映画『ある男』は在日コリアン3世をどう描いたか。呪いのような「蔑みのセリフ」が浮き彫りにしたこと

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2023年11月27日 17:10  CINRA.NET

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Text by 生田綾
Text by 韓光勲

平野啓一郎の同名小説が原作で、妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝らが出演する映画『ある男』がAmazon Prime Videoなどで配信中だ。死後に別人と判明した男の身元調査を依頼された弁護士が、他人として生きた男の真実を追う物語で、『第46回日本アカデミー賞』で作品賞など最多8部門を受賞した。

主人公の弁護士・城戸章良(妻夫木聡)は在日コリアン3世という設定だ。自身も当事者であるライターの韓光勲は、在日コリアンが置かれている境遇や当事者の複雑な心情が、本作では繊細に表現されていると指摘する。人間のアイデンティティーのあり方を根源から問いかける本作について、レビューを執筆してもらった。

現在配信中の映画『ある男』は、自分の名を捨て、他人として生きることを選んだ男を描いた作品だ。

物語は、夫と離婚して長男とともに地元に戻った里枝(安藤サクラ)が、林業に従事する寡黙な青年・谷口大祐(窪田正孝)と出会うところから始まる。ふたりは結婚し、新たに子どもも生まれ幸せな日々を過ごしていたが、ある日大祐は仕事中に不慮の事故で命を落としてしまう。そして、疎遠だったという大祐の兄・恭一(眞島秀和)が法要に訪れ、遺影を見て「これ、大祐じゃないです」と衝撃の事実を告げる。

愛したはずの夫は、「谷口大祐」とはまったくの別人だったのだ。「大祐」は誰だったのか。里枝は離婚調停の際に世話になった弁護士の城戸(妻夫木聡)に身元調査を依頼する。城戸は「大祐」を「X」と呼び調査を始めるも、別人として生きることを選んだ「X」の正体を追ううち、城戸の心に「X」への複雑な感情が生まれていく……というあらすじだ。

城戸は「在日3世」という設定である。高校生のときに帰化し、いまは日本国籍を持つ。その境遇は、作中のふとしたシーンで提示される。

城戸が妻の香織の両親と食卓を囲む場面。香織の父は生活保護制度への歪んだ偏見をあらわにしながら、「在日とかそういう連中の面倒みる余裕なんかいまの日本にはないんだよ」などと口にする。それを聞いた香織の母は、「章良くんは全然別だよ?」「章良さんは3世じゃない。もう3代経ったら日本人よ」などと「フォロー」するのだ。

筆者は城戸と同じ在日コリアン3世である。このシーンを見ていて、とても居心地が悪くなった。香織の父の発言は言うまでもなく差別的だし、香織の母の「3世だから立派な日本人」などという言い方はマイクロアグレッションである。「小さな攻撃」と訳されるこの言葉は、相手を差別したり傷つけたりする意図がなく、明らかな差別と見えなくとも、先入観や偏見を基に相手を傷つけるような行為を指す。

もし筆者が城戸であったなら、義父母に対して発言の問題性を指摘したいと思ったが、城戸は何も反論しない。このシーンの妻夫木聡の演技が絶妙だ。少しうつむいて、人のよさそうな微笑みを浮かべるだけなのだ。義父母からは目線を外し、何も話さず、ただその場を「やりすごす」ことだけを考えているように。

これが現実なのだろう。筆者も義父母に反論するための想定問答は書けるが、実際にそういう場面になると、反論はできないのが正直なところだ。その場の空気が凍り付くことが想像できるし、「こざかしい、ややこしい人間」だと思われたくないという不安があるからだ。

このように、当事者が自ら反論することは難しい。だから本当は、理解者であるはずの妻の香織に反論してほしいのだ。しかし、香織は何も言わない。

このシーンがあらわすのは、城戸と妻のあいだには埋められない溝があるということだ。おそらく香織は在日コリアンをめぐる複雑な問題への理解がないし、関心もあまりないのだろう。なるべく触れないようにしているのが分かる。

じつは、原作小説の方では城戸の内面や心象風景について多くのページを割いて描かれているのだが、映画では「在日3世」であるということはあくまで城戸の人格の設定のひとつとして提示されるだけである。石川慶監督はパンフレットに掲載されたインタビューで次のように説明している。

