セレッソ大阪一筋15年 GKキム・ジンヒョンが日本語習得で最初に戸惑った関西弁は?

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2024年01月15日 07:21  webスポルティーバ

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韓国人Jリーガーインタビュー 
キム・ジンヒョン(セレッソ大阪) 前編

Jリーグ30年の歴史のなかで、これまで多くの韓国人選手がプレーしてきた。彼らはどのようなきっかけで来日し、日本のサッカー、日本での生活をどう感じているのか。今回はセレッソ大阪で何と15シーズンもプレーし、外国籍選手としてJリーグの単一クラブ最長在籍記録、J1通算最多出場記録を更新中のGKキム・ジンヒョンに話を聞いた。

後編「キム・ジンヒョンが振り返るセレッソ大阪での15年」>>

【初めてピッチで使った日本語は「寄せろ」】

 ヨセロ。

 韓国語じゃない。日本語の「寄せろ」。

 キム・ジンヒョンははっきりとその単語を覚えている。味方DFに「相手に近づいて(体を寄せて)シュートを打たせるな」という意味だ。

 韓国の大学卒業後、2009年からセレッソ大阪一筋でプレーしてはや15年。Jリーグの外国籍選手の単一クラブ最長在籍記録、そして外国籍選手としてのJ1通算最多出場記録も有する。

 そして、いまや歴代コリアンJリーガーのなかでも有数の日本語の使い手でもある。時に「あら? 日本育ちだった?」と錯覚することもあるほどだ。

 そんなジンヒョンが、なぜこの単語を覚えているかと言うと――。

"初めてピッチで使った日本語"だからだ。2009年シーズン開幕前にトレーニングマッチを重ねていた頃だった。

 理由は「必死だったから」。

「最初は練習生として日本に来たんですよ。2008年、大学3年生の頃でした。練習生どころか、エージェントの勧めで(Kリーグで当時行なわれていた)ドラフトの前に『ちょっと日本で練習してくるか?』と言われ、数日間の日程で行ったんです」

 そこで192cmの長身GKはプレーを認められた。韓国でのドラフト申請を撤廃し、Jリーグ行きに急転換。当時J2リーグの開幕に臨んだチームにあって、いきなり出場機会を得たのだった。

「日本語もまだよくわかっていない状況でした。でもとにかく、僕は失点を防がなくてはならなかったんです。必死でした。キャンプ中のホテルで同室だった石神さん(石神直哉)になんとか聞きました。

『相手FWにシュートを打たせないための味方DFへの指示は、日本語でなんと言えばいいか?』という内容を。その答えが『寄せろ』でした。FWとの間合いを詰めて、シュートを打たせるな、と」

 日本語は、自分なりに本を読んで勉強しているつもりだった。でもそこは大阪の地、その学習法には決定的な「欠陥」があった。

「本には『本当ですか?』と書いてあるのに、実際には『ホンマに』と言っていて...」

【若い頃の日本選手の印象「自由だし、かっこいい」】

 幼き日のキム・ジンヒョンは、セレッソ大阪というクラブが「かつて韓国人の超大物プレーヤーが所属したクラブ」という事実をまったく知らなかった。1987年生まれの自身が10歳だった1997年から高正云(コ・ジョンウン)、黄洪善(ファン・ソンホン)、尹晶煥(ユン・ジョンファン)、河錫舟(ハ・ソッチュ)、盧廷潤(ノ・ジョンユン)らが一時代を築き上げた。いずれも韓国代表でワールドカップでも活躍した選手ばかりだ。

「サッカーをやることは好きだったんですけど、観ることはあまりなかったんですよ。僕、1987年生まれですから1998年フランスW杯時は、小学5年生(11歳)で、すでにサッカーを始めていました。でもまったく関心がありませんでしたね。ワールドカップの記憶は2002年からで...」

 1997年9月28日には韓国で「東京大捷(大勝)」として語り継がれるフランスW杯アジア最終予選でのアウェー勝利もあった。しかし日本代表の山口素弘によるループシュートのあとの自国の劇的な逆転勝利の姿も「なんか、あとで話を聞いた程度」だという。

