大激怒でした。『そんなの、絶対ダメよ!』って。ただ、写真好きの父は大拍手で、『こんなすばらしい写真を世間に見せないなんて!』って。父がそんなことを言っちゃったから、周りも『じゃあ、やりましょう』ということになって(笑)」

「人があまりやりたがらない役を演じる」という仕事ぶりと、ヌードも辞さない姿勢ゆえか、俳優・川上麻衣子には“色気と艶のある女性”というイメージが強い。それは、本人も認識するところのようだ。

「そう言われることは多かったですね(苦笑)。日活の映画『うれしはずかし物語』('88年)の主演もあったし、10代後半から24〜25歳のころはわりとそういう色っぽい役が多かったです。でも、普段の私は本当に色気がないから、男性はみなさん『えっ?』っていう感じになりますよ(苦笑)。もっと色っぽいと思っていた人がたくさんいるみたいです」

 月に3度は一緒に飲みに行くという、いちばんの“飲み友達”である落語家の三遊亭好楽さんが、プライベートの川上について教えてくれた。

「私にいわせたら、『川上麻衣子には艶がある』っていわれたら、どこが? って感じ(笑)。男っぽくポンポン話して、実にカッコいい人ですね」

 好楽さんは否定したが、世の男性陣の目には川上麻衣子は“恋多き女性”に映る。実際、数々の恋愛を重ねてきたのでは?

「それは……、いっぱいありましたよね(笑)。そりゃあ、10代から30代くらいの若いときは芸能界も華やかだったし。今は写真を撮られちゃったり、不自由なことも多いと思いますけど」

 いや。川上も過去に何度か写真を撮られ、多くの男性との恋が噂されている。

「その中には、本当のこともあれば、本当じゃないのも混じっていて。本当じゃない報道がいちばん面倒なんですよね(笑)」

故・志村けんさんとの噂は

 例えば、過去に故・志村けんさんと噂されたこともあったが……。

「志村さんとは本当に何もなくて(笑)。まあ、仲良かったですからね。私と可愛かずみちゃんが同じマンションに住んでいるころ、志村さんは暇だったんです。自分の番組以外は出なかった時期だったので。だから、私たちが仕事に行って、仕事が終わったら3人で会って、雑魚寝とかしてましたからね。みんな独身で、みんな寂しがり屋で、みんな酒好きだったので」

 その後、川上と志村さんが同じマンションに住んでいた時期もあった。

「私が港区のマンションに引っ越したんですけど、志村さんに送ってもらったときがあって、外からマンションを見た瞬間に、志村さんが『僕もここに住みたい』って。三鷹に家はあるけど、品川から乗る新幹線が近いからという理由らしいです。

 私がそのマンションに入居したときは空いている部屋が22階の1部屋しかなくて、その後に入ってきた志村さんは18階の部屋だったんです。ただ、どちらも同じ間取りだけど、そのマンションは1階上がるごとに家賃が5000円も上がったんですね。22階と18階って、家賃が全然違うじゃないですか? だから、家賃を下げたくて、私が『すみません、志村さんの18階の部屋と私の22階を交換してください』って、住む部屋を交換してもらいました(笑)」

 恋仲と誤解された志村さんという存在がいる一方、川上が芸能界における“お父さん”として慕っていたのは故・山城新伍さんだ。晩年は元俳優の花園ひろみさんと離婚し、長女である元俳優と疎遠になっていた山城さん。彼は、川上を実の娘と重ね合わせて見ていたふしがある。

「山城さんの娘さんと私が同い年で、私の母と山城さんが同い年なんですね。最初の出会いも、山城さんが愛人との間につくった娘が私……という設定のドラマだったので、本当に可愛がってくれましたね。山城さんがいてくれることが本当に心強くて。特に、京都にある東映の撮影所なんて厳しい社会じゃないですか。でも、『山城さんが可愛がってる子だよ』と伝わるだけで、皆さんからよくしてもらえたんです」

山城新伍さんが面会を許した数少ない芸能人

 晩年は老人ホームに入居し、かつての仲間の面会も拒絶していたという山城さん。そんななか、山城さんが面会を許した数少ない芸能人の1人が川上であった。

それまでは月に1〜2回くらい、『何してるの?』『ごはん食べよう』という連絡があったんですけど、突然、ぷっつりと連絡が取れなくなって。『施設に入っている』という噂だけはあったので、私もいろいろ伝手をたどっていったんです。

 そしてあるとき、どこかの女性誌が……もしかしたら、週刊女性かな? そこに山城さんの状態が良くないという記事が載っていたので、それを見て編集部まで電話して、山城さんがいる施設の場所を聞いたんです。面会に行ったときは、見ても山城さんとはわからない状態でした。もう、ちっちゃくなっていたので。でも、それでも『麻衣ちゃん』って呼んでくれて、思い出話もしてくださったので、その日はすごくいい状態だったんだと思います