「城戸が在日韓国人三世であるという設定について(脚本の)向井さんとよく言っていたのは『これは多様性の一要素として当たり前に出したい、デリケートな問題と思わずに描きたい』と。アメリカ映画では主人公がスペイン系であるとか、アイルランドからの移民だとか、キャラクターのひとつの特徴としてバックボーンが描かれて、エンタメとしての強度にもなっている。世界的な潮流に反して、日本だけ国籍差別問題に触れてはいけないというのは気持ち悪いね、と。城戸の人格を構成する一面のひとつとして、弁護士であること、奥さんと不和であること、加えて在日としての居心地の悪さもある」 - 筆者は当事者でもあるので、フィクション作品で在日コリアンという設定が出てくるとどうしても身構えてしまうのだが、本作は当事者が置かれた境遇や心情をリアルに描写していると思った。城戸が感じている「居心地の悪さ」は直接言及されずとも何気ないシーンのなかで巧みにあらわされる。そして妻夫木は、在日コリアンがこの社会に生きるうえで日々抱えている悩み、心の襞の一つひとつまでをも繊細に表現していた。セリフで説明するのではない。表情、顔のうつむき加減、身のこなし、歩いているときの後ろ姿、背中……。全身からにじみ出ていた。

妻夫木はパンフレットのインタビューで次のように語っている。

「日本社会でときに差別的な扱いをされることは本人にしかわからない、けれどそのことを親しい人たちに安易に聞くことをしたくないし、考えていますという演技はしたくなくて、(中略)日常を淡々と演じることに集中しました」 - この姿勢が、城戸という人間の等身大の姿を演じることにつながったのだろう。

そして、鮮烈なインパクトを残すのが柄本明演じる戸籍交換のブローカー・小見浦憲男だ。城戸は事件の真相をつかむため、服役中の小見浦と面会するのだが、この小見浦がクセのある関西弁を使って、いちいち耳に残る言葉を吐く。

印象的なセリフがある。差別言動を剥き出しにすることを厭わない小見浦が、城戸に対して「先生かて、在日が嫌で(戸籍を)交換したいと思ったことあるでしょ。先生は在日っぽくない在日ですね。それはつまり、在日っぽいってことなんですよ」と挑発するセリフだ。

筆者はこのシーンを目にして、「一番言われたくないことを言われてしまった」という悔しさでうなってしまった。

その理由を伝えるには、そもそも、なぜ在日3世である城戸が弁護士という職業を選んだのか、説明が必要だろう。

在日コリアンの家庭では、学校での成績がいい子どもは「将来は医者か弁護士だ」とよく言われてきた。就職差別などの制度的差別を長年にわたって受け続けてきたためだ。医者と弁護士は国籍差別が少なく、資格さえ取ってしまえばその後は安定するし、社会的なステータスも高い。そういう事情から、「将来は医者か弁護士」と言われるのだ。

就職差別を象徴する事件が1970年代の「日立就職差別裁判」である。在日韓国人であることなどを理由に採用を取り消された当時19歳の青年が、日立製作所を横浜地裁に訴えた裁判だ。1974年に地裁は不当な民族差別を認定し、原告である青年への全面勝訴判決を言い渡した。この裁判を機に就職差別はだんだんと解消されていったが、「差別がなくなった」と言うにはまだほど遠い。関西学院大学人権教育研究室の調査では、在日コリアン、留学生を含む外国籍(留学生を含む)など、外国にルーツのある学生の4割が就活中に差別・偏見を感じたと回答している(*1)。

そのため現在でも「将来は医者か弁護士」という言説は一部に残っていて、筆者も法学部に入ったとき、「将来は弁護士か」と親戚からよく言われたものだ。

城戸が弁護士になった背景にも、こうした事情があるのだろう。原作では、城戸は父から「就職差別もあるから、何か国家資格を取った方がいい」と助言されている。城戸はコリアンタウンでもない金沢のとある町で育ち、「李」という苗字を使っていた頃も差別というものをほとんど経験せずに育ったという。そして、高校時代に両親と一緒に帰化をした。韓国で生活したことがない城戸は、両親から「民族意識」を説かれたわけでもなく、国民としての「実体」が韓国にないことは事実だった、と平野は書いている。

城戸は人生のなかで自分の国籍について深く考える経験はあまりなく、東日本大震災の発生やヘイトスピーチの蔓延以前は大した差別の記憶もなかった。つまり、城戸は「差別をはね返して力強く生きる」というような、小見浦の言葉を借りれば、いわば「在日っぽい」経験はあまりしていないことになる。ある意味、「普通の日本人並み」に生きてきたのだ。

