「声が出るうちは現役ですよ」レジェンド声優・神谷明が後輩たちに伝える“声優の道”

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2023年08月20日 11:00  週刊女性PRIME

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声優・神谷明(76)撮影/山田智絵

 将来、なりたい職業は? 小学生に尋ねた調査では、いまや必ず「声優」が上位に入る。声優は、いつから子どもたちの憧れの仕事になったのか? 時代を紐解くと、その潮流の中心には、間違いなく神谷明がいた─。

レジェンド声優・神谷明

「'70年代後半、『宇宙戦艦ヤマト』がきっかけだったと思いますけれども、アニメブームとともに第2次声優ブームが起きたんです。アニメソング(アニソン)の歌手のみなさんと一緒に声優が出演するイベントが各地で開催されるようになると、数千人のファンが全国から集まって、徹夜組まで出る盛況ぶりでした」

 と、神谷は振り返る。それ以前に、第1次声優ブームと呼ばれた時代があった。人気を集めたのは、アラン・ドロンの吹き替えをやった野沢那智さんら、外国映画の日本語版で有名スターの声を担当した役者陣。しかし、当時の日本の俳優にとって声の仕事は、必ずしも“本業”ではなかった。ヒッチコックの吹き替えで知られ、テレビ放送が始まる前からディズニー長編アニメの声優も担当していた熊倉一雄さんが当時を語った新聞記事にはこうある。

《僕らが声優を始めたころは、陰の声として裏方的な扱いだった/そう言っては何ですが、素晴らしいアルバイトでした》(東京新聞「アニメ大国の肖像」'07年3月15/22日)

 神谷と同い年('46年生まれ)で、『うる星やつら』(諸星あたる役)などに出演した声優の古川登志夫は言う。

「僕らの先輩方の中には、声優と呼ばれることを快く思っていなかった人たちもいて、声の仕事は俳優として食えない連中がやるものだという雰囲気があった。ところが、アニメの仕事が増えてきたころ、神谷さんは僕にこう言ったんです。“音楽活動が中心ならミュージシャンと呼ばれる、声の仕事が中心の自分たちが声優と呼ばれて何を恥じることがあるんだ”と」

 声優という呼び方を受け入れ、プライドを持って神谷は自らの仕事に取り組んだ。古川は言葉を続ける。

「アニメ雑誌が創刊されると、神谷さんは“声優界のプリンス”といったキャッチフレーズとともに表紙やグラビアを飾った。神谷明は、第2次声優ブームの先頭を走っていましたね」

 第1次ブームでは顔を出さない“陰”の存在だった声優たちが、扉を開けて表に出始めたきっかけに、ことごとく神谷は関わっていた。象徴的だったのは'77年に登場した『スラップスティック』。かまやつひろしさん、すぎやまこういちさん、弾厚作(加山雄三)らが楽曲を提供した“伝説の声優バンド”で、神谷はその結成メンバーだった。

「仲間とスナックで歌っていたときに“バンドやろうか?”という話になってね。もともとエレキをやってた曽我部和恭君がリードギター、野島昭生さんがサイドギター、僕がリズム感のないベース(笑)。ドラムスに古谷徹君を引っ張り込んで、古川登志夫ちゃんがギターで加わって、スラップスティックは5人で始まったんです。横浜にある古谷君の実家に押しかけて、2階の彼の部屋に音漏れ防止の大きな発泡スチロールの板を立てかけ、ガンガン音を出して練習していました」

 もともと趣味で始めたバンドだったが、翌'78年に東京・新橋のヤクルトホール(現ニッショーホール)でコンサートを開くと会場は超満員。そのステージに立っていた古川は、こう述懐する。

「舞台の上からメンバー紹介をすると、“ベース、神谷明!”って告げた瞬間に大歓声で、僕の紹介のときとは観客のリアクションが露骨に違った(笑)。ファンのお目当ては明らかに神谷明でしたよ」