 面会の約10日後、山城さんは亡くなった。川上にとって、山城さんは“芸能界のお父さん”のような存在だった。

子どもが欲しくて養子縁組を考えたことも

 30歳になったころ、川上は中学の同級生だった男性と結婚した。そして、その4年後の2000年に離婚している。

「離婚の理由は……原因をひとつだけ挙げるのはすごく難しいんですけど、子どもがいなかったから離婚したということではないです。だけど、いたら離婚してないんじゃないかなっていう気持ちはありました。ふたりきりだと、どうしてもふたりの問題に集中しちゃうので。

 結婚したのが30歳だったから、子どもを早めに欲しいなとは思っていたんですよね。一時期は『3か月後のことはわからないから』って、舞台の仕事を一切入れないようにしてたんですけど、妊娠する兆候が2〜3年なかったので、それを言っててもしょうがないなって。

 ただ、不妊治療をやるつもりは全然なく、自然に任せようということは決めていました。私が仕事を頑張りすぎたのか、私の食生活なんかがよくなかったのか(苦笑)」

 川上が離婚したのは、約20年前の話である。現在は皆の知識と理解が深まり、子どもを授からない理由として男性不妊の可能性もうかがい知る社会だ。しかし、当時は女性にばかり責任が押しつけられがちだった。要するに、子どもを授からない負い目をひとりで背負っていたということはなかったのだろうか?

「どうなんですかねえ……? ただ、実は養子縁組を考えたこともあったんです。だけど詳しく調べたら、当時は夫婦のどちらかが仕事をやめなきゃいけないとか厳しい条件が結構あって、『これは無理だな』ということになりました」

川上家ゆかりの地で猫の保護活動の日々

 '93年から、ガラス工芸制作の活動をスタートさせた。現在、ガラスデザイナーとしての顔も持つ彼女のガラス工芸歴は、なんと30年である。

「スウェーデンは“ガラスの王国”と言われているぐらいガラス工芸が盛んで、私も昔からスウェーデンのガラスを集めていたんです。それを知ったNHKの方が、ガラスをテーマにした特集番組に私を呼んでくださって。その番組で講師を務めていたガラス工芸作家の石井康治さんに『そんなにガラスが好きだったら、工房に一度吹きにいらっしゃい』と言われ、すぐに体験しに行ったんです。それがもう本当に面白くて、すぐにハマってしまい、本格的にガラス工芸を始めた感じですね」

 川上が2016年にオープンした『SWEDEN GRACE』は、スウェーデンの北欧小物と彼女が制作したデザインガラスを展示・販売するセレクトショップだ。

 店の前には、川上がスウェーデンで赤ちゃんのころに使用していたという、クラシックなベビーカーが置かれている。川上家の物持ちのよさと、家族仲のよさがうかがえるようだ。

「芸能の仕事もありますから、すべての営業日に店に立つことはさすがに無理なのですが、意外にいますよ(笑)」

 現在の川上の活動には、3本の柱がある。俳優業と、ガラスデザイナーとしてのショップ運営、そして猫の保護活動だ。

「今、家で飼っている2匹の猫ちゃんは、どちらも保護された子です」

 保護活動の中でも現在、最も力を入れているのは、ウェブ上に作った猫と人が共生する街『NYANAKA TOWN(にゃなかタウン)』の運営だ。

一般社団法人『neko–to–kyo』の立ち上げ

「2018年に『neko–to–kyo』という一般社団法人を立ち上げたんです。徹底的に猫に取り組もうと思って、猫について勉強できる飼い主さんのためのアカデミーも設立しました。猫の飼い主さんって、横のつながりが少ないですよね。『NYANAKA TOWN』に登録してもらえれば、猫の困ったことが起きたときに対応できるようになっています」

 猫を好きになったのは、18歳のころ。実家でペットが飼えなかったので、「ひとり暮らしをしたらペットを飼いたい」と決めていて、犬のシーズーを飼うつもりだった。しかし、ペットショップに行くとそこにいた猫のヒマラヤンと目が合ってしまい、それからは急速に猫派へ。ちなみに、『SWEDEN GRACE』は東京・千駄木に位置する。“猫の街”として知られる谷根千エリアだ。

「父がこの辺りで育って、川上家のお墓が谷中にあるんですね。たまたまなんですけど」

 猫の活動を始めたのは、保護猫ボランティア団体の代表から「保護猫の譲渡会の会場として店を使わせてほしい」と依頼を受けたことがきっかけだった。

 俳優を志したいきさつも、皆から一目置かれる演技派俳優になったのも、ガラス工芸作りや猫の保護活動を始めた経緯も、何かしらの力が作用し、彼女は導かれてきたような印象を受ける。

「本当にそうですね。そういうことがなかったら、道はなかったのかもしれない」

 節目節目で流れに乗り、いつしかその道の本格派になっている。

 記事冒頭では否定したが、川上麻衣子という人はやはり“生粋”という言葉がしっくりくる気がする。

<取材・文/寺西ジャジューカ>
てらにし・じゃじゅーか 1978年東京都生まれ。数年間の他業種での活動を経てライターに転身。得意分野は、芸能、音楽、(昔の)プロレスと格闘技。『証言UWF』、『証言1・4』、『証言 長州力』(いずれも宝島社)などに執筆。

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