原作の解像度を高める『カラオケ行こ!』、“監督×脚本×俳優”が見事に溶け合った実写映画化

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2024年01月18日 08:21  cinemacafe.net

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『カラオケ行こ!』©2024『カラオケ行こ!』製作委員会
和山やまの人気漫画を監督・山下敦弘、脚本・野木亜紀子、綾野剛と新鋭・齋藤潤の共演で映画化した『カラオケ行こ!』が好評だ。1月12日に劇場公開され、綾野さんが演じたヤクザ・狂児や齋藤さんによる合唱部部長の中学生・聡実に“沼る”人々が続出。オリジナル展開含めて原作ファンからの満足度も高く支持されている。早くも、原作の続編である「ファミレス行こ。」の映画化を熱望する声が高まっているほどだ。

では具体的に、どういった部分が実写映画『カラオケ行こ!』の魅力なのか? その一端を紹介する前に筆者の背景を軽く説明させていただくと…元々和山作品の愛読者で、映画版でオフィシャルライターを務めた立ち位置。そういった前提で、以降の原作ファン目線の文章を楽しんでいただければ幸いだ。

原作と重なる、山下敦弘監督の“観察目線”

実写映画化するうえで、「和山作品が持っている独特の空気感をどう実写にするか」は難しい問題だ。そもそも本作は「カラオケ大会で最下位になりたくない(ダサい刺青を彫られるから)ヤクザが、合唱部部長の中学生に歌のレッスンを頼む」という荒唐無稽なもの。ただそれをハイテンションに描くのではなく、かといっていわゆる“ゆるい”脱力系のトーンで描くでもなく、独特の浮遊感がきちんとリアリティをもって存在している「ありそうにないことが受け入れられる可能性を有した」抱擁感のある世界にせねばならない。

だが実際の風景が画面に映り、生身の人間が演じる以上どうしたって生々しさは付いて回るし、下手に削除しようものなら浮いたコメディになってしまう。そんな中で輝きを放ったのが、2つのコラボレーション。一つは「山下ワールド×野木脚本」であり、もう一つは「新鋭俳優×ベテラン勢」だ。こちらの項目では前者について紹介しよう。

山下監督といえば近作『1秒先の彼』でも顕著なように、原作から数センチ浮いた空気感が持ち味。カットを細かく割らずにやや引きの視点&間をしっかり取って登場人物の“おかしみ”を浮かび上がらせる手法が、「紅」を熱唱する狂児を冷めた目で見つめる聡実の心情というよりもその光景“自体”のファニーさを強め、観客の心理にリンクする。

橋本じゅんややべきょうすけ扮する強面ヤクザが意外な選曲を歌い上げるシーン自体にはある種の王道ギャグ的なあざとさがあるが、それをこれ見よがしに演出するのではなく、ただただ“観察”するテンションは、和山作品のカメラポジションと絶妙にマッチしている。

白眉と言えるのは原作の特色であるモノローグ(聡実によるツッコミ)を省いている部分で、笑いをもたらすギミックを手放して情報/要素を減らし、画全体でニヤッとさせる映画ならではの手腕は実に見事。

現実的な「時代の流れ」を盛り込んだ野木亜紀子の脚本

そして、野木氏によるオリジナルエピソードの数々。特筆すべきは「時代の流れによって廃れ、失われゆくもの」の悲哀を混ぜ込んでいるところだろう。例えばヤクザという存在。綾野さんが主演した『ヤクザと家族 The Family』でも描かれたように、暴対法等によって居場所を奪われていく彼らの姿が、再開発によって消えていく街の風景とオーバーラップする構造になっている。

そしてまた、聡実は中学3年生であり、近いうちに卒業し、合唱部や学び舎を離れる運命にある。狂児と聡実の関係はもとより期間限定であり、様々な形で「別れ」が暗示されている点が秀逸だ(さりげない形で交わされる映画と動画の違いも「時代の流れの無常観」を強める重要なキーとして機能している)。

原作のドラマ面での重要なポイントは、狂児と聡実の友情だろう。その部分が強化されるだけでなく、あまつさえ切なさを掻き立て、かつ我々観客が実感している時代性(コロナ禍で街の風景や居場所がなくなる哀しみはより強まった)をも盛り込むこと――山下監督の原作との親和性、野木氏の観客との親和性が溶け合ったことで、笑えるだけでなくより“エモい”作品へと進化した印象だ。

綾野剛・齋藤潤が提示した、“肉体化”の方法論

現実感と浮遊感が組み合わさった世界観が構築されたうえで、躍動したのが綾野剛と齋藤潤。彼らの演技にも、リアルとフィクションが混ぜ込まれていった。ひとつは「ドキュメンタリータッチ」であるということ。齋藤さんはオーディションで選ばれた新鋭で、入念なリハーサル等を踏んだうえで撮影に臨んだというが、それでも彼自身が感じていた大役への不安や緊張を隠し過ぎずにむしろ生かして聡実の説得力を持たせていった(そもそもヤクザと2人きりでカラオケルームにいる状況は中学生にとって恐ろしいものだろうし、それでも歌のことになると妥協できずに手厳しくなる、という聡実のキャラクター性も強化されている)。

最大の見せ場は終盤の熱唱シーンだが、声変わりの具合や安定せずとも魂で歌う必死さ等々、真に迫った熱演に原作ファンは「なるほど、あのシーンは(実際には)こういう感じだったのか!」と膝を打つのではないか。原作の解像度を高めてくれるような存在感が、齋藤潤には備わっている。

そして、綾野剛の原作理解度。彼に公式インタビューを行った際、「聡実と狂児が噛み合ってはダメ」と難しさを語っていたが、俳優的な快感(対話が成立し、お互いに高まっていくグルーヴ感)を良しとせず、作品ファーストで「浮く」ことに果敢に挑みに行った結果、狂児の「話しやすいナイスガイだが、どこかわからなさ・読めなさがあるそこはかとない怖さ」という絶妙な塩梅が生み出された。

狂児が「紅」を熱唱する(裏声も含めた入り込み&パターンの多彩さ!)シーンにはつい笑わされてしまうのだが、その奥にはようとして知れない・近づけない別世界の人間であるという部分が確かに感じられ、表層的な「キャラクター」になっていない。

漫画の実写化は、ビジュアルメディアからビジュアルメディアへの変換だ。そのため見た目を寄せようとするアプローチ自体は王道ではあるが、避けねばならないのは「外見に中身がついていっていない」状態。むしろ、本質が合致していれば「ビジュアル的な原作再現度」は最優先事項ではない、と考える人が多いのではないか。

映画『カラオケ行こ!』の狂児は原作のようにオールバックのヘアスタイルではないが、本質/魂の部分で「これは狂児だ!」と十二分に納得できるからこそ、原作ファンからも厚く支持されているのだろう。




(SYO)

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  • ライターさんには悪いが、原作付きなら「ビジュアル的な原作再現度」は最優先事項派です。
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