すべてがたまたまパイオニアだっただけ

 しかし、スラップスティックが脚光を浴びると、神谷はバンドを脱退。

「趣味なら失敗しても“あ、いけねぇ”で済んだけれども、プロとして活動すれば、それは通用しないから純粋に楽しめない。だから、“ゴメン、辞めさせて”って」

 バンドを辞めても神谷の人気はとどまるところを知らなかった。ラジオでは看板番組がつくられ、'79年には深夜放送『オールナイトニッポン(土曜2部)』で声優初のDJを務めた。アニソン以外の楽曲でレコードデビュー('79年・『マイ・ウェイ』)を果たした最初の声優も神谷。初めてワンマンショー('79年・日劇)を開催した声優も神谷。声優が活躍する場を、神谷はどんどん広げた。

あれよあれよという感じでしたけれども、すべてがたまたまパイオニアだっただけで、自分で道を切り拓いたという意識は全然ないんです。

 自分の実力と時代に合った仕事を運よくいただき、現場で育ててもらったというのが正直な思いです。まだガヤ(その他大勢)の役でいろいろな経験を積ませてもらっていたときは、現場に必ずたてかべ和也さんと肝付兼太さんがいらっしゃって……」

 大山のぶ代さんが主役を演じた『ドラえもん』シリーズで、たてかべさんはジャイアン役を、肝付さんはスネ夫役を担当した。駆け出しの神谷は、ジャイアンとスネ夫に弟分のようにかわいがられた。

「“こいつ、神谷っていうんだ、いいヤツだからヨロシクな!”って、本当に首根っこをつかんでみんなに紹介してくれるような感じでした。実は何十年もたってから、“どうしてあんなに僕に良くしてくれたんですか?”と、たてかべさんに聞いてみたことがあるんですよ」

 答えは、こうだった。

「おまえはな、子どものころから苦労してきただろ? そいつがどこまで頑張るか、オレは見たかったんだよ」

「あいつは声がいい」と才能を見抜かれて

 神谷が生まれ育ったのは横浜。幼いころ両親は離婚したが、その記憶はないという。

「いつの間にか母親がいなくなって……。おふくろは野毛のバーで働いていたらしく、僕と弟は鶴見にある伯母さんの家に預けられた。その伯母さんが、実はおふくろの母親だと後からわかってね。複雑だからNHKの『ファミリーヒストリー』には怖くて出られない(笑)」

 小学5年生のとき、鶴見の家に来た母親から言われた。

「おかあちゃんと一緒に、コッペパンをかじってでも一緒にいたい?」

「うん! 一緒にいたい!!」

 即答すると、母は息子2人を引き取り、大田区蒲田に部屋を借りた。

「近所の人たちも、みんないい人でね。友達にも恵まれていたから、子どものころに苦労したという記憶は僕にはないんですよ」

 中学を卒業すると、都立の芝商業高等学校に進学。

「仲のよかった友達と同じ私立の高校に行きたかったんだけれども、おふくろは水商売でしょ。私立はお金もかかるし、厳しかった。

 それに、卒業したら自分が働いて家族を支えなければならないという思いも強かったんです」

 高校では珠算部に入ったものの、同級生からこう声をかけられた。

「演劇部に来ないか?」

 部室まで連れて行かれたが、その気はない。隙を見て逃げたが、2学期になって再び誘われた。2度も誘ってくれた理由は、後から知った。

「あいつは声がいい」と、演劇部の顧問が神谷の才能を見抜いていたのだ。

「演劇部に入ったら、卒業生の送別会で演じる劇の主役をいただいたんです。演劇のことは何も知らなかったけれど、先輩たちの演技が素晴らしくて、芝居っておもしろいなと思って珠算部は辞めちゃった」

 舞台で演じることへの興味に、自身の進路も揺らいだ。

「卒業したら芸人さんになりたいと思って、大宮デン助さんに弟子入りしようと浅草まで行ったこともありました。だけど、訪ねる根性もなくて(笑)、浅草演芸場の前をウロウロしただけで、すごすごと帰ってきた」

 卒業後はレストランに就職。コックの仕事にも興味が湧いた。が、商業高校を出ている神谷は半年で経理に回される。これが自分のやりたい仕事なのか? 疑問を感じながら働くうちに胃下垂を患った。半年ほど養生している間に職場では席がなくなる。居場所を失った神谷は、自分の正直な欲求に突き動かされた。

「やっぱり芝居をやりたくてね。それには芸能界と縁のある仕事がいいと思い、スポーツ新聞の求人欄で探して、懐メロ歌手の大御所・霧島昇さんの付き人をやったこともありました。