 それどころか、日本に関しても無関心。周囲の友人たちはアニメなどに関心を示したが、自身は「とにかく外で走り回るのが好き」なタイプだった。つまりは、自分のプレーにだけ夢中。日本に関する情報などは周りから聞くものばかりで、年代別代表に選ばれるなかで「ライバル関係がわかってきて、勝たないといけない」と考えはじめたというところだった。

 数少ない日本との直接的な縁で大きかったものは、10代の頃に一度、韓国U−18代表時代に日本に遠征で来たことだった。

「ユースの大会で新潟に行きました。街なかの雰囲気が韓国とはまったく違って新鮮だったのですが、より驚いたのが対戦した日本の若い選手たちの姿でした。髪の毛が長くて、染めている選手もいた。自由だし、かっこいいなと思いました。

 プレースタイルも細かくて、多彩で。韓国がスピードを重視し、よりダイナミックにプレーしたのに対し、日本はもっとパスを重視していましたね」

 その時に対戦した日本代表に「モリシがいたんですよ」。

 彼が「さん」づけをしないのは、それが元日本代表で現セレッソ大阪社長の森島寛晃ではなく、メディアやファンの間で「デカモリシ」とも言われた森島康仁のことだから。もちろんその時のキム・ジンヒョンはのちの日本、セレッソ大阪との縁など知る由もなかった。

【日本に来て感じたプレー面の壁】

 結果的に、エージェントの後押しから飛び込むことになったJリーグの世界。

 そこで感じたのは、言葉の壁だけではなかった。まさに10代の頃に感じた日本の「細かくて多彩」な点が、自分の身にも降りかかることになった。

「僕、GKの位置からパスをしたことがなかったんです...」

 GKというポジションにあって、韓国では「遠くにボールを蹴ること」が求められていた。

「韓国はスピードに重点を置いたサッカーだったので、一気に前に行こうと。でも、日本ではパスを求められた。すると強さや弱さのコントロールが必要になるので、それが本当に難しかったんです。韓国で築いてきたサッカー観が大きく変わった瞬間ですね。精密な技術が必要だと気づきました」

 2009年、Jリーグデビューを果たした頃のことだ。日本文化への適応が必要だったが、キム・ジンヒョンはこうやって解決していった。

「加入後、すぐに試合に出ることになり『じっくり克服しよう』というのが許されない立場でした。緊張感のなかでどうにか克服しなければならないという...。

 その時に思ったのが『とにかく無心にやり続けること』。すると自然と自信がついてきたんです。とにかくポジションを失わないように、トレーニングと試合を繰り返していけば、自然に克服できるのではないか。そう考えるようになりました」

 実践、実践、実践。理論よりも実践。そういった時間をただひたすらに過ごしていったのだった。

 ちなみに多くの韓国人Jリーガーたちが当惑してきた「先輩・後輩の関係」については、キム・ジンヒョンには「後輩から先輩のベクトル」はそんなに日韓の違いがあるように感じられなかった。ただし「先輩から後輩」はちょっと違った。

「最近では、韓国でも後輩が先輩をイジったりというのはあるんです。日本も似てますよね。でも先輩が後輩に接する態度が少し違ったように感じました」

 韓国ではいったん後輩が「ヒョン(兄貴)」と呼ぶようになれば、先輩は徹底的に面倒を見る。度々食事に誘い、ふだんから「どうしてる?」とスマホにメッセージを送り様子を気にかける。そういった濃厚な関係性が、日本には薄いのかな、とも感じたりした。

後編「キム・ジンヒョンが振り返るセレッソ大阪での15年」につづく>>

キム・ジンヒョン 
金鎭鉉/1987年7月6日生まれ。韓国京畿水原市出身。東国大学から2008年に練習生を経てセレッソ大阪に加入。翌2009年シーズンから今年で15年間、セレッソでプレーし続けているレジェンドGK。外国籍選手としてJリーグの単一クラブ最長在籍記録、J1通算最多出場記録(376試合/2023シーズン終了時)を更新中。韓国代表には2011年から招集されていて、2018年ロシアW杯のメンバー。

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