そのようなバックグラウンドを持つ城戸を、小見浦は「在日っぽくない在日ですね。それはつまり、在日っぽいってことなんですよ」と蔑むのだが、筆者がこのセリフを聞いて「一番言われたくないこと」だと感じた理由は、筆者自身にも心当たりがあったからだ。

筆者はかつて新聞社で記者として働いていた。医者や弁護士ではないし、かといって在日コリアン1〜2世に多かった自営業や個人事業主でもない。日本語を用いた文筆業でもあるので、あらゆる面で「在日っぽくない職業」をみずから選んだつもりだった。でも、そのような意識を持っている時点で、すでに「在日っぽい」のではないか。いわば「在日っぽくない」と思われるように、肩肘を張っていたのではないか。小見浦の言葉を受けて、筆者はそのように自分を省みた。小見浦の嫌らしいことこのうえないセリフは、そうした当事者の心情をわかったうえで侮辱しているように感じ、だからこそ悔しかったのだ。

城戸は、とても人当たりがいい。相談者の依頼に親身になって応じ、初対面の人でもうまく接して話を引き出す。

在日コリアン1〜2世は、国家や社会からの直接的な差別をはねのけ、それに打ち勝ってこなければならなかった世代だ。その一方、在日コリアン3世の世代になると、制度的・社会的な差別は徐々に解消されてきた。筆者自身も、国籍が理由で不自由な思いをしたことはほとんどない。しかし、国の官僚にはいまでも国籍を理由になれないし、地方公務員は管理職になれないなどの制限は現在でもあるし、地方参政権は認められていない。国籍による差別が完全に解消されたわけではない。

とはいえ、城戸はヘイトスピーチの蔓延以前は直接的な差別経験を持たず、それに打つ勝つための「強さ」が必要とされなかったのではないかと推察できる。だから、城戸は人当たりがよく、親身で、お人好しな性格としてキャラクター造形されているのだと思う。

そんな城戸を「在日っぽい」と言って、スティグマ(人の差別や悪感情、攻撃の材料にされるような特徴)を貼り付ける小見浦の言葉。日本国籍を取得しても、いつまでも「在日」と呼ばれる現状。実際、原作では、城戸はネット上で「在日認定」(在日コリアンであると認定され、誹謗中傷を受けること)をされている。筆者にとって、小見浦の言葉は「お前はいつまでも差別されるべき在日なのだ」と聞こえた。これを言われる悔しさは筆舌に尽くしがたい。

小見浦の言葉に打ちのめされたものの、筆者は、弁護士である城戸が仕事に臨む姿勢と、それによって生まれる依頼者の里枝との信頼関係に一つの希望を感じた。

城戸は調査を終えた後、詳細な報告書を里枝に手渡す。城戸は「彼(里枝の夫)は本当に幸せだったと思います」と告げる。里枝はその言葉を飲み込むようにうなずき、自らの思いを率直に述べる。城戸と里枝の間には、依頼者と弁護士という関係性を越えて、たしかな信頼が生まれているように見える。当たり前のことかもしれないが、人と人は生まれや育ちの違い、立場を越えて、手触りのある信頼関係をつくることができるのだ。この映画でクライマックスとなる感動的なシーンだった。

在日コリアンの一当事者という目線で本作を論じてきたが、前述したように、あくまでその要素は主人公の城戸を構成する一部でしかない。彼にはさまざまな側面があり、そのなかには読者が共感できる一面が必ずあるはずだ。あらゆる人にとっての「隣人」として、城戸は描かれている。

そして、『ウォーターボーイズ』(2001年)、『ジョゼと虎と魚たち』(2003年)など日本映画史に残る作品に出演してきた妻夫木聡という俳優が、この役柄を見事に演じきったという事実を筆者は寿ぎたい。彼にとっても一つの達成になったはずだ。

なにより、美術、照明、音響、音楽、撮影……、そして当代一流の俳優たちの演技。どれをとっても、日本映画界の超一級の技術がふんだんに盛り込まれた作品だ。ここでは十分に論じられなかったが、安藤サクラの、涙の一滴にまで神経が注がれたような繊細な演技には惚れ惚れした。窪田正孝が木を切り倒すシーンは見ていてうっとりした。二人が笑い合っているシーンを再見すると、幸せな気持ちになったのと同時に、無性に悲しかった。いろんな感情をかき立てる作品だ。

本作は日本映画史に残る傑作だと思う。映画を見たあと、とにかく人と語りたくなる後味を残す作品だ。公開から少し日は経つが、配信などで、ぜひご覧になってほしい。
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