 だけど、僕は歌手になりたいわけじゃないし、芸能人とのつながりも生まれなかったから、数か月で逃げちゃって(笑)。で、貿易会社に就職して、横浜にある『かに座』というアマチュア劇団に入ったんです」

 アマチュア劇団で活動しながら、プロの舞台も見て回った。そのときに衝撃を受けたのが、『劇団俳優小劇場』で演じられていた『カチカチ山』。

「太宰治の『お伽草子』にある原作の文章をそのまま生かした斬新な舞台で、あれを見て僕は“役者になりたい”と本気で思ったんです」

ポジティブ思考でプロの役者の世界へー

 プロになるため、アマチュア劇団に退団を告げると大反対された。引き留めではない。「神谷は背が低いからプロの役者はムリだ」と、努力ではカバーできない欠点を指摘されたのである。しかし、

「そういうハンデを抱えているけど頑張れ!という意味に僕は受け取ったの(笑)」

『劇団俳優小劇場』の入所案内を取り寄せると、月謝が高くて払えそうにない。演劇雑誌でほかを探していると劇団テアトル・エコーの記事に目が留まった。月謝もなんとか払えそうだし、募集要項を読むと若い役者を育てようという愛が感じられた。気がかりだったのは自分が支えるべき家族。だが、母に打ち明けると「自分で選んだ道なら頑張りなさい」と背中を押された。テアトル・エコーの入所試験のとき、劇団が発行している広報新聞を見て驚いた。

「熊倉一雄さん主演で『カチカチ山』をやっていたんです。絶対ここに入れてもらわなければと思いましたね」

 ところが、筆記は散々だった。緞帳が読めずに「だんちょう」と書いた。それでも合格通知が届いたのは、実地試験と面接で評価された結果だろう。'70年、テアトル・エコーの研究生となった神谷は、23歳8か月でプロの役者としての一歩を踏み出した。

「稽古場には熊倉さん、山田康雄さん、納谷悟朗さんといった素晴らしい先輩たちがいた。山田さんはよくエチュード(即興劇)の指導をしてくれて、中途半端に上っ面だけなぞっていると、“おまえら、浅草に売るぞ!”って叱咤されましたよ」

 まだアマチュアに毛が生えた程度の実力。しかし、初めて受けた声の仕事のオーディションで神谷は最終選考まで残った。使えるかもしれない─と考えたマネージャーが、慌てて仕事を見つけてくる。アニメ『魔法のマコちゃん』のその他大勢の役。この作品が神谷の声優デビューになった。

「アフレコの現場では右も左もわからず、後ろのほうでしゃべっていたら、“何やってんだ!”って先輩たちにマイクの前まで突き飛ばされてね。セリフを言ってから反省していると、“終わったら早くどけ!”とド突かれた。こんなんじゃ使ってもらえないなと落ち込んだのが声優デビューの思い出ですよ」

 それでも仕事は次々に入ってきた。脇役ながら『いなかっぺ大将』('70年)、『赤き血のイレブン』('70年)、『科学忍者隊ガッチャマン』('72年)等々。

 そして'73年、『バビル2世』や『荒野の少年イサム』で主役に抜擢。

「“下手だなー”って自分では思っていましたよ。陰のある役をカッコよく演じる小林清志さんや井上真樹夫さんの芝居を指をくわえて横目で見ていた」

“叫びの神谷”の異名で唯一無二の存在へと

 現場で間近に見る先輩たちの演技は、生きたお手本だった。表現力を貪欲に吸収し、“自分らしさ”を追求した。そして『ゲッターロボ』('74年)や『勇者ライディーン』('75年)で主役を務めると、神谷は一気に存在感を示す。クライマックスでの渾身のかけ声。“叫びの神谷”という異名とともに、アニメ業界では「ロボット作品なら神谷明を使え」という気運が生まれた。前出の古川は言う。

「僕も『未来ロボ ダルタニアス』という作品で主役をいただいたとき、登場シーンで“ダルタニアス!”と叫んでみたんです。そしたらある人から“石焼き芋〜”に聞こえると言われましてね(笑)。そんなとき、神谷さんから、そこは語尾を上げればいいんだよと、かけ声のコツをレクチャーしてもらったことがある。

