“花の82年組”を謳歌した女優・准看護師の北原佐和子、高齢社会を支える元アイドルの道

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2023年11月26日 11:00  週刊女性PRIME

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女優、准看護師・北原佐和子(59)撮影/佐藤靖彦

 東京・三鷹にある認知症専門『のぞみメモリークリニック』で、北原佐和子(59)は准看護師として忙しく働く。すらりとした体形を今もキープし、温和な笑みを絶やさない。

“花の82年組”と呼ばれるアイドルの一人だったとは思えない

「診察、お願いします。2診は精査、薬です」

「3診、出血フォローお願いします」

 よく通る声でドクターと話し、立ち働く姿は、“花の82年組”と呼ばれるアイドルの一人だったとは、とても思えない。それでも時代劇やサスペンス、昼メロなどテレビドラマによく出ていることから、“あれ、似ているね”と気づく人もいる。41歳でホームヘルパーの資格を取得して以来、女優としてドラマや映画の撮影に臨む合間に、介護施設などで働いてきた。ここには2022年夏、クリニック側から声をかけられ、勤務を始めた。

 肌身離さず持っている小さなノートは、お手製の虎の巻で、ことあるごとに確認する。のぞくと、医療についての知識や技術が几帳面な字でびっしり書き込まれていた。

 子どものころから“職業は看護師か教育者か警察官を選びなさい”と親に言われて育った。看護師になった妹を“親の言うことを聞いて偉い”と親は褒めたが、北原が介護の道に進もうとしたときは“お姉ちゃんにできるはずがない”と言われた。年子なのもあり、姉妹は何かと比較され育てられた。芸能界に入る前、親には激しく反対を受けた。20代前半になってもまだ“学校に戻りなさい”と叱られた。准看護師の資格を取得したとき、親はようやく安堵した。

 親の心配はそれほど長く続いたのだ。

スカウトされた美少女

 1964年3月、北原は東京・池袋の鬼子母神近くの病院で生まれた。それから埼玉県の朝霞、上福岡と引っ越しが続いた。銀行の住宅ローンが普及して郊外にマイホームを手に入れ、都心から引っ越す家庭が多い時代だった。

 少女時代はとても内気で、ちょっとしたことでよく泣いた。親戚などが集まると、みんなの前で歌ったり踊ったりする陽気な妹。そんなときに親の後ろに隠れる内気な少女だったのが北原だ。思春期を迎え、心に変化が生じる。毎日決まった時間に目覚まし時計で起き、決まった時間に家を出て、同じ時間の電車に乗って通学するという日々の繰り返しに、疑問を覚えたのだ。北原は当時を振り返る。

「はたから見れば、ずいぶん不思議な子どもだったのかもしれません。新鮮なことに目を向けたくなって、友達と写真を撮り合い、雑誌の読者コーナーに送ってみました。別に自信があったわけではなく、悪ふざけのつもりで。それが運よく、1ページでどんと大きく載ったのです。一緒に撮った友達は写真を送っていなかったんですけどね」

 月刊誌『エムシーシスター』(婦人画報社)に掲載された写真を見て、大手プロダクションがスカウトをしてきた。マネージャーが写真を撮り、広告代理店に持ち込んだが、仕事には結びつかなかった。演技レッスンを受けるように指示され、出向いた先は薄暗いアパートの狭い一室。そこに“先生”がいて、セリフを読まされるなどした。

「子ども心になんとも怪しげな空間でした。恐怖を感じ、“私はどうしたらいいですか”とマネージャーに聞いたところ、“どちらでもいい”との返事だったので、やめました。まだ契約したわけではなかったので、レッスンに行かなくなっただけですが」(北原、以下同)

オスカープロモーションから声がかかる

 ほどなくモデル事務所としてすでに名を馳せていたオスカープロモーションからも声がかかる。最初のスカウトで自信を失っていた北原は、“私、ブスですけど、いいですか”と、連絡してきたマネージャーに聞いた。“なら、結構です”という展開にはならず、“とりあえず来てください”と言われた。

