オリックス・近藤大亮「今を大切に」。逝去したアイスホッケー界のレジェンド、義祖父の若林仁さんに誓う完全復活

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2023年08月15日 06:12  ベースボールキング

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近藤大亮 [写真=北野正樹]
◆ 猛牛ストーリー【第89回:近藤大亮】

 2023年シーズンにリーグ3連覇、2年連続の日本一を目指すオリックス。監督、コーチ、選手、スタッフらの思いを、「猛牛ストーリー」として随時紹介していきます。

 第89回は、近藤大亮投手(32)です。トミー・ジョン(T・J)手術から復活し、2年ぶりに支配下選手に戻った昨季、リーグ連覇と日本シリーズ(日本S)制覇に貢献。

 しかし、復活2年目の今季は9試合に登板しただけで、2軍で調整を続けています。7月9日に妻の祖父、元プロアイスホッケー選手で日本アイスホッケー連盟副会長を務めた若林仁さんが80歳で逝去。亡くなる前日に授かった「いつなんどきでも100%。 Do your best」の言葉を胸に、完全復活を誓いました。


◆ 「何も言い訳せず100%、自分のベストを尽くす」

 若林さんは、カナダ生まれ。米ミシガン大でアイスホッケー選手として活躍し、「メル若林」の名前で日本リーグの西武鉄道や国土計画でプレー。弟の若林修さんとともに、日本リーグ草創期に活躍し日本のアイスホッケーの競技力向上に貢献した。現役引退後は、国土計画監督や日本アイスホッケー連盟の強化本部長、副会長も務め、7月9日に病気のため亡くなった。

 体調を崩して約4か月。7月8日に病状が悪化し、近藤は2軍での練習後、新幹線に飛び乗り、午後4時前に都内の病院にたどり着いた。

「ダディー」。近藤が声を掛けると、若林さんは目を開き、近藤の右手を握って「いつなんどきでも100%。Do your best、Do your best。頑張りましょう」と力強い声で返した。

 意識は混濁しており、ほとんど会話が出来ない状態が続いていたが、近藤と認識していたという。

「正直に言って、心が折れそうになったことは何度もありました。でも、この言葉に奮い立ちました。自分の置かれた環境などを考えることなく、何も言い訳せず100%、自分のベストを尽くそうと」


 復帰2年目。並々ならぬ思いがあった。「いい年の翌年だからこそ、さらにひたむきに取り組もう」と、春季キャンプでは、球界でもトップクラスの回転数2850回転を誇るストレートにさらに磨きをかけた。

 厳しい自主トレーニングを一緒に行う、阿部翔太が「大亮さんのストレートは、分かっていても打てないボール」と憧れるストレート。腰を深く沈め、右足に力をため込むフォームから繰り出すストレートは、うなりを立てるかのようにミットに吸い込まれていった。

 しかし、開幕から登板した7試合のうち、3試合に失点して4月下旬に降格。6月3日に再昇格を果たしたが、7日の巨人戦(京セラドーム大阪)で0−8の9回から登板し2安打、2失点。防御率5.79で、結局、2試合に登板しただけで再び降格。


◆ 「チームのどのポジションにでも当てはまるパーツになりたい」

 昨年の日本S第2戦。3−3で登板した延長12回、12球で3者凡退に仕留めたストレートで、簡単に仕留められなくなってしまったのが原因だった。

「ストレートに的を張られて、それがファウルになって勝負が決まらなくなることが多くありました。僕が打者でもそうしますからね。球数も多くなって連投することが出来なくなったため、変化球も含めて持てる球を磨き、打者の打ち取り方に取り組んで来ました」と近藤。

 フォームも変わった。パワーをため込んで打者に立ち向かう剛腕から、「なるべく脱力をして力感のないフォームで、いかにスムーズに効率よく力を伝えられるか。変化球も安定しますし、打者の反応もそちらの方がいいんです」
 
 若林さんの言葉を聞いてから7試合に各1イニング登板し、失点、自責点は0。防御率も1.61に。8月10日のソフトバンク戦(杉本商事BS舞洲)では打者3人を9球で仕留めるなど、4試合で投球数16球以下の好投だった。


「自分が生きようと、一番苦しい、つらい時に、僕にまで『頑張りましょう』と言ってくれる。俺は何をやっているんだ。今、力を出さずにいつ出すんだ。今を大切にしようと思った瞬間でした」


 親族からは「ずっと応援していましたが、今季の成績を心配して、どうしても近藤さんに伝えたかった言葉だったのでしょう」と、言葉の意味を伝えられた。

 パナソニック時代は、社会人野球の試合を球場で応援。新人で開幕2戦目の先発を任された16年3月26日のプロ初登板時は西武プリンス(現ベルーナドーム)に駆け付け声援を送ってくれた。

 昨年4月に背番号「124」から「20」に戻り、日本Sに登板するまで復活した姿を、誰よりも喜んでくれたのも若林さんだった。

「優しくて、強くて、寛大で、誰からも尊敬されるカッコいい人。こんな男になりたいと思う、僕の憧れでした」と近藤。

 近藤が面会した8日に若林さんは、日本アイスホッケー連盟の設立50周年記念式典で「特別功労賞」を受賞。連盟は「現役引退後は、日本代表のコーチを務め、1980年のレークプラシッド五輪では監督を務めました。1984年から10年間、国土計画の監督を務め、2011年からは強化本部長を務め、女子代表のソチ五輪出場にも大きく貢献されました」と称えた。

 ファームでは一回りも違う若い選手とバスで移動し、ロッカーのない地方球場での試合も経験した。

 若い投手から「マウンドで、どのような感覚で投げているんですか」「変化球を投げる時のイメージは」などと聞かれることが多い。アドバイスを送るが、逆に近藤が変化球の握りを教えてもらうこともあるという。

「1軍では自分のことで精一杯でした。育成時代はリハビリ中心の別メニューで、こんなに若い選手と一緒に過ごすことはありませんでした。ケガもなくこんなに長く2軍に居るのは、プロ8年目で初めて。1軍に居るのが当たり前だと思っていた自分がいましたが、野球人生をいかに長く、活躍できるようにするかを考えると、今のこの時間は絶対に必要なこと。レベルアップをして、チームのどのポジションにでも当てはまるパーツになりたいと思います」

 アスリートの大先輩でもあるアイスホッケー界のレジェンドから送られた最期の言葉を胸に、必要とされる日を静かに待つ。


取材・文=北野正樹(きたの・まさき)

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