 そういう表現方法は声優にとっては企業秘密みたいなものなんですが、それを同業者に惜しげもなく教えてくれるところが神谷さんにはあるんです」

 声優として売れっ子になり始めた神谷と、電車の中で十数年ぶりにばったり再会した高校時代の同級生がいる。演劇部で部長も務めていた佐藤正治である。

「僕は劇団で芝居を続けていて、“食えるか?”って聞かれたから“食えないよ”と正直に答えると、“声優やってみないか?”って神谷が誘ってくれたんです。で、アフレコの現場をいくつか見学させてくれて、神谷が里中智役で出ていた『ドカベン』では、後半に少しだけ出演させてもらったりもしました」

 声優の道に入った佐藤は、『銀河鉄道999』('78年)などの作品で活躍。一方、神谷は第2次声優ブームを牽引する人気絶頂の中で、実は悩んでいた。二枚目の主役を張りながら、自分がお手本としてきた先輩たちのレベルにはまだまだ達していない……。

「自分自身に納得できない毎日が続いていましたね。自分のやりたい演技が、頭の中ではできるんです。的は見えている、でも投げると当たらない。そんな感覚でした」

二枚目、三枚目も演じ切る表現力の源とは

 転機は『うる星やつら』('81年)。古川が演じた主役の諸星あたるのライバル、面堂終太郎が神谷の役。二枚目ながら、時に面倒を起こす個性豊かなキャラクターだ。

「怖かったけど、アフレコで思いっ切り弾けてみたんですよ。そしたら監督から“ダメ”って言われなかった。好きに演じることを許していただいたというか、ようやく自分が自由になれたと思いました」

『キン肉マン』('83年)では、あえてダミ声で三枚目キャラのキン肉スグルを演じた。ヌケた演技の手本になったのは、駆け出しのころに影響を受けた熊倉一雄さんの芝居。自らも楽しみながら演じることで、アドリブも自然に入れられるようになったと神谷は言う。そして『北斗の拳』('84年)。オーディションで神谷とともに主役のケンシロウ役を競った古川は言う。

「格闘シーンでの“アタタタタッ!”っていうケンシロウのかけ声、あれをオーディションで聞いた瞬間に僕は負けたと思いました。後で神谷さんに聞いたら、ブルース・リーの映画を見てかけ声を研究し、布団に潜って近所迷惑にならないように何度も練習した、と。自分がやりたい役を必死で勝ち取ろうとする神谷さんの姿勢と努力は、僕も見習わなきゃと思いましたよ」

 神谷の誘いで声優になった佐藤は、『キン肉マン』でも『北斗の拳』でも共演している。変幻自在の神谷の表現力は、古典芸能への造詣とも無関係ではないと佐藤は述べる。

「1人のキャラクターがさまざまな個性を演じるのは落語に通じます。神谷は狂言の舞台に上がったこともありますからね。とにかく研究熱心なんですよ。声優は、キャラクターに色を塗る仕事だと神谷は言います。スグルのおもしろさも、ケンシロウのカッコよさも、神谷にしかできない色使いのなせる技ですよ」

 人気、実力ともに神谷は声優界のトップランナーとなった。だからこそ担える役割もあった。'95年1月17日。阪神・淡路大震災が起きると、神谷は声優界の内外に被災地支援を広く呼びかけた。

「50人くらい集まりましたね。レコード会社や関西のラジオ局も全面協力してくれて、神戸でチャリティーコンサートをやりました」

 神谷がリーダーを務めるチャリティーイベントは、その後も新潟県中越地震('04年)や東日本大震災('11年)、西日本豪雨('18年)など、大きな災害が起こるたびに各地で開催された。'95年から神谷の復興支援活動に参加している友人─、社会風刺コント集団『ザ・ニュースペーパー』の浜田太一は述べる。

「神谷さんと熊本の児童養護施設を回ったことがあったんですが、子どもたちが心を閉ざしていたんです。神谷さんの歌や僕のコントで、子どもたちは少しずつ心を開いてくれたんですけど、神谷さんは納得しなかった。“来年も来るよ”って約束して、2年目は子どもたちも明るく盛り上がってくれたことがありました。子どもに夢を与える仕事に対する責任感でしょうね」

 神谷は、声優を目指す若者たちの育成にも積極的に関わっている。'96年から'21年にわたり日本工学院専門学校の講師を務め、現在でも主宰するインターネットラジオの番組に学生たちを参加させている。