 オスカーでの北原の立ち位置はモデル。最初の3か月、メイクとポーズとウォーキングのレッスンを受けた。事務所の指示でオーディションをいくつも受けるなか、友達とたまたま遊びに行った男子校の学園祭で、偶然にも注目を浴びることになった。『週刊ヤングジャンプ』編集部主催の『学園祭ギャルコンテスト』をやっていたのだ。誘われるままに出場し、ミス・ヤングジャンプに選ばれた。

 カメラマンに気に入られた北原のもとに、オーディションとモデルの仕事が次々に舞い込んだ。銀行のイメージガールもそのひとつで、ハワイでポスターを撮ることになった。初めての海外。飛行機に乗るのも初体験だ。わくわくしていたら、成田空港でその気持ちが打ち砕かれる。

「“学校が厳しいので水着はやれない”とお願いしていたにもかかわらず、マネージャーから“ビキニだから”と言われたのです。初めて大人に騙されたと思いましたが、そのときの私は断る術を知りませんでした。裏切られた気持ちは後々まで尾を引きました」

 男性誌にレオタード姿の写真が掲載され、銀行には等身大の水着ポスターが張られた。それが通っていた私立女子校の先生や生徒の目にとまるようになる。ついには学校側から“学校か、仕事か”という選択を迫られた。他の生徒に悪影響が出るとにらまれたのである。しかたなく高校3年生からは公立の定時制高校に転校、野球部のマネージャーも経験した。

 このころの北原を知るのが、丸の内警察署で署長を務めるAさんだ。意外な組み合わせだが、他校野球部に属していたAさんが、練習の帰りに電車で見かけた北原を“ナンパ”したのがそもそものきっかけだった。

「当時、“可愛い女の子に自分の手帳に連絡先をもらうゲーム”が流行っていて。先輩にそそのかされて度胸試しに声をかけたんです。喫茶店でお茶をして、不思議と気が合い、電話で話をするようになりました。一度、豊島園でデートしたことも。ほどなく歌手としてデビューし、私も警察学校に入ったので連絡ができなくなりましたが、仲間には写真を見せびらかしましたね。彼女が警察官の採用ポスターになったときは、活躍しているなと思いました。私が月島署の署長をしているときに一日署長をお願いして、再会を果たしました」(Aさん)

花の82年組、新人賞レースへ

 それからの北原はすべてがとんとん拍子だった。まず1981年8月に『パンジー』というグループが結成される。オスカーが初めて手がけるアイドルグループだった。

「自分の知らないところで大人たちが動き、いろんなことが決まっていきました。パンジーのメンバーはあまりモデルっぽくないほうがいいとのことで、同じころにオスカーに入った三井比佐子ちゃんと、すでにモデルとして人気のあった真鍋ちえみちゃんの3人がメンバーに選ばれました」(北原、以下同)

 パンジーは雑誌の表紙やグラビアを数多く飾りつつも、3人そろって歌謡番組に出ることはなかった。その代わり、翌3月、北原がソロ曲『マイ・ボーイフレンド』でデビューしたのを皮切りに、各メンバーが相次いでソロ活動を始めた。それがオスカーのデビュー前の戦略だった。

「雑誌の露出がとにかく多かった。喫茶店でメンバーが座る前に記者が次々と現れ、取材を受けました。そうしてパンジーを売り出す一方、別々のレコード会社に所属した3人はそれぞれで新人賞を競い合いました。オスカーにしてみれば全員に力を注ぐのは難しく、なかなか関係がうまくいかなくなり、結局1年も行動を共にしませんでした。忙しすぎてあまり覚えていないのですが、本当に数か月だけだったと思います」

 そんななか、パンジーのメンバーがそろって撮ったのが映画『夏の秘密』。自殺した旧友の謎を探るというミステリーだ。若山富三郎さんや阿藤快さん、ビートたけしらが出演し、音楽は細野晴臣が担当するなど、豪華なキャストだった。

 北原が“さわやか恋人一年生”をキャッチフレーズにデビューした1982年は、中森明菜や小泉今日子、堀ちえみら個性ある新人アイドルが数多く誕生したことから、“花の82年組”と呼ばれ、今日まで語り継がれている。