「“Saeba Radio”では、僕も神谷さんから番組を1本持たせてもらって、学生たちと一緒におしゃべりしています」(浜田)

「声優人生の集大成」冴羽獠というキャラ

 “冴羽獠”は、いまや神谷明の代名詞でもある。週刊少年ジャンプに連載され、'87年にアニメ化された『シティーハンター』の主人公・冴羽獠は、神谷が「自らの声優人生の集大成」と述べるほどのハマり役。自身の個人事務所も「冴羽商事」と名付けている。『シティーハンター』の初代監督である、こだま兼嗣は言う。

「冴羽獠を演じられるのは神谷さんしかいないと私は思っていました。でも、神谷さんは週刊少年ジャンプ連載の作品に何本も出ているという理由で、制作に入る前に編集部からNGが出たんです」

 そうとは知らず、たまたま神谷は週刊少年ジャンプの編集部に顔を出した。すると、編集長から問われた。

「『シティーハンター』、やりたい?」

 迷いはない。「もちろん!」と即答すると、状況は一変。主役の冴羽獠役は土壇場で神谷に決まった。 

「神谷さんがOKになった時点で、『シティーハンター』は成功すると思いましたし、そのとおりになりました。マンガではセクハラまがいのシーンもいっぱいあるんですけれど(笑)、例えば“もっこり”というセリフでも、神谷さんは明るく爽やかに表現してくれた。私が驚いたのは、番組に毎週ファンレターが段ボール箱いっぱいに届くんですが、その9割が女性からだったんです」

 シリアスな二枚目も、女たらしでドジな三枚目も、変幻自在に演じる神谷の冴羽獠は、男性からも女性からも好かれるヒーローとなった。

「『シティーハンター』で、やっと僕も山田康雄さんたちの域に近づけたかな」

 と、神谷は相好を崩す。『シティーハンター』は、'93年には香港でジャッキー・チェン主演の実写版が製作され海外でもたびたびリメイクされる人気作品となった。

 '19年。日本でも約20年ぶりに『劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉』が公開。このとき神谷は72歳。声優は50代からポテンシャルが落ち始めるといわれるが、

「20年前と変わらぬ声が出せるよう、一生懸命リハビリして収録に臨みましたよ(笑)」

 と神谷は話す。アニメの世界では、過去作品の復活は成功しないというジンクスがあるものの、『新宿プライベート・アイズ』は観客動員100万人を超える大ヒットとなった。そして今秋、冴羽獠が帰ってくる。『劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)』で、物語はいよいよ最終章を迎える。この作品で総監督を務めたこだまは言う。

「今まで避けてきたストーリーに正面から取り組みました。激しいアクションシーンが見どころですが、戦いを終えた後にも注目してください。獠の思いを表現する神谷さんの見事な演技には物語のすべてが集約されていて、私も収録のときから鳥肌が立った」

 神谷も「やり切った」と、会心の笑みを浮かべる。

「前作は公開の日まで気持ちの中に自信と不安が同居していましたが、今回は自信しかないんです。劇場に足を運んでもらえたら、最後は大泣きすると思いますよ」

 映画は「最終章」だが、声優・神谷明の仕事にまだまだエンディングは訪れない。新作公開中の9月に77歳を迎える神谷を“レジェンド”と呼ぶファンもいる。だが、今もトップランナーであり続ける神谷に“伝説”の二文字はふさわしくない。

これまで、自分にできることを続けてきました。これからも、自分にできることを続けていきたい。声が出るうちは“現役”ですよ。

 若い世代と同じ土俵に上がって、オーディションでいろんな役に挑戦したいんです。その姿を見せることが、後輩たちに僕が伝えられる“声優の道”でもあると思っています─

<取材・文/伴田 薫>

はんだ・かおる ノンフィクションライター。人物、プロジェクトを中心に取材・執筆。『炎を見ろ 赤き城の伝説』が中3国語教科書(光村図書・平成18〜23年度)に掲載。著書に『下町ボブスレー 世界へ、終わりなき挑戦』(NHK出版)。

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  • ジャンプアニメで、楽しませていただきました。ケンシロウもキン肉マンも冴羽獠も大好きです
    • イイネ!75
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