 このとき北原は18歳。同年にデビューしたほかの歌手に比べて年上だった。2歳、3歳の差がとても大きく感じられ、彼女らが子どもっぽく見えたという。ただ実力が本当にある人、きちんとレッスンを積んでいる人たちの中で、自分は実力もなければ、レッスンもまともに受けておらず、新人賞レースに加わるのはつらかった、と振り返る。

「デビュー前にレッスンがなかったわけではありません。“練習してきて”と突然言われ、何をどうすればよいのかわからないまま、松田聖子さんの『風立ちぬ』を自分の部屋で自己流に練習しました。それで先生のところに行ったのですが、ピアノを弾きながらズッコケられて“キミ下手だね”と言われました」

 それでもライバルに引けを取らない強い存在感が北原にあったのはたしかで、'82年度中には『スウィート・チェリーパイ』『土曜日のシンデレラ』と矢継ぎ早にシングルレコードを発表する。

 まばゆい笑顔にチャーミングな振り付けは、男の子ばかりか、女の子も魅了。「親衛隊」と呼ばれるファン組織がつくられた。デビューに際しては“笑顔でね”と事務所に要求され、フリフリした服はいやだと思いながらも着せられ、自分に無理をしてアイドルであろうとしたが、デビューをして周囲の大人たちに褒められたことは、北原にとって生きていく自信につながった。親に褒められたことがなかったからである。

「私はもともと内向的な性格。小学校の学芸会ではセリフのない木の役になって、隠れていられるから安心だったくらい、人前に出るのが苦手でした。そんな私が、戸惑いながら周囲に流されて、あれよあれよとアイドルデビューしました。ただ、望んでアイドルになったわけでなくても、周りの大人が喜んでくれるのはうれしく、頑張ろうという気持ちがわいてきました」

 当時、芸能界では新参のオスカーにはテレビ局にコネがあまりなく、競合の参入を怖れた他の芸能プロダクションからの圧力もあったと噂される。そのためレコードが出るたび、北原は全国のレコード店をこつこつ回り、ラジオ局のサテライトスタジオで歌った。駅の地下街やデパートの屋上などで簡易なステージに立ち、歌うのである。

「オスカーさんはモデル事務所だったので、売り出しにはずいぶん苦労しているようでした。テレビの歌謡番組は芸能プロダクションに枠をすでに押さえられ、入り込めないからです。そこで週末のたび、北は北海道、南は九州まで、全国のレコード屋さんを回り、サイン会などをしていました。佐和子ちゃんはそれを嫌がらずにやってくれたので、どのレコード屋さんからも好かれ、いちばんいい場所にポスターを張ってくれたりしました」

 レコード会社のテイチクで北原の販売促進を担当し、一緒に全国を回った森茂雄さんはこう振り返る。他のアイドルと違ってキャピキャピしたところがなく、どこか翳りのある印象から、それまでのアイドル路線から新たな切り口で売り出したのが4枚目のシングル『モナリザに誘惑』だった。ヒット曲を連発させていた作詞家と作曲家のコンビに依頼し、イメチェンを図ろうとしたのだ。

「レコード会社のディレクターはポップス畑の人。最初の何曲かはアイドルっぽい歌でしたけど、急に難しい曲になっていきました。半音ずれてしまったり、レコーディングには苦労しました。もう少し私の実力に合った選曲をしてほしいと思ったほどです」(北原、以下同)

皆が私に背を向けた絶望

 デビューしたばかりのころは、街頭で歌うと目の前を通る人が皆、立ち止まった。だが、人気が低迷した途端、通り過ぎるようになる。

「皆が私に背を向けたと感じたときから、私の苦しみは始まりました。何も考えないまま、すべてお膳立てされてデビューし、このままいい状態がずっと続くと漠然と思っていたのに、そのすべてをすぐに失うことになるとは考えもしませんでした。なかなか現実を受け入れられず、立ち直れなかったです」

 10枚のシングルレコードと、6枚のアルバムを発表して3年の契約が終わったところで、北原は歌手をやめることを決意。レコード会社へ挨拶に出向いた。レコードを発売するたびに、多くの愛情を注いでもらい、時間を費やしてもらえたことに感謝しかなかった。

 アイドルとして歌うのはやめても、女優の仕事は続けた。演技指導も受けていなかったが、時代劇では重用された。小顔で首が長く、なで肩の北原は、かつらと着物が似合ったのがその理由だろう。

 演じることで心のバランスを取り、自分を取り戻せる気がした。だが『水戸黄門』の舞台では黄門役である西村晃さんから「北原の演技は下手すぎて、一緒にやりたくない」と言われた。芝居の勉強をしなかった負い目もあり、“教えてください”と何度も西村さんの楽屋へと足を運んだ。相部屋になった鈴鹿景子さんには口も利いてもらえず胃潰瘍を発症したことも。

「私が姫役、景子さんが側女のような役回りなので、舞台でもいつもそばにいたのですが、何を言っても答えてくれない。だけど、千秋楽の日“お疲れさま。本当によくやったわね”と言ってくれたんです。2人で抱き合って大泣きしたことはいい思い出。舞台の厳しさを、身をもって教えてくださったんです」

 京都の撮影所に行けば、張り詰めた空気のなか、何か失敗するたび、スタッフから“ボケ、カス”“あほんだら”と口汚く怒鳴られ、裏で泣いた。“あ〜、すいません!”と大声で言い返せるまで、ずいぶん時間がかかった。そうしているうち、“佐和子だから仕方ねえか”と言われるまでになる。

 厳しさも、そこに愛情を感じることができれば、どんなことでも受け入れられる、と北原は言う。そして、その人との関係は生きていくうえで大切なものになっていくのだ、と。

 歯を食いしばる日々のなか、24歳で友達の紹介で知り合った人と結婚する。

「結婚に救いを求めたところはあったと思います。結婚はタイミング的には、遅いくらいでした。30歳で別れましたが、ご先祖様とお墓参りの大切さは結婚で学ばせてもらいました」

 この間、27歳のとき、北原に大きな転機が訪れる。ヌード写真集を出したのである。仕掛け人がいたわけではなく、自ら申し出ての撮影だった。アートなものが作りたい。そんな思いから、信頼できるスタッフとともに準備をした。

「このお仕事が私にとって意味あるものになったのは、アイデア出しからすべてスタッフとともに納得して進められたからです。私はもともと、自分で立ちたい人だったんでしょうね。自分で確認しながら、納得してやりたかったんです。アイドル時代はすべてお膳立てされ、流されることに心地よささえ感じていた。ハワイで水着になったこともそう。あのときもし断れていたら、私はどうなっていただろうな、とよく考えます。たぶん私は私。何も変わっていなかったかな」

 北原は女優として『暴れん坊将軍』や『水戸黄門』、『はぐれ刑事純情派』、『牡丹と薔薇』などの作品に登場。テレビに欠かせない存在となり、その出演リストは膨大なものになる。近年は『こども食堂にて』という社会問題を問う映画にも出ている。

 だが、女優の仕事は不安定。数か月、仕事がないこともある。そんな状況に翻弄され、自分は社会から必要とされていないのではないかと思い詰めた。

 女優の空き時間に介護の仕事を入れることは、子どものころから親に看護師を目指すよう言われてきた北原にとって、ごく自然な選択だった。

介護への道も山あり谷あり

 女優を続けながら介護の仕事をするのは容易ではなかった。まず働く場所がない。30か所近い介護施設に電話しても、“いつ休むかわからないのではシフトが組めない”と断られた。最後の1軒、宅老所で“ごちゃごちゃ言わず一度来て”と言われ、ようやくスタートできた。しかし、女優・北原を知っている人もおり、最初は“何しに来たの”という雰囲気で、スタッフに受け入れてもらえなかった。

「認知症対応でない施設を探していたのですが、なんとか入れてもらえたところは認知症を受け入れていた。何をどうすればよいのか、どう向き合えばよいのか、まったくわかりませんでした。そのころはまだ、ホームヘルパー2級の勉強内容に、認知症のことがほとんど入っていなかったのです。それで掃除と洗濯ばかりしていましたね」

 所属事務所の理解も得られず、介護の仕事のことは一切言うなと釘を刺されていた。

「撮影を終えて施設の夜勤に入ったり、それはそれで楽しかったのですが、なぜ隠さなくてはいけないのか不思議でした。“仕事にあぶれた女優が介護をしている”とか、“介護を売りにしようとしている”といった噂が広まるのを心配していたのでしょうが」

 デイサービス事業所の勤務では、細かなことで小言を言われ“いつやめてもいい”と責められ続けた。精神的に追い詰められ、1年ほど介護の仕事を離れた。それでもまた現場に復帰し、さらに勉強を重ねて介護福祉士、ケアマネジャー、准看護師の資格を取得した。それほど介護に魅かれたのは、仕事を通じて北原が「人」を見たからだ。

「これまでを振り返って思うのは、本来、人間は自由だということ。何かにつけ物事にとらわれ、こだわってしまうけど、どう動こうが、どう考えようが、本当は自由なんですよね。人との関わりで、自分とは違う部分が見えると否定に走りがちだけど、この人はそういうふうに考えるんだ、と受け止めることが肝心なのではないでしょうか」

北原さんは掘り出し物

 北原が准看護師として働くのぞみメモリークリニックの木之下徹院長は、認知症訪問診療の第一人者として知られる。2人の出会いは古く、施設や勉強会ですれ違ってきた。

「仕事はまじめだよ。クソがつくぐらい。世間一般が元アイドルの彼女に対して抱いているイメージより、はるかにまじめで勉強家。正義感も強い。だから融通が利かないときもある。長年の介護を通じて感覚的に、経験的に理解した部分もあるかと思うけど、さらにその先があるので、いっそう深めていただきたい。もっともっと伸びる人だし、このクリニックでもすでに中心的な存在になっている。そして、社会がよりよくなるような言葉を発信できる存在になってほしい。北原さんは掘り出し物なんだよ」

「マイ・ボーイフレンド♪」と右手を振りながら歌った北原も還暦の年を迎え、同級生には親の介護をしている人も少なくない。母親が若年性認知症になった友人は、いつもおしゃれをして、年に1〜2回は海外旅行に行っていたのがすっかり地味になって、部屋も埃が積もっているのがわかるくらい汚れている。

「“せめて家をきれいにして自分を華やかにしてね”と彼女に伝えました。“認知症だからといって何も感じてないわけじゃない。あなたの姿を見てお母さんは切ない気持ちなのかもしれないよ。前みたいにおしゃれにしていてね”って伝えたのです」(北原、以下同)

 介護は簡単ではない。家族は四六時中、思いもかけないことに振り回されてしまう。医師を含め、介護する側は切り離せるが、それができない家族はどっぷりつかり、大切なことが見えにくくなる。その防波堤となれるのが行政であり、ケアマネジャーであると思い至った北原は、この12月からケアマネとして地域医療への取り組みを始める。

「資格を取ったとき、チーム連携を学びました。医師や看護師、理学療法士や作業療法士らを取りまとめ、利用者さんの介護プランを立てていくのですが、先生方の言っていることがわからず、なかなかイメージができませんでした。そのとき56歳。若い人たちと一緒に学んで、准看護師の資格を取ったのです」

 クリニックには車で出勤。車内で朝食をとり、SNSのフォロワーへの朝のご挨拶。毎回1000近くの“いいね”がまたたく間につき、コメントが多く寄せられる。

「もちろん私にも、つらいときも悲しいときもある。“芸能人はSNSにネガティブなことを書かないほうがいい”という声もあるけど、それじゃ人間味がないと思うんです。私もみんなと同じ、生きている人間。自分の感じたことを、今は素直に発信したい」

 アイドルとして華々しくデビューしたが、若いころにはどん底まで叩き落とされた。時にもがき、苦しみながらも明るく前向きに生きてきた。今、周囲に気を配りつつも自分を生きる北原がいる。元アイドルは骨太に超高齢社会を支えようとしている。

<取材・文/増田幸弘>

ますだ・ゆきひろ フリーの記者・編集者。スロバキアを拠点に、国内外を取材。主な著作に『プラハのシュタイナー学校』(白水社)、『イマ イキテル 自閉症兄弟の物語』(明石書店)などがある。

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